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眠りの森のいばら姫 4/5

インド、ボンベイ

フランキーとフィオナは、MI6の諜報員の協力で名簿を操作してもらい、無事パーティー会場に潜入することができた。
会場はかなり広くゴージャスな造りで、グラスのぶつかる音、シェイクする音、着飾った女性たちが舞うボリウッドダンスのミュージック、客たちのおしゃべり、笑い声など、ざわめきが混じり合っている。フランキーは目の上の彫りが深く、鼻筋の通った爽やかなイケメンフェイスを装着し、黒色のスーツに黒の蝶ネクタイを合わせていた。フィオナは、ネイビーのスリットが入ったワンショルダードレスに黒いレースのグローブを着けている。右手の怪我を隠すためだ。あまりのセクシーな出立ちに会場に入った瞬間から、男どもの視線を釘付けにしていた。

(おいおいおい……初対面からキレーなねーちゃんだとは思っていたけど、これは国宝級だろっ……一緒に歩いているだけで視線が痛いぜ!)

フィオナをエスコートしながら、しょうもない自尊心が満たされていくのを感じる。だが、忘れてはいけない。今日はパーティーを楽しみにきたのではない。

目的は――コネリーの暗殺。それと、このパーティー会場で何か取引が行われる可能性が高いため、その現場にコネリーに変装したMI6の諜報員が潜り込むことだった。

コネリーの奥さんは残念ながら来ない。一昨日の夜、フィオナが奥さんのアパートメントに侵入し、盗聴器を回収するついでに、飲料水に薬を混ぜたためだ。今頃猛烈な腹痛に襲われているだろう。もちろん、薬は無味無臭。腹痛を引き起こすためだけのもので、数日で完治する代物だった。

「十三時の方向、ターゲット発見」フィオナがフランキーの耳元で囁く。

その方向には、コネリーが三人の女とビジネスの友人に囲まれながら、タバコを嗜んでいた。ダークグレーの目に、こけた頬。その左側には、5cmほどの傷跡が斜めに走っている。いかにもアブナイ男という風貌だが、それが反対に女性にウケているようだった。今も奥さんがいないことをいいことに、自分が気に入った女の腰に手を回している。いや、おそらくヤツは奥さんがいようといなかろうと、こういうことを平気でしてしまうのだろう。
フィオナはフランキーから離れ、一人ターゲットに接近する。フィオナの視線がコネリーと絡まると、近くにあるマカロンタワーに飾られていた葡萄を一つ手に取り、艶かしく口に入れた。当然、コネリーもその官能的なしぐさに目が離せなくなってしまったようで、すぐにフィオナのもとへ訪れ、彼女の隣のハイスツールに腰を掛けたのだった。

「調子はどう?」

「まあまあってとこかしら。あなたは?」

「最高に決まってるだろ。今頃天国は大騒ぎしているぜ」

「??どういう意味なの?」

「君という天使がいなくなったってことだ」

フィオナは黙り込む。開発したばかりの小型の無線機を耳に装着しているため、この会話も全てフランキーやMI6の諜報員に漏れているのだ。遠くから見ているフランキーには、彼女の考えていることがなんとなく分かるような気がした。

(こんな歯の浮くようなセリフをよく言えたもんだぜ。アイツ絶対、何言ってんのコイツ、気持ち悪って思ってんだろうな)

しかし、あくまで彼女のキャラクターはいつも通りだった。媚を売るわけでもなく、至極冷静沈着。
無線機から、こちらはいつでもオーケーだ、と聞こえた。裏に回っているMI6の連中もこれから発生する死体の処理と変装の準備が整ったようだ。
フィオナは「ありがとう」とだけ呟くと再び黙り込んでしまった。が、沈黙はそう長く続かなかった。というのも、フィオナがフランキーにチラチラと目配せをしているからだ。フランキーは怪しまれないよう、お酒を片手に同席した人たちとの会話を楽しんでいるフリをしていた。
『男は焦らしたり挑発したりすると良い』これも黄昏から教わった「社交術」だった。

