見出し画像

バチェロレッテ3:「真実の愛」なんてつかめないからこそ,いろんな結末を排出しながら続いていく

(注:ネタバレを含みます)

大事な知り合いが出ていたから真剣に観た

バチェロレッテ3は真剣に観た。
真剣に観たのは,大事な知り合いが出てるからだが,
実は私は,これまでのシリーズも全部観てる。
バチェラーシリーズ,始めの頃は
女性の化粧と衣装のきらびやかさと,
あんまり他の番組ではしっかり見ることがない「嫉妬」の表情が映ってるところが面白いと思ってた。

(今作はそれで言うと,各種の「なんともいえない表情」が映ってて
それは「嫉妬」以上に興味深かった。)

好きだと言うのはちょっと気が引ける番組

そう,好きなくせになんだかちょっと
「バチェラーシリーズ大好き!」って大きな声で言うのは
気が引ける・・・そんな人は多いのではないでしょうか。

その理由はたぶん、ちょこちょこ「真実の愛」を探すっていうフレーズが出て来る度に(そんなの,こんな限られた期間,こんな着飾り倒した非日常の世界で見つかるわけないじゃん)と馬鹿にしたいような気持ちがわき上がってくるところとか,
出演者が「この旅が・・・」って言う度に,
(なんか・・・「旅」って呼ぶように言われてるのかな?
出会って別れるからかな?でも,旅というより社会実験じゃない?でも「この社会実験に参加して・・・」なんていうとロマンチックじゃないもんな)
など,どうも余計なことを考えちゃうような気恥しさがつきまとうからだと思う。

じゃあ何が面白いのか

そういう気恥ずかしさは横に置いてしまえば、この番組は本当に面白い。
何が面白いのかというと,
「真実の愛」というつかみどころのない理念を
「一番最後まで選ばれ続けた人とカップルになり,のちに結婚すること」
という、お姫様と王子様が出てくる物語で実装しようとしているにもかかわらず,それ以外の結末(別れる,番組で選ばなかった人と結婚,誰も選ばない,離婚するなど)しか今のところ出てないところである。
この設定ではそのエンディングにたどり着けないんじゃないの?
(=無理ゲーということ)を、いまのところ実証し続けているところ。

なにより、当の番組が、まだ「真実の愛仮説」は崩さないながらも,
「それ以外」ばかりのエンディング容認してきているのが,
なんか柔軟性があっていい。
みんなももう「今回はどんな『それ以外』」が出るんだろう?まだバリエーションあるかね?という点を楽しみにしてるんじゃないのか。

リアルタイム視聴した感想、前半

なんせ私にとっては,
今回は大事な知り合いが出てるのだから
いつもより早めに仕事を切り上げたり,
夜更かししたりを駆使してリアルタイムで視聴した。

ラストまで観て今作、バチェロレッテ3の面白さは,
これまでのバチェラーシリーズとは完全に異質で突出していると思った。

さっきも書いたけど,
番組の設定した「真実の愛仮説」は,
どうも人間の実態とはそぐわないようだ。

それは,これまでの7つのシリーズ(バチェラー5つ,バチェロレッテ2つ)でどんどん浸透してきてはいた。

それでも一応,番組の前半までは,
ちゃんと男性たちがバチェロレッテのことを
「誰もが欲しがるパートナー」として捉えることができていたと思う。
理性で自分の行動を制御して
ゲームを成り立たせる方向に合わせなくても
ちゃんと前向きなワクワク感をもってゲームはスタートしたし,そのまま進行しそうな勢いもあった。

早々に「何かがおかしい」感が忍び寄る

けれど,かなり早い段階で
その勢いは陰りを見せ始めた。
それはもう,最初のパーティの開始直後、
バチェロレッテがぐっちに薔薇を渡したあたりから始まっていた。
あのファースト・インプレッション・ローズの渡し方は、なんか猫だましとか飛び蹴りみたいな
奇襲的先制攻撃技のように見えた。

ワクワク感あふれる雰囲気だった男性たちは、
シャワーをかけられた犬のようにしょんぼりしはじめ、ぎこちなく「なんとも言えない表情」を見せるようになった。
あまり言いたいことがないのにカメラの前で
何か言葉をひねり出さないといけなくなった結果,失言をくりかえすようになった。
(と思う。私の個人的な解釈です)

