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「僕の人生、いつも他人が決めてきた」

元プロ野球選手 久本祐一
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最後の15回のマウンド、ここで自分が打たれたら、この1年間皆んなが一生懸命やってきた試合を、怪我上がりの、たかが1軍4試合目の自分が潰すのか・・・頭の中が真っ白になった。
記憶はほとんど無い。
ただただ・・・ここでこの左腕が潰れてもいい。力いっぱい腕を振り、ボールをキャッチャーミットに投げ続けた。

2010年11月6日
日本シリーズ    第6戦    CD    VS    ロッテ
舞台はナゴヤドーム。先発は中日チェン。ロッテは成瀬。5回までをお互いに譲らず、中日は6回に井端から和田一浩、そしてブランコで2-1。7回までチェンの力投で8回に浅尾。浅尾が捕まり2-2に。
9回も浅尾。延長戦へ。
その後中日は、高橋聡文・河原純一・岩瀨仁紀そしてネルソン。決着が着かない。
15回のマウンドに上がったのは、背番号61久本祐一だった。最後のバッター西岡を三振に抑えチェンジ。日本シリーズ最長5時間43分の死闘は引き分けに終わる。

久本祐一(ひさもと    ゆういち)44歳。
ピッチャー    左投げ・左打ち
お箸は右手で持ってご飯を食べているので、

本当は右利きだけど、野球は左。
小学4年生の時、弟の幼稚園の運動会で親から場所取りを命じられ、幼稚園へ向かう。
場所取りでぼーっと立ち尽くしていると、一人の大阪のおばちゃんに声をかけられる。
「君、野球しない?」
これが久本祐一の野球との出会いだった。

久本ファンの一人としては、神様ありがとうならぬ、おばちゃんありがとうの感謝の気持ちだ。
その小学生の野球チームは(小学校から硬式野球)が売りなので、久本祐一は軟式野球を知らない。
特に体格が大きかったわけでもなかったが、この大阪のおばちゃん、実はこの少年野球チームの監督さんの奥様だった。久本のお母様も幼稚園のPTA活動の中で、その奥様を知っていた。
そして、その監督さんのお子様は久本の同級生と・・・もしかして、ずっと久本を野球チームに誘いたいと
狙っていたのかもしれない。
久本が、将来プロ野球選手になるんだからドラゴンズのスカウトに欲しいわぁ~大阪のおばちゃん。
そして、大阪のおばちゃんのお導きによって、久本さんの野球人生が始まる。

中学生では、小学校で所属していた野球チームの監督さんの推薦も有り、
地元のボーイズリーグ「大東畷ボーイズ」に所属する。ポジションはピッチャーと野手。
この「大東畷ボーイズ」は、複数名のプロ野球選手を輩出している名門チームだ。
全国大会で優勝も経験した。しかし、この時の久本は野球は上手くて素養はあるけど、目立つ選手ではなかったそうだ。

でも高校でも野球を続けようと希望し、尊敬していた先輩がいて、また大東畷ボーイズの監督の進めもあり、セレクションを受けて、東大阪大学付属柏原高校へ進学を決める。
セレクションの際に、東大阪大附属柏原高校の館監督から、ヘッドロックみたいな抱擁を受け
「うちに来るよなー」と歓迎されたそうだ。
ところで、この館監督って知る人ぞ知る有名な方らしく、なんでも館監督が大学時代に近大の応援団長で、そのお姿が「嗚呼    花のお応援団」という漫画のモデルになったそうです。真実はわかりませんが・・・

野球部はベスト8の常連校で野球部は100人ほどの大所帯。高校は男子校で19クラスもあったそう。
久本はスポーツクラスだったので、あまり他の同級生とは関わることは無かったと、少し寂しそうに語る。
高校3年生、最後の夏は、北洋高校に勝って、べスト8に!
もちろんポジションは、ピッチャー。    背番号1のエース。