「ところで、聞きたいことがあるんだけど、君の視線の先にいるのはだれ?主人?恋人?」

ほら、ひっかかった。フィオナは心の中でガッツポーズをした。

「いいえ。仕事の同僚よ」

「なるほど……何か好きなお酒はある?」

「ウイスキー」

「ふーん。今飲んでいるのは、ワインなのに?」

「ええ、そういう気分なの」

なぜかコネリーは神妙な顔つきをしている。何か間違えたことを言ってしまったのだろうか、それとも何か勘繰られてしまったのだろうか。フィオナが不安に駆られる中、配給係(と見せかけた男)がコネリーに近づいてきて耳打ちをした。だが、耳の良いフィオナにはその会話は全て筒抜けだった。

『ナス氏が二十分後にプライベートルームにて取引をしたいと』

『今からでも構わないが?』

『承知しました。では、そのようにお伝えして来ます』

まずい、どうにかしなければ、と思った時には「向こうでタバコを吸ってくる。今夜を楽しんで」と離れていってしまった。

一人残されたフィオナ。
「……離れてった」と小声で報告するとすぐにフランキーが近づいてきた。

自分のしくじりに悔しくなったのか、フィオナは唇を噛み、瞳を潤ませている。フランキーは意を決して、彼女が飲もうとするワイングラスを手で制した。

「これは今思いついたことなんだけど、絶対の絶っ対にひっぱたくなよ」

フィオナの頬に手を添えると、二人の距離が一気に縮まり、情熱的な口づけをする――フリをした。つまり、唇が触れる寸前で止めているのだ。頬に添えている手のおかげでそれっぽく見えているに違いない。女諜報員であるため、キスの一つや二つは経験済みだろうが、自分とは死んでもしたくないはずだと考えての判断だった。

しばらくして、視線を絡める。

「……嘗めてるの?」

「あ?アンタを思ってこうしたんだけど――!?」

マスクごしでも分かる、驚くほど柔らかな唇の感触。赤らんでいる瞳。それは本当の意味で情熱的かつ官能的な口づけだった。何度か角度を変えて口づけた後、彼女を瞳に映しながら距離を取る。あくまでも自然に。だが、フランキーの腰は今にも砕けそうだった。
とんでもない経験をしてしまったと全細胞が歓喜してしまっている。「ちょっと、トイレ」小声で言うとヒールで足を踏まれた。呻き声を噛み殺しながら、颯爽と離れていった数秒後。再びコネリーがフィオナに声をかけに行った。

「あんな男のどこがいいの?」

「……どこだと思う?」少しだけ口角を上げてみせる。

「君みたいなホットで美しい女に、あの男は似合わないぜ?」

フィオナの艶やかな笑みにコネリーはすっかり虜になってしまったようだ。配給係(と見せかけた男)を呼び出し、『三十分後に変更してくれ』と耳打ちするとフィオナのくびれた腰に手を回して、ゲストルームへと姿を消した。
キングサイズのベッドの上で、見つめ合う二人。フィオナはコネリーの胸を押して寝そべらせると、お腹にまたがり、膝を締めてお尻を浮かせた。そのまま、人中を殴りガードしたところをすばやく腕十字で固めた。突然の出来事に、コネリーが呻き声をあげる。

「何の取引をするの?答えなければ腕の骨をへし折るわよ」

「ぐっ……クソッ……爆、弾の、はっ、しゃコード……だ」

「それはどこにあるの?」

「はっ配給、係……に、預けてる……シル、バーの、ケース」

「番号は?」

「13……55……97」

「爆弾は?」

「コードと……一緒、に……情、報を……いれ、てる」

「お前も、ヨルに手を出したわね?」

「ふ……ぐっな、ぜ、それを」

「さっさと死んでしまえ」

情報を全て聞き出すと一層強く絞めつけて失神させ、レッグストラップに挟み込んであるリップスティック型の注射針を太い首に刺した。

――任務完了

偽コネリーと死体回収係が裏経路から入ってきたちょうど十分後。フィオナは偽コネリーと腕を組みながらゲストルームを出て、アリバイ作りができたところで、フランキーと合流したのだった。

