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わたしの神様とシロクマと吉澤ひとみさんと小説を書くことと大森望賞について

わたしは小説を書くのが恐かったのだ。
小学生の時は小説なんてその気になれば、いくらでも書けると思っているだけで、実際には図書室で世界文学全集の文豪たちの棚を回ってはケチをつけていた。レフ・ニコラーエヴィッチ トルストイがいかに正しくないか、彼がいかに世界の理を手にしようとしていないのかを読書感想文に書くような嫌な子どもだった。
それがあるとき、川上弘美さんの「神様」を読んで、これは完璧な小説だと思った。まさしく、「カ・ン・ペ・キ」という言葉が胸をつきあげて破れ辺り一面に溢れた。そして、川上さんがこの小説を書いた理由として、「突然自分はいま小説を書けるのだという気がした。そして、買い物から帰るといっきに数時間で書いた」のような文章を読んで、小説を書くと言うことは、そういうお告げがあるものだと本気で信じた。
また全く同じ時に村上春樹さんがはじめて小説を書くことになったのは、「ヤクルトの試合を神宮で見に行ったときに空から羽のようなものがおちてきて、いま自分は小説を書けると思った。そして試合はマニエルがホームランを打ってヤクルトが勝った」みたいなことを書いていて、春樹ちょっとモッテるの?と思わなくもなかったのですが、ああ小説を書くということは、空から何か白い羽のような物が降ってくるものなのだ。降らなければ小説は書けないのだ。と幼いわたしはサンタの存在を信じたのと全く同義で、小説を書くには「天から白いものがふってくる」と、そうしたら自然に小説というものは書けるのだと信じた。
そして熊たちが謎の棒を回して幾ばくかの時間を進めた。
わたしはシリアスランナーだった。フルマラソンを3時間前半で走り、年に5,6回はフルを走り、一ヶ月に一回は一マイル程度のレースに参加し、7月末はフジロックを見ながら苗場の山をトレイルランしていた。その時に偶然フジロックの苗場で会った(フジロックあるある)小学校のサッカークラブ仲間に24時間マラソンの誘いを受けた。その時の彼の話では富士山の麓で行われるマラソンのお祭りで、フルマラソンを3時間程度で走れるのはわたしと彼くらいで、あとはみんな素人だから一日中ビールを飲んで音楽を聴いて楽しくお祭りをするのだという説明だった。「あー、それは元祖フジロックだね」とかその時は呑気に考えた。
彼が運転をする車に乗せられ、富士山の麓に着くと、たしかに真夏の空と雲と富士山、流れるレッチリ、そしてキグルミを着て走るランナーやテント前でバーベキューや流しそうめんの準備をする家族連れ。そうそう、これだよねえ。とわたしは、キグルミや女装ランナーの間を通って、初めてあう自チームのテントへ向かった。
一目見て、メンバーは全員ガチだった。国立大体育学群在籍の彼の友人達はそれぞれが各スポーツのエリートだった。おまけにノートPCを前にした作戦会議では、一周約1キロの各自ノルマタイムが設定された。わたしには、3分20秒で様子をみてください。みたいなアバウトさを装った厳しい要求がなされ、結果、目標を守れず、ひとりだけ全く調子に乗れないまま、チームも最初はベスト3内だったのがずるずると後退をし、1キロは全力で走れても長時間走れない仲間は、かなり参っている状態だった。最初から調子が出ないわたしは、夜中の4時5時には、キロ4分におち夜中のオアシスもケパブもシャワーを浴びても、苦しみの富士マラソンでしかなかた。走れる仲間も半分くらいになり、ぼおっとなってスタートラインにたった朝の6時ころ、シロクマのキグルミを着たランナーがやってきて、わたしにタスキを手渡して、「はい、バトンタッチ」と言ったのだ。タスキだからバトンではないのだけど、彼は「バトンタッチ」と言ったのだ。暫くするとキリンのキグルミを着た彼の仲間がわたしに謝りながらそのタスキを受け取って、走って行った。まだ目の前にいたシロクマは、間違えたことを照れたのか、わたしを抱きしめながら、「ハイ、バトンタッチ、バトンタッチ」と言い続けた。わたしはそれが自分でもどういう気持ちなのかよくわからないのだけど、たぶん嬉しくなって、声を出して泣いた。それがわたしが覚えている限り最後の涙だ。それからまもなく、チームの仲間がやってきてタスキを受け取ると、わたしは全力で走ることが出来た。この時点で全参加選手最高の3分10秒台を出して、朝日の富士山の麓を走った。
そして熊たちが謎の棒を回して幾ばくかの時間を進めた。
2018年にモーニング娘。の吉澤ひとみさんが交通事故をしたことがあったのは知っていたが、モーニング娘のメンバーを誰も知らないほど関心も無かった。ただ、世間はちょっとこの吉澤ひとみさんに厳しすぎるのではないかと、ふと吉澤ひとみさんを検索すると、何かがわたしの心を揺さぶった。特にモーニング娘。を卒業してからのMCの男気のよさが、わたしの心を掴んで離さなくなった。そして吉澤ひとみさんの資料を集めるうちに、わたしは思った。「自分が映画監督や舞台の演出家だったら、もう一度吉澤ひとみさんに輝く機会を与えられるのに」と。
そして熊たちが謎の棒を回して僅かな時間を進めた。
そして2019年のとある日、「吉澤ひとみさんを何とか助けたい」と思いながらネットでゲンロンSF創作講座というものの存在を知ったわたしは、気がついた。なんだ自分で小説を書いて、それを吉澤ひとみさんに演じて貰えばいいのだと。そう、その瞬間わたしの上から少年合唱団の唱う賛美歌が流れ、白い物が舞い降りて、白いモノがわたしの体全体を覆ったのです。
そうしてあっというまに、わたしはゲンロンSF創作講座に申し込み、一年間吉澤ひとみさんを主役にした小説らしきものを書き続けた。まったく大森望主任講師には相手にされなくも艱難辛苦を乗り越え、最後の受戒を書いたのです。
まあ、ここまでは、よくある話だ。それはいい。しかし。8月28日の最終選考会をZOOMとやらで参加したわたしは、完全に舞い上がってしまい、ゲスト審査員の方達のお話を全く聞こうとせずに、ひたすら屁理屈を話し続け講評を受ける気のないような態度をとってしまいました。
菅浩江様、伊藤靖様、東浩紀様、誠に申し訳ありませんでした。あの時のわたしはわたしでありながらわたしではない者に心を占領されていたのではないかと思われます。多大なご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。何卒ご容赦のほどお願い申し上げます。

あーあの動画、削除したい。でも、大森望賞、ありがとうございました。

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