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My Mummy's Dead 2

私は東京で生まれた。和泉多摩川が最寄り駅の、多摩川沿いにある町だ。1974年には多摩川水害があった。19戸もの住宅が流されたらしい。これは『岸辺のアルバム』という山田太一脚本によるTVドラマのモチーフにもなった。家族が崩壊していく話である。

母は、母の知人の家も流されたと言っていた。なんでも、家が流されてから大量の見舞い品が届いた。その中で花も届いた。被災地の千羽鶴のように要らないもののように思うが、流された家の奥さんは「何かほかに足りないものはあるか」と聞かれた。
奥さんは答えた。

「花瓶がほしい」

と。物資は充分に揃っていたのだろう。だがそれは周りからの陰口の対象になった。

「こんなときに花瓶がほしいだなんて優雅なこと」

といったところか。これは母が言っていたことなので、本当の話はよくは知らない。

子どものとき、母と兄と皇居に行ったことがある。私が幼稚園児ぐらいの頃かもしれない。記憶にあるのは、足元の砂利道。あとは海外からの観光客なのだろう、おそらくアメリカ人のおじさん2人。母は英語が話せた。若い頃は博多にあった米軍基地にも遊びに行っていたらしい。

おじさん達と母は軽く会話をし、私達はみんなで写真を撮った。おじさん達のカメラで撮ったのだと思う。

だから今頃、その写真はアメリカのどこかの家の古いアルバムに貼られているのかもしれない。

「おじいちゃん、この写真は何?」

「ああ、昔、日本に旅行に行ったんだ。コウキョだよ。そこで日本人の親子がいてさ、一緒に撮ったんだ」

そんな会話がどこかであったのかもしれないな、なんてことを思っている。


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