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白熊杯審査員賞六句【白賞】

さあ、今回もこの日がやってきた。スマホのフリック入力なので、お見苦しい点や変換ミスもあるかもしれないがご容赦くださいね😏
では、白賞の発表でーす!

寒梅や手相見の手のやはらかき

【季語】寒梅
ひと言でいうと、五感を満たしてくれるような素敵な俳句。よこがおちゃんだったか。さすがだなあ。
まず、季語の斡旋。
寒梅はその名のとおり、寒い中で一足早く花をつけるんだけど、周囲がまだ枯れたような色合いのなか、目をひく花とほのかな香り。その感じが、何か春の訪れを待つ気持ちと響き合う、そんな季語。

それに対して、一見季語と関係ない中七下五の十二音「手相見の手のやはらかき」
手相見というのは当然、手相を見てくださる占師なわけだけど、だからこそ相手の手が自分の手に触れるわけで、その手が柔らかかったと。つまり、そこには手触りがある。
この「やはらかき」という着地が素晴らしいね。この措辞を目にしたときに、自分の手に触れる手相見の手の質感、そして、手相見の告げることばが自分にとってやわらかな内容であったこと、そういったことが一気に伝わってくる。俺だったら「あたたかし」とか考えて、いやいや、「あたたかし」は季語だぞと一人ツッコミをしているところだろう。
句全体としては、寒梅や、と「や」の切れ字による切れが入っているから、上五と中七下五は全く離れているのだが、全てに目を通してから改めて上五に戻ってくると、改めて上五が響いてくる。
寒梅のもとで、自分の手相を見てもらっている主体は、春から希望を抱いて新天地に赴く人物で、その出発前に自分の後押しの意味も込めつつ手相見に占ってもらっているのだろうね。そこには、寒梅が、主体の前途を祝うかのように、かすかな芳香を漂わせつつ凛と咲いているのかもしれないね。
素敵な句をありがとう。

寒鴉鳴くや足場を解体す

【季語】寒鴉
作者は、直輝ちゃん。おお、初めまして。よろしくお願いします。こういう初めましての方の句を選んでいたら、何だか嬉しくなるな。みんなの俳句大会の裾野が着実に広がっている実感があるからかも。
さて、句の話。季語は寒鴉。カラスという字は、烏もあるけれど、俺はどちらかというとこちらの鴉の字が好き。
寒鴉は、ちょっとポツンといるような寂しさのようなものを伴う季語だと認識している。寒いという字が効いているのかもしれない。

この句では、「寒鴉鳴くや」と八音目に切れ字「や」を持ってくるというちょっとした技を使っている。通常だと上五、中七、下五の最後に切れを持ってくるところを、中七の途中に持ってきているのだ。
そこに切れ字を持ってくるということは、寒鴉の姿より、寒鴉の「鳴く」声に焦点があるんだね。

その後の九音が「足場を解体す」という、前半とはシーンを変えた措辞。工事現場等で、高所であったり、不安定な場所だったりする場所で作業ができるように組み立てるのが「足場」であるから、「解体す」ということは、もう作業が終わり最後の片付けに入っているということだ。
そもそも足場を組むときは、どんな時だろう。
例えば家を建てるときなどにも足場を組むのだが、何となくこの句では新しいものを作る「創造」のための足場というよりは、無駄になった建物などを取り壊したり、無くしたりする「破壊」のための足場だったのではないかと想像させる。それは、やはり季語「寒鴉」の力なのかもしれないね。これが「冬晴れや」などと言っていたら、全然違ったイメージになるはずだ。
寒鴉のちょっとロンリーで寂しげなイメージが、足場を解体するという、いわばスクラップしていく場面に響き合い、そこはかとない哀愁のようなものを感じさせる句に仕上がったのだ。
これも、季語の斡旋がお見事な一句であった。
素敵な句をありがとう。

