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何もしない事のリスク

人間はいつだって周りを気にしてしまう生き物である!!!

ジャンプの主人公とかはまた別の部類になるけど、基本的に現実にいる人間は他者の目を気にして生きている。

今回はそんな同調圧力や空気を読む事に慣れすぎて、自分の行動が制限される事の生きづらさとリスクについて記載!

1つ例を出します。

自分1人で行動している時に電車の中で自分が座っていてご年配の方が立っていたら席を譲りますか?

よくあるパターンだけどこんな問題を考えてみる!

答えはYES/NOの2択で答えられるのでどちらかに分かれるはずで、100%全員が一致する事はないと思う。

ちなみに私の答えはYESだ!
そして、これを読み終わった後には是非貴方もYESに傾いていてほしい!◎

NOの人は、下記のような理由があると思う。
・断られる可能性もある。
・都会では譲っていたらキリがない。(私も東京在住なので良く分かる)
・ご年配の方は次で降りるかもしれない。etc…

どれも共感出来るし、理解も出来る。
ただ、どれも羞恥心や面倒くささを隠すための言い訳自己完結型である。

だって、逆の可能性もあり得る訳で
断られない可能性もあるし、次で降りない可能性もある。
であれば、1度聞いてみるのはありだよね!
『この席変わりましょうか?』の一言だけ!

まあ、今回は例だからこの問題を深堀りはしないけど、この問題から伝えたい事は表題に行き着いて『行動』する事の重要性。

特に自分が深い関わりのないコミュニティや環境下において、自分が思った通りの行動を出来る人は意外と少ない。
電車の中の例もそうだけど、"行動が原因で何らかのネガティブな事象が自分に被るのが怖い"から。
ネガティブな事象は、恥とか叱責とかが主かな。

で、これが出来ないと、意外にも重要な状況でも他者の意見に流されてしまったりとか自分自身の本当の気持ちの通りに動けない状況に繋がる。

人間は普段行っていない事は、慣れていない状況で出来ないし、普段行っている事は潜在的に実行しやすくなっているから。(ある種恒常性だね)

重要な局面は、例えばもしも遠くに住んでいる家族が事故にあった場合とか。
大至急来て下さい。と言われて向かうけど向かう手段は電車しかない。
電車は全力で走らないと間に合わない。
ただ、その時間は人で大混雑している。
どうしても涙が止まらない中で、全力ダッシュ出来ますか?
全力ダッシュしてもギリギリドアが締まりそうだった場合、大声で『乗ります!!』と意思を伝える事が出来ますか?
走っている時も電車に乗る時も乗った後もずっと大衆に見られて正直とても恥ずかしいですが、それをした結果無事に電車に乗れるかもしれない。

恐らく、そんな大至急!!という状況でも周りの目を気にして小走り・涙はこらえる・電車が行きそうであっても意思表示出来ない人は多いと思います。
ただ、それはもしかしたら一生の後悔に繋がるかも。

つまり重要な局面であれば特にだし、普段からもだけど自分の本当の気持ちの通りに行動したいし、周りの目を気にしすぎずに行動できる方が人生を主体性をもって生きている感じがするよね。

今は自分の人生、自分が主観で主人公の映画。
その局面(電車の中など)だけ見たら、他の人の目が気になるかもしれないけど100年間の映画と考えると、全員1秒も思い出さない位のエキストラ。
そして、自分もその行動を見ている周りの人達の主観からしたらエキストラ。
ただ、行動している分その人の映画の中では3秒くらい思いだしてもらえるかも!

大事な時、自分を動かしてくれるのはいつもの自分の行動。
街を掃除してくれている人がいたらありがとう!とお礼を伝えますか?
近所の人に笑顔で挨拶しますか?
電車の例でも、席を譲るではなく困っている人がいたら助けますか?
道に迷っている人を見つけたら声をかけてあげれますか?

小さな行動をするタイミングはいくらでもある。
その1つ1つの機会を積み重ねる事が、ゆくゆくは自分の行動力や同調圧力への耐性にもなっているのかもね!

書きたいこと多すぎて纏めるのが難しいけど、今日はこの辺で!

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