絶対女子からモテたと思うけど、男子校だったし、どうだったのかな。

9回まで投げて、最後はショートゴロに打ち取って勝利。ベスト8!
とても嬉しかったそう。残念ながら、次の履正社に敗戦。惜しくも甲子園の土を踏むことは出来なかった。
実はこの履正社戦の少し前にノックのボールが左親指に当たり、骨折していたのだ。
このことを隠して、履正社戦に臨んだが、途中交代で久本の高校野球は終了した。

引退後は、遊びと居酒屋でのバイトに明け暮れていたらしい。(未成年だったけど・・・)
この頃からお洒落には敏感で、ファッションは好きだったみたい。流行っていたナイキ    エアマックス95を買うために、アルバイトに精を出す。

自身の働いたお給料で購入するとか偉い!
私はスニーカーには全く詳しくないのですが、確かに私服の久本の足元は、ごつくて派手派手なスニーカーが多いかも。

大学への進学は夏前には決まっていた。本当は近大がきまっていたけど、館監督のお薦めで、
柏原高校から初めて亜細亜大学へ野球で決まる。館監督、そのルートを作って欲しかったのだ。
人生の選択の際にはいつも、自分の希望は別にあったりするのに、人のお薦めに従って動いている。
と久本は言う。

東京にある大学。大きな期待で入学だ!
亜細亜大学の野球部のグラウンドは、JR武蔵五日市線の「武蔵引田駅」下車    徒歩10分ほどのところにある。
「今はイオンができたみたいだよ。」何にも無かった思い出の地にイオンとか映画館が出来たと、
久本は眩しそうに顔をほころばせた。
全く知識も無いまま、友人の「亜細亜大学はヤバイぞ!」という助言もあったが、ポジティブに入学した。
門限は22:00。完全消灯というものが有ってそれは22:30だった。
その頃流行っていたTVドラマは22時から始まると半分しか見れず、豆球も着けることは許されず、目を閉じて眠るしかなかった。朝は7時に起きて、18時や19時ぐらいまで、練習の毎日で、丸一日練習に明け暮れていた。
部屋子としての一つ上の先輩は、現カープの名スカウト松本奉文(有史)さんだった。当時の亜細亜大学はプロ野球選手も多く輩出し、優勝も経験している中、とても良い環境で野球をやらせて貰えた。ケガも無く、当時のチームは身体とメンタルが強かったと振り返る。

高校も、大学も、当時は先輩後輩関係も厳しく、もちろん練習で水は飲めなかった。
そんな、きっときつくて、苦しかったであろう時代の話も、ひょうひょうと明るく話す久本は、
とても強い心の持ち主だと思う。そして野球が大好きな真面目な人である。
でも、ちょっと待って!
ここまでの進路の選択は、自分の思いとは別に、深く関わる他人が決めていませんか?

亜細亜大学の監督のから次の進路である「河合楽器」をお薦めされたのだ。
他にもヤマハと日産からもお声がかかっていた。
大学時代も、なかなか波に乗れず、同級生ピッチャーの中では、4番手だった。
もっと試合に出たい。その思いだけが、厳しい環境やキツイ練習を乗り越える術だったのかもしれない。
同級生には、松井光介・山本浩司らが居た。

プロ野球なんて、夢にも思っていなくて、社会人野球を希望していた。
就職は、社会人野球「河合楽器」へ。
これまでの久本の野球人生の中で、一番楽しく野球が出来たのは、この「河合楽器」だ。
静岡県浜松市の地が、久本祐一のアナザースカイ。
沢山試合に出られて、沢山投げられたことが本当に楽しかった。
そこには、大好きな野球を思い切りできる環境があった。試合経験を積み、ピッチングについて考えることも沢山あって、技術面でも成長を確認できた。
都市対抗野球で初優勝、若獅子賞を受賞し、久本の野球人生も最高潮であった。
しかし、時に運命は残酷だ。選手権に負けた後・・・
2001年河合楽器が売上減少のため、野球部を休部する決断を下した。