餅間やホーロー看板の咖喱

【季語】餅間(もちあい)
餅間とは、正月の餅、つまり鏡開きの時から〜小正月の餅までの間のことで、7日〜15日ってことだから、8日〜14日のことを言うんだよね。季語には、春夏秋冬の他に「新年」というくくりがあるんだけど、餅間は新年の時候の季語だ。
時候の季語というのは、例えば二十四節気とか、◯月とかそういうざっくりとした時節を表すぶん大まかで抽象的なんだけど、餅間は餅ということばがあることから、何となく具体的に餅を想像させる。
その前半に対し、後半は「ホーロー看板の咖喱」
こちらも、あくまで看板であってカレーそのものではないんだが、あのカレーのスパイシーな味わいや香りまでもいっしょに立ち上がってくるよね。

正月の間は、おせち料理をはじめとした正月料理を食べることが多いけれど、鏡開きの頃になると流石に、その淡白な味に飽きてくる。そんな時に目に飛び込んできたのがカレーのホーロー看板。
ホーロー看板といえば、昭和レトロなあの看板の類であるから、自然とノスタルジックな雰囲気も立ち込めてくる。
さらに餅間から想起される正月料理の和食の雰囲気から、日本人の好む洋食の代表格である咖喱へのシフトは、どちらも味覚・嗅覚までも刺激してくるわけで、その対比といい、本当に一つ一つの措辞に、無駄なく多くの仕掛けが施されていると言える一句であった。淡白と濃厚、和風と洋風、正月行事に大正や昭和のレトロ感。お互いがお互いの輪郭を明確にさせる。もうこれはほんと上手い。
かなりの手練の方の作品だろうと思っていたんだが、菊池洋勝さんだったか。それで納得。
多分、字面もしっかりと考えられていて、餅間と咖喱という画数の多い漢字と漢字の間にホーローというカタカナを差し込むことでバランスが絶妙に取られているよね。さすがの一言。俺もこんなふうに緻密な句を詠めるようになりたいものだ。
素晴らしい句をありがとう。

ゾウガメは絶滅したか鍋つつく

【季語】なし…鍋を季語と見るか?
全部の歳時記を見ているわけじゃないから、もしかするとあるのかもしれないが、鍋は多分単体では季語にはならず、寄せ鍋、石狩鍋など◯◯鍋となって初めて季語となる。とはいえ、ここは冬っぽい句ならOKのみんなの俳句大会であるし、鍋といえば、それぞれの持つイメージの鍋を想像するわけなので、俺の中では季語とする。…という前置きを一つ置いといて。

こちらの句は、上五中七と下五という作りになっているね。
上五中七の「ゾウガメは絶滅したか」
ここの部分は、実はイントネーションによって、疑問にも感動にも取れる。ゾウガメは絶滅したか?と語尾をあげれば、ゾウガメって絶滅しちゃったんだっけ?と問いかけているように聞こえる一方、「ゾウガメは絶滅したか…」という感じで読めば、とうとう絶滅してしまったのかと感慨深く呟いている感じにも聞こえる。
そして、下五。「鍋つつく」という季語を含んだ五音には、上五中七に対して、あまり切実感を感じない軽みを持っているよね。
どこか、対岸の火事のような雰囲気を持ちながら「絶滅」という不穏な言葉を述べているようで、前半に比べてあまりにも軽いのだ。
そのような措辞からは、現代の私たちが種が根絶するという余りにも重い「絶滅」を、単なる情報として、非常に軽く捉えているのではないかという風刺さえも感じられる。
自分は命を脅かされることもなく、平和に鍋をつつきながら、絶滅の危機に瀕している命を論ずる。もしかすると、次の瞬間に自分がその立場になるかもしれないという危うい予感を内包しながら句の主体は鍋をつつくのである。

ちなみにゾウガメはすでに絶滅したといわれる種類、絶滅までは行かずとも、今の個体が新たな命を紡げない限り絶滅してしまうような、かなりの危機に瀕している種類がいる。いずれも逃げ足の遅い彼らを乱獲した種、人間の手によるものだ。

