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王珮瑜 台上見(たいしゃんちぇん、ステージで会いましょう) 試訳5

04 文昭関

王珮瑜 文昭関

思及先生は演劇学校の資料室に勤務していた時、張文涓さんと張少楼さんという二人の著名な先生方の助手もつとめており、また、文化広場の京劇茶座の創設者として多くの仲間との交流があり、業界で彼は熱意と誠実さ、余派の研究で知られていました。
92年京劇クラスは思及先生が正式にプロコースの教師を務めた最初のクラスであり、私は彼の最初のプロコースの学生です。
学校で最初に学んだ芝居は「文昭関」でした。この戯曲は長年楊派の最高傑作とされてきました。思及先生は生徒の適性に応じて指導の手引きを作り、これを踏まえて別の道を切り開きました。張文涓さんのパフォーマンステキストをベースに、汪(桂芬)派のボーカル処理の高音、音程のアップダウンを備えた二黄慢板(だいたいの意味として、二黄・マイナー、慢板・スローペース)で歌う「一輪明月照窓下」は一文字目の「一」に十三もの変化をつけ丁寧に磨きあげられ、独特のサウンドを生み出します。特に学び始めたばかりの私にとっては、ジャンルの枠を壊すことで物語にメリットをもたらす「口法」と「行腔」の基礎を作ることになりました。


(京劇の歌のテクニックとして非常に大切な基礎のようだが訳せないので中文資料から簡便な特徴説明を抜粋添付します。詳細は百度で検索してみてください)
口法:四声、读字、收韵、切韵、气口など。
行腔:颤音、嗽音的运用、注意收放(抑扬、轻重)揣摩人物,传神唱情など


詩文の「一」の字に十三もの変化をつけて歌う、工夫を凝らした様式は京劇「満江紅」の旋律から生まれました。伝えられるところによると、余叔岩さんが小小余三勝と呼ばれていた、まだ若い頃、常用していた歌い方で、彼自身はその後芸術的スタイルが成熟するにつれて用いなくなりましたが、この唱法(十三一唱法)は後の研究者たちの注目を少なからず集めつづけました。私が学んだ「文昭関」にはこのハイライトが含まれています。
 
一学期を学び終え、文化広場の二階の大リハーサル室で、思及先生は私のために自ら芝居の扮装をして見せてくれました。私は色鮮やかなズボンやブーツの履き方もわからず、衣装の先生がズボンの帯や靴ひもを結ぶのを手伝ってくれました。
そこから出るや否や、私は一心に思い描きました。厚底の靴を履き、髭を蓄え、芝居の扮装をしている自分を! 髭を蓄えているなんて、夢にまでみた憧れでした。実にカッコよく美しいです。
当時学校には個人用の衣装というものがなく、衣装担当の先生が学生に合わせて衣装や被り物を手配しました。「文昭関」には黒、灰、白色の三つの髭が必要で、舞台上でこれらを取り換えます。
私がどれだけ楽しみにしていたか言うまでもありません。しかし、予想もしていなかったのです。公用の髭は誰でも使うことができ、長期間使用するときれいにすることが難しいということを。あまりの悪臭にうっかりセリフを忘れるところでした。
舞台を降りたところで思及先生は真剣におっしゃったことは今でも覚えています。「臭い髭を使いたくなかったら、一生懸命勉強して、一生懸命稽古しなければならず、そうして役者になったら自分用の髭を注文することができる」と。なんとも滑稽で、忘れられない記憶でしょうか。何年も後になってからですが、私も生徒たちに同じように、一人前の役者になればこの困難から逃れられる、と言っています。

