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旅行記|味気ない旅と思ったら香りがない旅だった

味気ない旅だと思った。
コロナ禍で、海外旅行者の少ない紅葉の季節に、奈良へひとり旅に出たのである。
もみじは青空に燃え立つように映え、イチョウは苔むした屋根に葉を落として、歴史を築いた神社仏閣の中で、今を生きる木々たちがひっそりと秋の終わりを告げている。

朝起きて思い立った場所に出かけられる贅沢さを満喫しながら、寂しさは感じていなかった。それなのに、何かが足りなかったのである。心にある正体不明の違和感に名前を付けられず、訝しがりながら旅を続けていた。

あまり有名ではない寺ばかりを訪ねていたが、旅行四日目の朝日に照らされた小さなガイドブックを見ながらパンを頬張っていた私に、室生寺の名前が飛び込んだ。今日は足をのばして、少しにぎわっているかもしれない、その寺へ行こうと決めて、スクランブルエッグを食んだ。

電車とバスでは、婚活を頑張る女性たちを描いたエッセイ調の本を読みながら、自分の年と3月にフラれた2つ年下の恋人のことを思っていた。目の前の老夫婦は私と同じ行先のようで、室生寺を楽しみにする話をしている。さらに心をかき乱されながらも、心温まる風景に目を細めた。

室生寺は混んでいた。いや、紅葉の季節にしては混んでいないほうなのだろうが、ガイドブックの片隅に小さく取り上げられていた場所ばかり訪ねていた私は、その人だかりにたじろいでしまった。
しかし、奈良駅から二時間以上かけてきたこの場所を楽しまねばならない、そういったよくわからないこみ上げる感覚に対応して寺を闊歩する。そうすると、先の見えないほどの長い階段があった。多くの人はこの下でその長さに眩暈を覚えて、引き返しているようだった。私はスニーカーの踵を踏みしめて、躊躇せずに一歩を踏み出した。

後で調べたところによると、階段は7百段を超えるものだったらしい。
私は、途中で何回か小休止をはさみながら、かといって諦める選択肢は全くなく、前へ前へと歩を進める。
頭皮から汗が滴ってきたころ、頂上へとついた。奥の院、お参りをして境内の縁側に腰かけている老夫婦の横で私も座って、人が少ないこの場所でマスクを取った。

途端に、冬の初めの木漏れ日の香り、まだ青く色づかない葉の若々しい香り、隣の老夫婦がもってきたおにぎりの食欲をそそる香り、ありとあらゆる香りが私の仲で爆ぜた。先ほどとは一変して、色づいた季節は鮮やかに見え、ぴちぴちと声を上げる鳥の声が美しく私の心の中に落ちていく。
私たちは五感を使って旅をしている、生きている。血潮を巡って、それらすべてが私の心をくすぐるのだ。

当たり前のようで、忘れかけていた真理に触れた気がした。

それからは、東京に帰っても、ふと人気のない街路樹の下や、夜の歩道橋の上で、マスクを取って空気を吸い込んでいる。
アルコールの香り、夜の香り、雨上がりの香り、甘いパンの香り、獣っぽい古本の香り、全てが色づいて私たちの血肉となり、感情となるのだろう。

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