咳ひとつシャッター街を軋めけり

【季語】咳
シャッター街というワードは本当に力があるよね。昔は栄えていたけれど、今は過疎が進んだのか、寂れてしまって町全体の活気が失せている。華やかさを失い、昼間だというのに人影もまばら。そんなイメージが瞬時に浮かんでくる。季語以外にこのようなパワーワードがあると情景が作りやすい反面、季語が主役になっているかというバランスが、とても難しくなってくる。ところが、この句では、しっかり季語の「咳」が立っている、そこがまず上手い。

この句はちえちゃんだったか。過去の白賞を見ると、ちえちゃんの句はほぼほぼ選んでいるので、多分俺は、ちえちゃんの句が好きなんだろうな。

この句のポイントは「を」じゃないかなと思っている。軋めいているのは何かと考えた時に、最初はシャッターが軋んでいるように感じないかな。でも、よくよく考えてみるとシャッターが軋んでいるのではなくて、シャッター街「を」(何かが)軋んでいるんだよね。
とすれば、軋んでいるのは季語である「咳」なのかもしれない。でも、咳ってあのゴホゴホというアレだから、音として響くのならわかるけれど、軋むような実体を持っているわけではない。そうすると、軋んでいるのは咳をする主体はなのだろうか?んん?と首を捻ることになる。この辺が助詞の面白いところだよね。

さて、こういう時はどんなふうに読めば良いのかというと、好きに読めばいいというのが正解だ笑
シャッターが軋むように捉えるのも、咳がシャッターに反響して軋むように聞こえるのだと考えるのも、はたまた、咳をしている人物の体が軋んでいるのだと考えるのもすべて、読み手の自由なのである。
このようにいろんな読みの余地を残す句というのはすごいよなあ。
ちなみに俺は、シャッターが降りて閑散とした商店街だから、咳払いひとつが自分が思う以上に大きく響き、そこに風か何かで軋むシャッターの音が被されてくるような、そんな読みをした。
素敵な俳句をありがとう

冬の日の地蔵にふれる夫婦かな

【季語】冬の日
さて、最後はこの句。兄弟航路ちゃんかあ、彼の句もよく選んじゃってるな笑
まあ、好きなんだからしょうがない。

さてこの句は、切れ字「かな」で終えられている。この「かな」という切れ字は「〜だなあ(余韻)」みたいなはたらきがあるので、句の最後に用いられるのが基本だ。主体は、夫婦の姿に感銘を受けているんだね。

冬の日と地蔵というと、俺は笠地蔵の昔話を思い出す。心優しい老夫婦が、地蔵さまが寒かろうと笠をかぶせて差し上げたら、地蔵さまがお礼に来られたというあの話だ。
多分、そこはこの句のイメージの底辺にあるんじゃないかなと勝手に思っている。地蔵に触れる夫婦としか詠まれていないけれど、本歌取りのようなダブルイメージを持っているように思うからだ。
地蔵にそっと触れる夫婦はきっと地蔵さまが寒くないかと触れているように思うのである。

地蔵さまというのは、昔話に語られるくらい最も民衆に身近な存在だ。聞くところによると、弥勒菩薩が現れるまで、苦しみの多い現世に留まり、衆生を救済してくれる菩薩さまなのだそうだ。愛されるのも当然である。

地蔵さまと接するとき、自然と人々の胸に湧き上がるのは感謝の思い。
冬の寒い日に、地蔵さまに触れる夫婦の手は、きっと柔らかく温かだろうなあ。
慈しみあふれる素敵な一句をありがとう。

終わりに

今回も審査員の一人として、みんなの俳句大会に関わらせてもらい、いろいろな発想で詠まれたたくさんの句を楽しく鑑賞することができた。
みん俳では、ぽい俳句であれば許されているが、俺が選ぶ基準は、季語があり定型であるという俳句の基本に沿っている俳句というのが前提だ。それは今回の大会でも変わらない。そういった意味で、泣く泣く取らなかった句もある。まあ、そういった句は他のみんなが選んでくれるに違いない。
いろんな人がいて、いろんな見方がある。それもこの大会の魅力。俺の見方と違う鑑賞ももちろんアリ!こうやって、同じ俳句という文化を通して皆さんと語り合えたのが嬉しいなと思う。

各賞に選ばれた方、おめでとう!

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