そして,参加男性たちの中で
本当にこの特殊な体験に身を置くことを通して「真実の愛」というものに少しでも近づこうとしていた人は,
(ここにいてもこれ以上それは見つけられないな)と気づいた時点から離脱したり,
(なんだか居心地が悪いな)と感じる心と葛藤しながら撮影に駆り出されるので、ますますしどろもどろになっていったりした。

最初から「真実の愛」以外の目的を持っていた方
(つまり有名になろうとか,はしゃぎたいとか,別の目的があった人)や、途中からそっちの路線に切り替えた人が、上手にふるまい続け、
役割通りに番組の体裁を保つ材料を生産して、
提供したかたちになったように見えた。

さりげなくしかし確実に「何かがおかしい」感が拡大する

編集は回を追う毎に不自然な箇所が増え,
なんとかバチェロレッテが悪者にならないように,
なんとか番組の「真実の愛仮説(=バチェロレッテは最高の女性であり,その人に選ばれ続けた者がそれを手にする)」に沿ったかたちで視聴者が物語を感じ取れるように不自然にリードされ,
人と人の間で何かが軋む音が、だんだん大きくなっていった。(ように見えた)

バチェロレッテの体裁を保つことは,
番組の最優先任務だったと思う。
そのため仕方がないのかもしれないが,
男性たちのイメージは,ある程度犠牲になった。
なぜ突然離脱するのか,なぜしどろもどろになるのか,その理由はもちろん,彼らが対峙したバチェロレッテとのやりとりにあるのだと思うんだけど,それを全部映すとバチェロレッテの体裁が保てないので,そのあたりはカットされたんじゃないかと思う。
文脈が分からないから,男性たちのリアクションだけが浮き彫りになり、不可解に映ってしまう。

致命的に「対話的でない」バチェロレッテ

見せてもらえた部分からくみ取れるのは,
バチェロレッテがあまり対話的でないということ。
人が口から発する言葉を自分の捉えたいようにだけ捉えて,
相手がどのような文脈でどういう意味でそれを言ったのか,
問いかけたり,いくつかの仮説を立てたりすることが,
全然できていなかったということ。

(ああ,この人はここで嫌になったんじゃないかな)と思えるシーンが存在したのは,
早い段階で「恋愛対象には見られない」とほとんど辞退宣言をして帰ったセバスティアン・クラビホさん。
その前のミーティング(とてもデートには見えん)で,
バチェロレッテは英語で自分の思いをまくしたてた。
しかもそれは,その前のデートで,今はその場にいない櫛田さんから言われたことにカチンと来て,私のすごいところを見せたい・・・という衝動を満たすための行動であった。

コミュニケーションの道具であるはずの言語を,ヌンチャク演舞のようにふりまわすバチェロレッテ

英語を喋る=すごいところを見せている,という
短絡的な発想にまず気分が萎える。
英語はすごく上手くて,話してる内容は自己紹介として面白かったけど,
まずその場に今なぜみんなが集っているのか,
その意味も,みんながどの程度,その言語を理解しているかも,
いまどんな気持ちになっているのかも,
全く慮ることも,想像することもせず,
ただ「私のすごいところを見せたい!」という幼児的な衝動のまま,
おそらく過去に「すごーい!」ともてはやされた記憶をもとに,
日本語話者の前で英語でまくしたてた彼女の姿は,痛かった。
目の前の人とのコミュニケーションをないがしろにして
コミュニケーションの道具を振り回す、そのような姿を
一体、誰が尊敬できるだろうか。
少しでも想像してみることができたら良かったのに、
目の前にいる人がどんな気持ちになっているか,という点を。

そんなわけで,そのmtgのあとのパーティで,
セバスティアン・クラビホさんが辞退宣言をして帰ったのは
全然,不思議なことではなかった。
こういう番組に参加する理由って一つではないのかもしれないけど,
彼は「真実の愛」というものがもしあるとすれば,
それに近づきたい,見つけてみたいという気持ちも持っていたんだろうなと思う。そして,それはもうここにはないな,これ以上ここにいる意味はないなとはっきり分かったから,帰ることを決めたんだろうなと思う。

目に見えないものを探すときでも、「ここにはない」という選択肢は当然あり得る

人間が「真実の愛」という目に見えないものを探す一つの方法として
バチェラーシリーズが存在していると考えると,
参加者は参加を決める自由もあれば,いつでもやめる自由もある。
そしてこの時点では,セバスティアン・クラビホさんにはちゃんとその自由があったということは,素晴らしいことだと思う。