22歳の久本は、自身の所属球団の休部を、あまり気にすることも無く、心配や不安もあまり持たなかった。
直近の活躍に引く手あまただったからかもしれない。
久本自身は、移籍先を社会人野球で考えており、プロは考えていなかった。
厳しいプロの世界はまだ先で、社会人で沢山野球をしたい思いがあった。
なぜなら、「安定していない」から。
高校生の頃から社会人野球に興味が強く、「グランドスラム」を購入してよく読んでいた。プロよりも社会人野球のファンだった。この頃の久本の目標の一つに全日本に選出されて、
全日本に入ることが、日本代表が憧れであり目標だった。日の丸を付けたい。そんな思いが強かったからだ。

移籍先の選択で、ここでも久本は、大切な人のお薦めに従うことになる。
何も知る由もないイチ中日ファンの私は、のちに驚きのドラフトでの指名を知ることになる。
それが中日ドラゴンズ    久本祐一を知る、初めの一歩だったのだ。

この時期は確か、逆指名も可能だったと記憶にある。中日は当時のスカウトの二宮清純さんが河合楽器に通っていた。チームメンバーもピリピリする中、久本は、河合楽器の監督のお薦めに従い、おそらく中日ドラゴンズへ行くのだろうと思いながら、心の正直なところでは、プロ野球にはあまり興味が無く、中日ドラゴンズと言われてもピンとこなかったそうだ。
阪神タイガースに行きたかったらしい…

2002年    プロ野球ドラフト会議    第4巡目    
中日ドラゴンズ    指名選手    
河合楽器    投手    久本祐一

え?誰々?でも投手だ!この年は寺原隼人への指名が重なり、抽選で外れていた。次も投手で来ると予想していたピッチャー好きの私は、捕手からの獲得となり少し気持ちが下がっていた。でも、今でもブルペンキャッチャーとしてドラゴンズを支えてくれている前田章宏が獲得できたことは素晴らしい結果だ。



背番号19    久本祐一    22歳
自分の力を充分に出して、強気のピッチングを皆さんに見ていただきたいと思います。
中日ドラゴンズ    久本祐一の誕生だ!
少しハーフっぽい顔立ちに、生意気そうにも見える強気の眼差しの入団会見の記憶がよみがえる。
また一人、良いピッチャーが中日ドラゴンズに来てくれた。心からわくわくと、胸の高まりを感じた。
当時36歳の私も、人生の岐路に立っていた。テレビ越しに14歳年下の久本を見ながら、
よし!私も頑張るぞ!と小さくガッツポーズを取っていた。

ところで、時を同じくして現在中日ドラゴンズの投手コーチである山井大介も中日ドラゴンズへ6巡目に
指名を受け、入団している。
同じ河合楽器から来た同期。久本が4巡目・山井が6巡目。この差はなんだったのか。
実は、阪神タイガースが久本を指名しようとしている。そういう情報が流れ、中日は指名を急いだらしい。
どちらも大阪出身で、投手。直前までの久本の活躍もあるが、左腕は需要が高いのだろうか。
久本自身は、山井大介の中日への移籍をこのドラフト会議での指名を聞いて知ったと語っていた。

中日ファンとしては、ちょっと気になる二人の関係・・・どちらに聞いても、仲が悪いことは全くなくて、むしろあ・うんの呼吸というか・・・そんな関係とのこと。久本も山井も、別々の時期と場所で聞いてみたことがあるが、2人ともに同じ回答だった。お互いを認め合っている。そんなチームメイトの絆を感じた。
そして、2人ともに、人間力のある魅力的な野球人である。

