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王珮瑜 台上見 試訳4

03、王思及先生

学校での9年間、私は多くの著名な教師から京劇を学ぶ幸運に恵まれました。
その中で最も重要な人物が王思及先生で、学校の指導部に対し私を推薦し、自ら指導教育を約束したおかげで入学することができました。多くの世論の圧力の下で思及先生は非常に危険な賭けをしました。そして、私と思及先生の運命はここから始まりました。

他の有名な芸術家に比べて思及先生は非常に地味ですが、彼は間違いなく余派芸術の継承者の一人であり、無視することはできません。
幼いころから家庭で薫陶を受け、京劇をこよなく愛する思及先生は14歳で上海演劇学校の京劇2組に入学し、京劇教育家・産保福氏に師事。私がそうであったように、14歳で入学試験を受けたとき、間違いなく遅いスタートとみなされていました。
当時、彼は家族から多くの芝居を学び天賦の才能を持っていましたが近視でした。主任審査員の言慧珠氏はわざと彼に遠くの芝生にある小さな札に何が書かれているか訊きました。思及先生は全く読めないので憶測して「立ち入り禁止」の文字が書かれていると答えました。言氏は笑って「野菜の苗が植えられています」と書いてあるのだと言いました。
話し合いの結果、この入学候補者は近視だが頭がよく機転が利き、家庭での薫陶を受け、とても京劇が好きだということで、例外的に入学が認められました。このエピソードを彼はずいぶん経ってのちによく口にするようになりました。

思及先生は在学中、プロの養成コースでの成績が非常によく、産先生に深く愛されその薫陶を受けました。十数年の蓄積と鍛錬により彼は皆に愛される老生(ラオ・ション)を専攻する(接班人)になりました。しかし残念なことに天は優れた才能に嫉妬します。20世紀の1970年代、思及先生は溶血性貧血症を患っていることがわかり、舞台を離れ、理想の役者になることを諦めました。
京劇に対する限りない熱い思いは、彼に学校の資料庫での仕事を選ばせ、そこで古い記録(レコードなど録音物?)の研究に専念し、余派を精力的に調べ上げました。

王思及氏


1980年代、京劇の復活にともない、先生は京劇茶屋を設立し、上海の京劇ファンの楽しみの場となりました。そのころ、私が蘇州から上海へ初めて来たのは、この小さな舞台が目的でした。思及先生は病身ながらお元気で熱心に人を助けていました。あの時の彼に私はあるべき姿のもたらす力を感じ、彼の人品・徳行、生活や芸術に対する彼の尽きない愛着に感心し憧れ親炙しました。
思及先生に教え子は無数におり、全国各地に拡がっています。先生と奥さんは芝居が縁で結婚しましたが、子供がいなかったこともあり教え子たちが実の子のようでした。特に私に対してはまさに親子のような師弟の間柄でした。

90年代の初め、先生は上海南市区の老西門で旧式の家屋に住んでいました。築100年の家屋は前にも後ろにも家が立ち並び、一帯には数十の世帯が暮らしていました。家の中は暗く、一日中家の中に陽が入ることはなかったし、専用の灯りもなく、現代的な衛生設備もありませんでした。こんな狭くて悪条件の家でしたが、先生の家は相変わらず賑やかです。週末、私たちは先生の家でゴハンを食べていました。私がネギと胡椒が嫌いだと知っていた先生は、ネギと胡椒がとても好物でした。それで別々に調理して私の分にはネギと胡椒が入っていませんでした。いま思うと私はなんて子供っぽいことの多かったことか。
先生はご存じのように寛大で、周りにいた人は多かれ少なかれ彼の好意を受けています。それは彼が金持ちだからではなく、生来大胆で古風だからです。私がコツコツ貯めた200元を銀行に預けようとしたとき、思及先生はすぐ奥の部屋から300元持ってきて、私に手渡し、500元まとめて持って行きなさい、とおっしゃいました。これは私の人生において、始めのまとまった大金です。この重みを一生忘れません。

資料:王思及 余音绕梁 京剧唱段选集
上海戏校已故高级教师王思及老师哼唱【搜孤救孤】选段
上記2点Youtube

【京剧】王思及教唱《空城计》《珠帘寨》《捉放曹-宿店》
上記1点BiliBili


老上海影集 1980年代的記憶・第1集から

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