Dishwashing

皿洗いが好きだ。
好きと言っても、それは日々やらなくては仕方がないことで、だから好き、てことにしたいのかもしれない。
仕事で皿洗いもできないかも。僕はマイペースで皿を洗うから。ときおり中断してコーヒーを淹れたり、iPhoneで SNSを見たり。そう、この文章も皿洗いを中断してかかれている。
器用な人は料理をし終わったら同時に洗い物も片付いてたりする。これも僕には無理だ。食後には山のように洗い物が積まれている。大家族でもないのに。
ちなみに料理のための湯を沸かしていたりするときも僕はぼーっと湯の対流を眺めたり、またiPhoneでくだらない調べものをしたりする。プロの料理人にはなれないな。口うるさい配偶者がいたら叱られるか呆れられるかも。
シンクには山積みの皿やコップ。僕は頂上から洗っていく。平たい皿やあまり汚れていないコップやカトラリー。そういうものから洗っていく。油汚れのものは最後だ。熱湯をかけたり、余ったやかんの熱湯でまたコーヒーを淹れたり。
皿洗いはだいたい夜にする。静寂のなか無心で洗ったり、骨伝導ワイヤレスイヤフォンをつけてSpotifyでお気に入りの音楽を聴いたりする。ワイヤレスはこういうときに便利だ。興が乗ったら歌詞を見ながら(夜だから控えめに)歌ったりする。また皿洗いは中断される。
すべての洗い物が終わるとやはり気持ちがいい。生ゴミをまとめ、ビニールにいれてゴミ箱に捨てる。これで今日のタスクはだいたい終了する。
禅語に「洗鉢盂去」という言葉がある。器を洗え、ということだ。自分のつかった茶碗は自分で洗う。そんな日々の基本的なことが修行に繋がるんだろうな。なんてことを考えながらいつも皿を洗っている。
じゃあ残りの皿を洗ってこよう。皿を洗えるぐらいの健康があるっていいことだ。あ、食洗機もいいんだろうな。僕はいまだに手で洗っている。そんな時間が好きなのかもしれない。

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