「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易い」とはそもそも誰の言葉か?
この文章は宇田さん(@41_36_22)による #深夜の真剣レポート60分一本勝負 という企画の中で書かれたものです。リサーチを含めて一時間以内で書かれた文章のため、信頼性などについてはその点をご留意ください。
左派加速主義やポスト資本主義論、アシッド・コミュニズムなどの論壇として知られる理論家マーク・フィッシャーはその代表的な著作のひとつである『資本主義リアリズム』において「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易い」という一節を引用し、資本主義の持つ、言うなれば「想像力の植民地主義的抑圧」のような性質を説いた。この一節は社会主義や共産主義のようにかつて盛んだったオルタナティブとなるシステムの模索とは異なる新しい方法、加速主義であれテック・リバタリアニズムであれ、資本主義のそれ自身に対する抵抗を飲み込む性質を認識した上で構築される現代思想について語る際に頻繁に引用される。が、これが元々誰の言葉なのか、という点には長らく疑問が付きまとっていた。少なくとも私自身はこの点に引っかかりを覚えており、多くの場合スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとして言及されがちだが、近年の資本主義論に登場する多くの”格言”めいた言葉と同様、微妙に一次ソースが明言されないまま言葉だけが流行って繰り返し浅いレイヤーで引用されているような気がしている。
ということで、「今週の学び」というテーマからはやや外れるが、今週を通してドゥルーズ・コレクションや木澤佐登志さんの書籍を読んでいて浮かんだこの疑問について短いレポートめいたものをここに書く。
さて、「資本主義の終わりより……」という一文だが、この文章は『資本主義リアリズム』の副題でもある「Is there no alternative?(この道しかないのか?)」という言葉と関連づけられて語られることが多い。ついでで言及すると、これの元ネタである「There is no alternative(この道しかない)」はマーガレット・サッチャーの演説で有名だが、実は彼女の政治キャンペーンが初出という訳ではなく、ハーバート・スペンサーが1851年に出版した『Social Statics, or The Conditions essential to Happiness specified, and the First of them Developed(社会静学)』の中で用いられたのが始まりだという。これをサッチャーが引用する形で1980年以降に集会などで頻繁に用いるようになり、現在に至るまでインパクトの強いスローガンとして使用され続けている(第47回総選挙公示前の全国幹事長会議で安倍首相も「景気回復、この道しかない」という形で引用? している)。
話を戻して「資本主義の終わりより……」という文章であるが、『資本主義リアリズム』においてはジジェクとフレドリック・ジェイムソンの両名の言葉として引かれている。知名度の差もあり、一般的に(特に英語圏においては)ジジェクの言葉として認識されているが、実際のところジジェクの文献でこの言葉が出てくるものはない(と少なくとも管見の限りでは把握している)。彼が頻繁に開いている講演などで似たような言葉や喩えを用いることは多いが、「これ」という例がある訳ではない。したがって、フィッシャーがジジェクの名を載せたのは彼がこのリアリズム(=現実認識)を、資本主義に対する方向性は違えど強烈に意識しており、かつ積極的・精力的に発言しているためと考えられる。※この点についてはリサーチが足りないので後日調べる。
さて、フィッシャー曰くもう一方の引用元とされているジェイムソンだが、こちらは早い時期にこの一節の原型と考えられる文章がその著作に登場している。『The Seeds of Time(時間の種子――ポストモダンと冷戦以後のユートピア)』という書籍の導入部に「It seems to be easier for us today to imagine the thoroughgoing deterioration of the earth and of nature than the breakdown of late capitalism」という一節が登場する。大雑把に訳すなら「今日、どうやら我々にとっては後期資本主義の崩壊よりも現在進行形で発生しつつある地球環境の荒廃の方が遥かに想像しやすいようだ」という具合だろうか。フィッシャーが書き直した文章と表現は微妙に異なるものの、大意ではまさしく「世界の終わりより……」という現実認識を一文で簡潔に捉えている。個人的に着目したいのはその直後の一文であり、そこにはこうある。「Perhaps that is due to some weakness in our imaginations(もしかすると、それは我々の想像力の弱さにこそ原因があるのかもしれない)」。これはフィッシャーが強調する「オルタナティブを構想する想像力が資本主義によって奪われる」という資本主義リアリズムの強靭かつ強力な支配的性質にも繋がる話である──ジェイムソンは高度資本主義の持つ個人の思考と認識への介入というある種帝国主義的ともいえる(勢/)力を念頭に置いていたといえる。
社会学関係など別の文脈で語られることが多いが、この点についてはフーコーの権力(構造)論と近似しているように思う。権力または権力者は個人の認識に介入することで構築された社会規範に基づく抑圧と排除を実現または正当化している、という旨の話が記憶が確かであれば『狂気の歴史』あたりに出てきた覚えがあり、以前政治学の文脈におけるその再解釈についてのツイートなどもしたが、資本主義リアリズムでは透明化された権力が抑圧と排除を生み出しているのではなく、権力自体が資本主義の任意に変換可能な結果物として出力されているに過ぎず、問題の根源は想像力に対する抑圧にこそ存在する、それが想像力に、結果としてシステムにステイルメイトを引き起こしている、という風な論理が展開される。この類似と差異についてはまた改めて調べるとして、この問題意識についてのみ結びを兼ねて書き留めておく。
結論として、「世界の終わりより……」の一節はジェイムソンの記述をジジェクが詳言したものを最終的にフィッシャーが簡潔に書き直しながら引用した、という形で現在よく知られる形に落ち着き、やがて大きく流行した、といえるだろう。