ここから2011年までの強き中日ドラゴンズは、野球好きであれば誰もが知る輝かしい歴史となっている。
歴史更新したい・・・

そんな快進撃を始める山田監督率いる中日ドラゴンズの始まりの中、盛り上がる外野応援団の大声援、ナゴヤドームに足を運ぶ大勢の野球ファンの期待とは別に、久本は苦しんでいた。
マウンドの上の久本は必死だった。目の前のバッターに向かい、余裕の無い心とピッチング。
投げる→打たれる。を繰り返す中、大きく打たれると試合後山田監督から、監督室に呼び出される。
『おまえは、何のために投げているのか?』
打たれる度に、投げかけられる言葉。時には怒鳴り声と共に、ガラスの灰皿を机にたたきつけながら、
悔しさを露わに久本に問いかける山田監督。
『お前は独身だけど、チームの皆には、家族が居て家族のために投げているんだぞ!!』
この時、独身の久本は「自分のためだけに投げていた。」それでも必死に投げていた。
ここまでの野球人生の中で、一番しんどかった。打たれると凹むし、監督室に呼び出されて怒られる。
食欲も無くて、名古屋港で海を見つめて一人落ち込んでいた。

そんな久本を変えたのは、野球を始めた当初からバッティングピッチャーの今も変わることのない「考えること」だ。驚いたのは、当時の久本のマウンドの上の、気持ちの余裕だ。気持ちの余裕があるからか、逆にいざという場面で緊張してしまい、普段のピッチングが出来なくなっていた。
そこから久本は、自分の練習方法を考えた。毎日必ず球場のポール間を全力で10本ダッシュして、
身体を思い切って疲れさせてからマウンドに立つと、打たれなくなっていった。その後しばらくして、怒りまくっていた山田監督に「良くなってきたな。」と言って貰えた。凄く嬉しかった。球速も伸びてきて、自分でも手ごたえを感じることができた。本当に必死だった。必死でマウンドに立っていた。
それゆえに、山田監督の途中退任は、凄く悲しかった・・・

後任に落合監督を迎え、快進撃の中日ドラゴンズ。やはり練習量の多さが、苦しかった。それが結果として勝てることに、大きな満足感があり、プロ野球選手としての久本は、成長していく。
2005年は、不調に襲われ、背番号19は、吉見へ。久本の背番号は61に変更になる。
その後、中継ぎに転向し、2007年には13試合連続無失点。しかし、2008年は左腕の痛みに苦しみ、2009年に1回目のトミージョン手術を受ける。

久本に、術後の写真を見せてもらったことがある。顔をゆがめながら、血がたくさん見えるし、ちょっとグロいし、目を覆いたくなるぐらいなんだよね。プロ野球選手のトミージョンの術後写真、同席していた女性たちは見たい!見たい!と希望した。そして・・・どうってことない。毎月血を見てるし。と冷静な対応に、きょとん顔の久本。見せる相手を間違えたのか。でも貴重な写真でした。見せてくれてありがとう。

術後、迎えた2010年11月6日
日本シリーズ    第6戦    CD    VS    ロッテ
舞台はナゴヤドーム。先発は中日チェン。ロッテは成瀬。5回までをお互いに譲らず、中日は6回に井端から和田一浩、そしてブランコで2-1。7回までチェンの力投で8回に浅尾。浅尾が捕まり2-2に。
9回も浅尾。延長戦へ。
その後中日は、喬橋聡文・河原純一・岩瀨仁紀そしてネルソン。決着が着かない。
15回のマウンドに上がったのは、背番号61久本祐一だった。最後のバッター西岡を三振に抑えチェンジ。日本シリーズ最長5時間43分の死闘は引き分けに終わる。

最後の15回のマウンド、ここで自分が打たれたら、この1年間皆んなが一生懸命やってきた試合を、怪我上がりの、たかが1軍4試合目の自分が潰すのか・・・頭の中が真っ白になった。記憶はほとんど無い。ただただ・・・ここでこの左腕が潰れてもいい。力いっぱい腕を振り、ボールをキャッチャーミットに投げ続けた。

ひたむきに、白球と向き合い、マウンドに立つ久本。
山田監督にプロ野球とは、を教えてもらい、落合監督にプロの野球を教えてもらった。
しかし、2012年10月    中日ドラゴンズより戦力外通告を受ける。