♦︎

東国、郊外

ロイドは、自分の看病のためだけに十日間特別休暇を得たらしい。休暇中は、ほとんど一日中そばにいてくれた。
ヨルの意識が戻ってからの食事の時間は、ロイドとアーニャ、ボンドと家族そろって食べる日が続いた。もちろん怪我が治るまでは、アーニャの前でも「あーん」は継続中だった。

「ヨルさん、熱くないですか?」

「あっ熱くはないです」

スプーンを片手に冷静なロイドと顔が赤らむヨルを見て、アーニャは「ちちとはは、いちゃいちゃ?」と尋ねる。ヨルは無言で俯いてしまうが、ロイドは「いちゃいちゃじゃない、看病だ」と言い聞かせていた。

どうしても恥ずかしさが勝り、後で食べるか自分でなんとか食べるか説得しようとしたのだが、ロイドがそれを許さなかった。彼曰く、夫婦関係が良好な場合には、子どもの学習能力形成にもプラスの影響を与えているのだという。精神科医である彼の言うことだから正しいだろうとヨルは信じて疑わなかったし、なによりも毎食経験していると次第に慣れていったのだった。
調子が良い日には、寝る前に数十分だけアーニャに絵本を読んであげたり、歌を歌ってあげたりすることもできるようになった。もちろん体の自由が効かないため、ヨルの療養室で、ロイドが見守っているなか、という条件付きではあるが。
アーニャもアーニャで、朝から夕方までベビーシッターのもとで勉強に励んでいた。さすがに勉強だけではしんどいので、テレビを観たり、外で遊んだりする日もよくあると聞いている。
ロイドとはあの日以来、抱きしめてもらったりキスをしてくれたりというのはなくなった。だけど、ヨルを見る目は変わった気がする。以前よりも優しさに溢れているような、まるで愛されているのではないかと錯覚を起こしてしまいそうな、そんな目をしていた。

「では、ヨルさん、おやすみなさい」

今だって、慈愛に満ちた目をしている。

「ロイドさん、おやすみなさい」

ロイドが微笑みながら扉を閉めた。ヨルはすっかり慣れた機械音の空間で目を瞑る。が、全く眠れない。
あの日から眠るのが怖くなったため、睡眠不足が続いていた。眠ると十回に八回は悪夢を見る。起きると何の夢だったか忘れてしまうが、その夢で抱いた感情だけがずっと残り続けていた。苦しい、辛い、怖い、悲しい、憎い、恨めしい、いろんな負の感情が胸を蝕む。まるで、早くこの家族から離れろとでも言っているかのように、ヨルは感じていたのだった。

♦︎

ロイドの特別休暇が終わって五日経った今日、アーニャはブラックベル家でお泊まり会をする予定らしい。ヨルはある決意を実行するなら今日しかないと密かに段取りを組んでいた。
ヨルは意識を取り戻してから、一週間ほどで普通に生活できるほどには回復していた。医者曰く、驚異の回復力らしい。多分、生まれつき身体が強いのだと思う。
家族そろってリビングで朝ごはんを食べてから、ロイドとアーニャは支度する。アーニャはブラシと可愛らしい髪飾りをヨルに手渡し、ヨルを洗面所に引っ張っていった。

「はは、このまえみたいにかみくくれ!」

「ふふっ、アーニャさん。喜んで!」

アーニャのふわふわ桃色ヘアーを丁寧にまとめていく。数分で綺麗なポニーテールを結んでやった。

「できましたよ!」

鏡で右、左と首を振り揺れるポニーテールを見て、アーニャの表情がぱああっと明るくなる。

「はは、やっぱりすごい!あざざます!」

振り返って満面の笑みを浮かべるアーニャ。
ヨルも微笑み返しながら、またいつでも結びますよ、と言うつもりだった。

――が、できなかった。

しゃがみ込んで、アーニャをギュッと抱きしめる。病み上がりということもあり、ヨルの力は肺を締め付けるほど強くない。むしろ、大切で大切で仕方がないという想いが溢れているような抱擁だった。

