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私は、専業主婦になりたかった


旅と人生は似ている

よく、旅と人生は似ている、と言われます。

予定を立てて観光地をめぐる旅行とは違い、旅は不透明な世界を、直感に任せて歩くもの。「先が見えないから面白い」という意味では、たしかに、人生は旅と似ているのかもしれません。

私の人生も、筋書きのないドラマです(誰だってそうですね)。

いまではSHIROの会長、ブランドプロデューサーを担っていますが、経営者になる未来を想像したことはありませんでした。両親はサラリーマンで、一人っ子の私は大切に育てられたこともあり、大胆にリスクを取るような性格ではなくって。小さな頃の私に、「あなたは将来、会社を経営しているよ」と伝えても、絶対に信じてもらえないでしょう。

当時の私の夢は昔から、「専業主婦になること」。いざ就職活動の時期になっても、その将来像は変わっていませんでした。

そんな私が、どうしてSHIROを経営することになったのか。今日は少しだけ、人生を振り返ってみます。

「正解のある時代」に生まれて

私の出身は、北海道の旭川市。
一般的なサラリーマン家庭に一人っ子として生まれ、なに不自由なく暮らしていました。ピアノを習わせてもらったり塾に通わせてもらったり、習い事が多い、ちょっと忙しい子どもでした。

小さい頃の私にとって、両親の愛情はとても嬉しい反面、荷が重い部分もありました。入学式も、学芸会も、卒業式も、親にとっては何もかもが最初で最後です。

親の期待を必要以上に感じてしまって、何度か逃げ出したくなったこともありました。卒業文集の「将来の夢」を読み返すと、こう書いてあります。

「ピアノの先生になりたい」

子どもながらに、きっと空気を読んだのでしょう。
本当はそんなこと、これっぽっちも思っていなかったのに。やりたいことなんてないし、頑張りたいこともない。親の期待に応えなければというプレッシャーが強く、人生への希望を抱けていませんでした。

私が過ごした青春は、勉強していい大学に進学して、大企業に就職することが素晴らしいという「人生の正解」があった時代です。

でも、私にとってそれは、どうにも理解し難いものでした。
筋書きのある人生を送ることの楽しさが、本当に分からなかったんです。私と同じ時代を過ごした人たちはきっと、多かれ少なかれ、そうした抑圧を感じながら生きていたように思います。

とりわけ縛られることが苦手な私は、中学生になると小さな反抗をするようになりました。塾をサボるようになり、悪い友だちと遊ぶようになって、深夜に帰宅する日が増えていきました。

今は「正解のない時代」と言われていて、「答えのなさ」に悩む人が多いと聞きます。もちろん、自分で答えを見つける苦しさもありますが、私にはそれがとてもうらやましく思えます。

私が若かった時代は、やりたいことを自分で探していいと思えるような空気がありませんでしたから。

働くつもりはなかったのに

自由になりたかった私は、高校卒業を機に親元を離れました。
勉強が嫌いだったので、進路は4年制の大学ではなく2年制の短大に。実家から遠い学校に通って、ひたすら遊んで過ごす計画でした。

実際、大学にはほとんど通いませんでした。
出席が必要な授業は返事だけして抜け出して、出席しなくてもバレない授業は友だちに代返をお願いして切り抜けていました。

授業に出るはずだった時間は、バイトをするか、寝ているか、遊んでいるか。

就職活動も「みんながやっているから、やる」くらいの感覚。
数年だけちゃんと働いて、早く旦那さんを見つけて、専業主婦になろうとしか考えていませんでした。夢があるとすれば、幼稚園に子どもを迎えにいくことくらい。母が働いていたので、家で子どもを「おかえり」と迎えられる親になりたかったからです。

そんな私がローレルに出会ったのは、偶然でした。
 北海道の金融機関に内定をもらっていたので、就職活動を続ける必要はなかったのですが、友人に連れられて合同説明会に参加することに。