この時、セパ両方で5チームからの声がかかっていた。悩める時間は5日間。
なんと久本が、自分の進路を自分で決めるのは初めてとなる。
今回は自分で決めたい。そう思った。でも、裏腹に、これまでの人生、ずっと誰かが決めてくれていた。
お薦めのまま進んできた。自分で決めることが怖かった。誰か決めて欲しい。そんな思いもあった。
いろいろ考える中で、やはり家族の長として、仕事が第一だから。セパの文化の違い。
どこのユニフォームが似合うかな。
そして、広島カープを選ぶ。久本が初めて自分で選んだ自分のマウンド。背番号65
広島移籍後は、活躍と怪我の繰り返しだった。
2014年には再びのトミージョン手術となってしまった。
6月29日
いつもと変わらず、マウンドで構え、大きく左腕を振り、1球・2球・3球と投げて行く。
4球目を投げた時、少し腕をぱっ、ぱっと振る。5球目、明らかに左腕を気にしている。久本はわかっているのではないだろうか。
この試合のマウンド、明らかに「あ。肘やったかも」と思われる場面があった。マウンドから降りるだろうと思ったが、もう1球久本は投げたのだ。左腕から放たれた白球は、のんびりと高めにバッターに向かう。
6球目、ゆるやかな高めのボール。少しマウンドの上で考えた久本。その背中を、背番号65は今も鮮明に記憶に残っている。マウンドを降りる久本。
5球目で、肘のあたりがぐじゅ~ってなって、あ、やってしまったなと気づいていたそう。
なのになぜ、この時の6球目、どうして投げたのか。
「もしかしたら、打ってくれてアウト取れたかも。次の投手に最大限良い状況で渡したくて・・・」
自分の野球人生の一大事に、マウンドの上の久本は常にゲームのことを、チームの勝利を考えていた。

でも、絶対にまた戻ってきてくれる。マウンドで大きく強く左腕を振ってくれずはず。信じている。
もちろん多くのカープファンも、同じ気持ちだった。

育成・支配下と復帰をしてきた。でも37歳のプロ野球選手には、もう少しリハビリの時間が必要だったのだろう。
2016年復帰から1年で、2度目の戦力外通告を受ける。
中日ドラゴンズから広島カープへの移籍を、久本は前向きに捉えていた。
中日ドラゴンズから広島カープへ移籍というプロ野球人生、視野が広がった。
広島カープで野球出来たことも、とても有難かったです。

その後はてっきり、広島で解説者とか、華々しい引退後を過ごすのかと思っていた。
久本には華がある。明るい性格でサービス精神も旺盛。彼の楽しそうな笑顔は、周りに居る皆も笑顔にさせる。きっと充分に成功するだろう。もしくは広島カープの球団職員としても欲しい人材だ。
なのに、中日ドラゴンズに帰ってきた。
バッティングピッチャーとして。
後日、久本に聞いたことがある。
「なぜ、ドラゴンズに戻ってきたの?」
きっと久本には、予想外なこともあったのではと思う。落合さんが居ない中日で。
引退後、また家族と離れてまで、なぜ、つらい選択をしたのか。
帰って来た答えは、
「落合さんが誘ってくれたから。」
落合さんにお薦めされたのね。
落合さんからの信頼も厚かったのだろう。
2020年
中日球団を退団
2021年
バッティングピッチャーとして広島の地へ。
自分で選んで、自らの選択で広島へ戻って行ってしまった。

2023年2月    コザ    しんきんスタジアム
久本は、バッティングピッチャーとして、カープの選手達と真摯に向き合っていた。
それはドラゴンズに居た時と変わらない。
コロナ禍で、大きな声で選手に声かけるファンも居ない中、バックネット裏で、ボールを出す久本の背中をしばらく見ていた。
Tにボールを乗せて、その後キャッチボール。
ずっと変わらないキャッチボールの姿。身体の頭の先から足のつま先までに気を配り、受けて、投げる。
そして、静かにマウンドへ。静かな闘志と共に。
久本祐一は、今日もマウンドに立っている。

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