私とこの演目の絆がさらに深まる出来事がありました。
1993年11月のある日。私は王思及先生について「国際票房(国際京劇愛好クラブ)」に行きました。これは当時、上海灘の京劇愛好者の間で有名な豪華な場所でした。豪華というのは場所自体ではなくて、参加している面々の豪華さを指しています。理事長は汪道涵さん、副理事長が李儲文さん、舒適さん、程十発さん、程之さん。名誉顧問は陳沂さん、俞振飛さん、陳從周さん、盧文勤さん。王思及先生は副幹事でした。
その日私は少し前に学んだ「文昭関」の歌と演技の練習をして、程之さんから高い評価をうけました。特に思及先生の教え方のアイデアを称賛し、今まで聞いた「文昭関」のなかで最高のバージョンだとおっしゃいました。
当時、程之さんは父・程君謀さん(譚派の著名人、京劇愛好者クラブの譚鑫培と呼ばれていた)の誕生日記念公演を企画していました。もともと「文昭関」で出演予定だった梅葆玥先生が病気から快復したばかりということで、程之さんと王思及先生は相談して、私を舞台に上げ、開幕で「文昭関」を歌わせることにしました。
その時、私は15歳。多くの有名な先輩方と舞台を共にさせていただくことは嬉しくもあり、不安でもありました。
公演の数日前に程之さんは遠方からいらした梅葆玥先生一行のために宴会を催し、私も招待されました。梅先生は席につくと私をじっと見ました。程之さんはすぐに紹介して「これは演劇学校の二年生で、王珮瑜といいます。老生を学んでいる優秀な学生です。范石人さんの教授を受け、今は思及先生の生徒です。今回は臨時に彼女を呼びました。梅先生の代打で「文昭関」を歌います」。聞き終わると梅先生はまじまじと私の顔をみて、この子は額が良いし人中(鼻の下、鼻から唇までの間)も長いから髭をつけると見栄えが良いでしょう、孟小冬に少し似てますね、と言い、大師のコメントに私は恥ずかしさで赤くなったり青くなったり、、、呆然となっていました。
数日後、公演日を迎えました。蘭心大劇院は長楽路と茂名路の交差点にあり、座席数は少なく、快適な公演ができる古い劇場です。
午後早めに劇場にきて、ウォーミングアップをして、化粧をして、黙想していました。梅先生もかなり早く到着し、高性能のカメラをもってきて私の写真をいろいろ撮ってくれました。
公演は夜7時15分、定刻に始まりました。私は開演の銅鑼を叩きました。これまで何度もリハーサルを重ねてきましたが、公演本番の舞台は初めて。この時、私は先生が化粧や身支度だけでなく演技の仕方もアドバイスしてくれるだろうと思っていたのですが、喉を潤す水を与えながら、身振り手振り目の芝居、とにかく元気よく歌いなさい、とだけ言いました。
このように開演を迎え長錘(ちゃんすい)のリズムが鳴り響く中、舞台に登場し、ひとつひとつ勉強中の規範に従い動きを完成させました。プロ養成の門に入ったばかりの子供にとって、それは演技や人物描写ではなく、教師の動きを完全に模倣し、教えられた通りに実行する、ということでした。ですから、その時の演技は一種の「完成」であり、特に「十三一唱法」の完成は多くの拍手を浴びました。当時、聴衆はこの若い役者をよく知りませんでしたが、彼女の師である王思及先生についてはよく知っていました。この「文昭関」は思及先生の教育成果の公開報告のようなものでした。(王珮瑜のパフォーマンスの出来栄えはすなわち)彼の芸術的美学、教育能力が試される機会となり、結果はもちろん大成功でした。私たち師弟は手を携えて初めての成功を掴みました。
公演終了後、梅先生は「上海の演劇学校に余派の若い老生が登場した」というニュースを北京に持ち帰りました。

梅蘭芳(右)と息子の梅葆玖(左)


今回の企画をした程之さんは京劇の大支援者であり、博学、京劇研究もすこぶる深く、熱心に譚派芸術を伝えていて、老生だけでなく、隈取役の歌もよく歌い、京胡も弾くし芝居を教え、欠けのない人物でした。そして父・程君謀先生の誕生記念の公演会を企画したのですが、長年の無理がたたって一年後、突然の心臓病で亡くなってしまいました。
私を支え、愛し、青春時代の舞台の夢をかなえてくれた程之さんへの感謝を、私は今でも忘れません。そして程之さんとの縁は20年後、新たなかたちで更新されました。
2013年の初め、譚余派の著名人・李錫祥先生と知り合い、芸術問答に専心する機会があり、齢の差を忘れる友人となりました。2013年4月、私は李先生から教えられた「朱砂痣」を初演しましたが、これはまさに先生が若い頃、程君謀、蘇少卿、羅亮生ら先生方から入手した貴重な版本によるものでした。公演当日、私は程さんの家族を招待し程之さんの思い出と感謝を伝えました。

李錫祥先生と王珮瑜

参考:京剧《文昭关》选段一轮明月照窗前 王珮瑜


長錘 、文中にあるのは、開演なので速度の緩い慢長錘が鳴る中、舞台に登場したのだろうと思う。
京剧武场 慢长锤
京剧武场 快长锤

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