どうやってヒマを潰そうか、会場内を歩いていると、参加者が誰もいないブースに座っているおじさんを見つけました。彼は、自社農園で育てたハーブを使った製品を販売する、ローレルという会社を経営していました。

特にやることもなく、軽い気持ちでブースの椅子に座ったことが、私の人生を大きく変えるきっかけになりました。

「発展途上国の子どもたちを北海道に呼んで、農業を教えて、自分の国を良くするサポートをしたいんだ」

おじさんが、私しかいないブースで、キラキラと目を輝かせながら自分の夢を語ってくれたんです。

その姿を見て、「この人と一緒に働きい!」と直感しました。それまで、自分の夢を語る大人に出会ったことがなかったので、刺激を受けたんです。

誰でも夢を持っていいんだ。
自分の人生は自分で変えていけるんだ。
 
そんな当たり前のことを、20歳になって初めて知りました。
ローレルという会社は知りませんでしたし、どんな事業を運営しているかも分からなかったけれど、私にはここしかないと確信しました。

会社を潰すか、社長になるか

ローレルに入社後、最初の仕事が社長秘書でした。
ところが、たった3ヶ月でクビになりました(笑)。

秘書ですから、当然あらゆるお願いをされますよね。「鉛筆を持ってきて」「コピーを取ってきて」というオーダーに応えるのが仕事です。

でも、生意気な私は「自分でやればいいじゃん」と本気で思っていました。さすがに言葉にはしませんでしたが、きっと顔と態度に出ていたんでしょうね。当時の社長に、人間性を見透かされてしまいました。

秘書をクビになった後は、販売スタッフを任されました。
もっと謙虚になるべきだし、人に頭下げる経験をしてみるべきだという、社長からのアドバイスからです。この仕事は肌に合っていて、楽しく現場に立ち、成果も出せていました。

その後は製造スタッフ、製品開発、そして営業と、経理以外のありとあらゆる仕事を経験させてもらいました。

何をするにも、とにかく必死。
たとえば、営業として新規開拓をしていたときは、まだインターネットはなかったので、分厚い電話帳をめくり、104に連絡して電話番号を聞き、テレアポをする毎日でした。やりたいことをやらせてもらえていたので、仕事がとっても楽しくて、あっという間の日々でした。

就職してから6年が経った時のこと。
さまざまな部門で働かせてもらい、「この会社で学べることは、一通り経験できたかな」と思うようになりました。社長にはお世話になりましたが、新しいことへの挑戦と、結婚への気持ちが大きくなって、「退職します」と伝えにいきました。

ところが、社長の返事は、まったく想像していないものでした。

「今井さんがやめると、ローレルがなくなっちゃう。退職して会社を潰すか、今井さんが会社を継ぐかの二択です」

快く送り出してくれると思っていたので、びっくりしました。
社長の目は本気でした。

どうしたものかと悩みましたが、合同説明会に参加してからその日までのことを思い返すと、社長の想いに応えないわけにはいきませんでした。

夢を持つことの大切さ。
豊かな生活は先人の努力の賜物であること。
後世に豊かな社会を引き継ぐという使命。

未来に対して期待も希望もなかった私に、たくさんのことを教えてくれた社長とローレルに感謝していました。だからこそ、恩返しをしたいと思いました。

また、営業をしていたので、会社の経営がうまくいっていないことは知っていました。いずれ会社がなくなるかもしれない。であれば、今なくなるのか、私が社長をやってみてなくなるのか…。
だったら挑戦してみようと自分に言い聞かせて、決断しました。

そして、打診があった数時間後に、「やります」と返事をしていました。
26歳でした。

専業主婦を夢見ていたのに、20代半ばで社長になった私の人生は、予定調和の存在しない「旅」そのものです。

私の人生の旅は、それからもっともっと複雑になっていきます。
お土産屋さんから、大手化粧品雑貨のOEM、そして自社ブランドへの転換。

その間、さまざまな人から、いろんな言葉を投げかけられました。
社長になってからのお話は、また次回にお届けします。

(編集サポート:泉秀一、小原光史、バナーデザイン:3KG 佐々木信)

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