今回のバチェロレッテの健全さ

今回のバチェロレッテは,最初のローズ・セレモニーで
「この旅では私が選ぶしくみになっているから,
私基準で薔薇が渡されたり渡されなかったりするけど,
それがあなたの価値を決めるものではないから」
と男性たちにあらかじめ伝えていた。
彼女が口にしたその考え方は健全なものだった。
そして結局,その考えは彼女自身の自尊感情を守るためにも,
有効にはたらいたような気がする。

そう,彼女が選ぶテイで番組はすすむけど,
男性たちもそれぞれ,彼女と同様にしっかりした意思と文脈
(これまでの人生とこれからの人生)を持った人々だった。
できるだけゲームのルールに適合する範囲でという配慮をしていたけれど,ゲームよりも根本的に重要な自分の人生をちゃんと見据えて,
彼らも選択をしていた。
バチェロレッテもまた,何人に辞退されても,
「それが私自身の価値を決めるものではない」と思えるような
しっかりした自己肯定感,健康度を持ち合わせていた。
それはとても素晴らしいことだったと思うし,
そのおかげでなんとか最後まで設定されたことを
やり切ることができたんじゃないかと思う。

個人的な名シーン:善い人間が集うことで起きる尊い現象

話は変わるけど,個人的に名シーンだと思っているのは,
絵を描くmtgで,3人の男性たちが,宿泊所で即興のヒューマン・ビート・ボックスを披露したところ。
山本さんの旅の目的の一つだったかもしれないヒューマン・ビート・ボックスの楽しさが自然に表現できていたところもいいんだけど,
そういう突出した特技を生業にまで到達させた人々が一箇所に集められ,
時間がたっぷりあると,こんな風に「楽しいこと」が共有されていくんだという,人間が集うことで起きる尊い現象が一つ確認できたという点で良かった。

もう一つ良かったのは,バチェロレッテが設定した、5人の男性たちと田植えをするというイベント。
やっぱりデートというようなものではないんだけど,無邪気な女の子みたいなバチェロレッテと、5人の王子様みたいな人々が、
みんなで傘をかぶって胸までくるゴム長靴服みたいなのを着て田植えをするというのは、おしゃれなコメディみたいで、ビジュアル的に面白かった。
そしてバチェラーシリーズの見届け人,板東さんを男性がみんなで助けてたくだり。これらもやはり「人間が集うことで起きる尊い現象」であり、
のどかでよい映像だった。
この手の現象だけ拾うために、もう一度見返したいくらい、たくさん名シーンはあったと思う。

怖かったアフター・ローズ・セレモニー

対してアフター・ローズ・セレモニーは,「ジョーカー」のショーの部分を見ているときと同じくらいの緊張感があって怖かった。
「真実の愛=カップル成立!」という番組の最初に設定した仮説通りの物語を見たい人々に,「口べた」「すれ違い」というようなキーワードを補助線として提供して,「今回はこういう物語なんです,ある種の悲恋なんです」と,なんとか恋愛の文脈で分かりやすいものを提示しようとした結果ああなったんだと思う。
タキシードに詰め込まれた櫛田さんは
「できるだけ番組の意図に合わせる」というミッションと
「演出に呑まれて自分の思ってないことを言わない・自分ではないイメージを押しつけられることだけはないように」という
大切な彼自身の信念の狭間、ぎりぎりのところで受け答えをしており
それは大変そうで、ほとんど爆発しそうに見えた。

自分の思っていないことは言わない。

そんなの当たり前のことみたいだけど
それが番組、ゲームという枠に乗っかると,とてもやりにくくなる。
みんなが見たい物語を見せてくれよという言外の圧力は、
言外に押しのけなくてはならない。大変なのだ。

僕の人生はゲームのために存在しているのではない(とは言ってませんが)と言わんばかりだったくっしー

櫛田さんは「勝てばいいというものではない」と言ってたが,
それは裏を返せば,
「自分の人生はゲームのために存在しているのではない」
という当たり前のことを念頭に置いて行動していたということなんだろう。
彼にとって言動はその場限りのことではなくて,
自分のこれまで出会って,これからも共に過ごす多くの人々の信頼を左右するものだった。
そんな中,バチェロレッテに対して
「あなたさえ良ければ日常に戻って会って探ってみませんか」
という選択肢を提示したのは、唯一の正解を見つけたような、
本当に前向きな行動だったと思う。
けれどもバチェロレッテは結局,
そこのところがよく分からなかったのではないか。
自分が求めているイメージ通りのものではなかったため,
なにを提示されているのか、しっかりとは理解できなかったというか。
それはやはり、彼女自身が対話的でないことの弊害だったと思う。
(でも「考えないと」って言ってた。慣れない対話に、トライしようとはしたんだ、って思う。)

ぐっち君はゲームをまるくおさめて成立させる役どころを親切に上手に演じた

最後に選ばれた坂口さんも,もはや勝つことを目指していたわけではないと思う。恋をしてないからリラックスしていた,そんな風に見えた。
彼はただ,今回のゲームをまるくおさめようと,成立させる役を担おうとどこかで決めたのだろうと想像した。
坂口さんは櫛田さんと比べると,場面ごとに言動は一貫しなくていいというタイプのようなので,その役割を引き受けることができたんじゃないかな。
それはそれで善意の行動だったんだろうと思うし,とてもジェントルに,とても上手にそれを行った。
バチェロレッテも,もう番組を成立させる方向で協力してくれる人に頼ろうという方針をとった。それは「日和った」という風にも捉えられるし,とても常識的で,真っ当な判断だったような気もする。

いろんな事情があるんだろう、そのバランスをどう取るか、思考停止せずにひっしで取っ組み合う感じが良かった今作

そもそも私にはなぜ番組を成立させなくてはいけないのかがよく分からないけど,それでも,それぞれ自分のできることで,みんながみんなの目的達成と最大の利益,また自分たちの健康や将来を損なう度合いを減らすことを目指した結果,ああいう風になったんだと思う。
正解のないクイズにみんなでとっくみあい,
どう立ち向かったかという風にみると,
編集の奇妙さがどんどん増えて行くように見える点も含めて,
ちょっと怖くて面白いドキュメンタリーだと思う。

「真実の愛」という,見えない・形のないものは,
今回ももちろんつかまえられることはなかった。

多分,そんなものは恋愛とは関係ないのだ。
少し真実の愛的に見えたのは,わざわざバリまで来た
北森さん,櫛田さんのそれぞれのご家族のたたずまい。
長年一緒に過ごした家族がその子本人のことを話すときの表情やしぐさ,
思い出をたどって語られるエピソードは,おおげさでもぎこちなくもない。
思いやりが凪の海みたいに広がる、穏やかな景色のようだった。

つかめないものとしてこれからも続いていくことを期待する

というわけで,なかなか「真実の愛」というものはつかめないままシリーズを重ねているバチェラー・バチェロレッテだが,番組側の「真実の愛仮説」は,いつか1ケースでも,実証されるのだろうか?
この点はこれからも多分ずっと面白い。
真実の愛はつかまえられない,けどそのおかげでこの番組は,
これからもいろんな結末を排出しながら続いていきそうな気がする。

なんせ今回のバチェロレッテ3は,
このものすごく侵襲的な実験に,
何らかの理由で参加した人々の,
ある期間のドキュメンタリーとして,
個人的には,これまでで一番面白かった。

自分の心の穴に気づいてないと、自分の見たい物語に固執してしまう

恋愛は愛着の傷を刺激されるものだから,
見たい物語と違う動きを登場人物がしたときに,
それを批判する人々も一定数出てくるんだと思う。

自分が観たいひとつの物語の型に固執すると,批判が出て来ちゃうのかな。
だけど,仮説は検証されるためにあるので、
仮説通りの物語を見せますという約束ではない。

面白いのは、視聴者であっても自分自身の気持ちに気づくこと

人は考えが変わるから面白い。
それもアウトプットしてみてから、少しずつ変化していくものだ。
だから
「まとまらなくていい、考えが変わっていい、分からなくなっていい」という状況下でこそ、対話が成り立ち、思考がすすんでいくのだ。

人間が人間と一緒にいて何が起きるのか,
ゲームのルール通りにしようとしても、全然その通りにいかないこと,
思いがけない物語が突然現れること,
そしてそれらのどこに,自分の心の穴が刺激されるのか知ることこそが,
この番組の面白いところなんだと思う。

だからさ、そういうところを楽しみましょうよ!
と、突然演説したくなるような気持ちになってこれを書きました。
(自分にとって大事な人々が出てたから、
気になっちゃったんだと思います)

自分らしさが爆発してる魅力的な人々が集ったバチェロレッテ3,
本当に面白かったです。みなさま、おつかれさまでした。
おわり。

#バチェラー #バチェロレッテ #バチェロレッテ3  
#真実の愛

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?