「……はは?」

アーニャの呼びかけにパッと離れる。

「アーニャさん、ごめんなさい!アーニャさんが可愛くてついハグをしてしまいました!」

今日は新月の日。アーニャに心を読む能力はなかったが、ヨルの笑顔に違和感を覚えていた。

「はは、さいきんげんきない。なんかかなしいことあった?」

「なっ、ないですよ!すっかり回復して元気もりもりです!」

アーニャがヨルの頭をよしよしと撫でる。その手の優しさに胸が苦しくなってきて、視界が滲む。「め、目にゴミが入っちゃったようです。目薬をさしてきますね」と下手な嘘をつきながら、自室へ逃げてしまった。

残されたアーニャにボンドが擦り寄る。ヨルが睡眠不足なのは、普段の心の声から分かっていた。でも、なぜ睡眠不足なのか、までは分からないでいた。纏わりつくボンドの予知が頭の中に流れてくることはない。なぜ今日に限って心の声が読めないのだと悔しい気持ちになり、せめてものヨルの助けになればと、ロイドに「はは、ちょーしがわるいそうだから、かんびょーしたほうがいい」とこっそり告げ口をしておいたのだった。

「ちち、はは、いってくる」覆面警察にアーニャの見送りを任せる。
詳細はわからないが、精神科医が患者に追われるという深刻な状況だから、一時的にこの家にいるとロイドに聞いていた。だから、本当は外に出歩くこと自体危険なことであるが、警察の目の届く範囲であれば外出も許可されていた。夏休みであるのに、家に篭りっぱなしはさすがに可哀想だとロイドも考えていたようだ。(この警察がWISEの工作員であることをヨルは知らない)

「ああ。迷惑をかけないようにな」いつものトーンで言うロイド。

「うぃ」

「アーニャさん、楽しんできてくださいね」穏やかに微笑んで言うヨル。

「……うぃ」

先程のヨルはもういない。手を振ってアーニャを見送っている。すっかりいつも通りだ。アーニャはヨルに心配そうな視線を送りながら、スーツを着こなした初老の女性に手を引かれて外に出ていった。

「ヨルさん、ちょっと失礼しますね」

ロイドは黒い手袋を外すと、ヨルの額をぴたりと覆った。
一瞬ぴくりと肩がはねる。額に手が添えられたまま、顔を覗き込まれ心音が耳まで聞こえてきている気がした。

「……熱はないようですが、体調はどうですか?まだ痛みますか?」

その瞳はさざなみのように穏やかで、弱さや寂しさ、愚かさ、不安、恐れなど全てを包み込むような透き通った青色をしていた。額から頬に温もりが移る。

「もしヨルさんが辛いのであれば、ボクは午前休か午後休をとります。もっとボクを頼ってください」

ダメだ。
この人とこれ以上一緒にいてはいけない。
潜在意識が警鐘を鳴らす。

「私は、元気です。ロイドさんが看病してくださったおかげで体調もとても良くなりました。ありがとうございます。だから――」ロイドの腕に手をかけ、温もりを遠ざける。

「これ以上優しくしていただかなくても、大丈夫です」

頑張って笑顔を浮かべた。いつも通り。大丈夫、私はいつも通り、と無理やり言い聞かせて。
ロイドは、困ったような傷ついたような顔をした。そんな顔を見て、また心が鉛のように重たくなる。

「すみません。ボクの杞憂だった、ようですね」

ほんの数秒。気まずい空気に耐えられなくなり、「あ!もう九時前です!ロイドさん、お仕事に間に合いますか?!」わざとらしく明るく振る舞う。

「本当ですね、そろそろ行かなければ」

「私のせいで、お仕事に支障をきたしていたら申し訳ないです」

「……そんなことないです。ヨルさんには早く完治してもらいたいので。ヨルさんが笑顔でいてくれれば、それでいいのです」

ロイドが手袋を装着し、アタッシュケースを持ち上げるとそのまま玄関へ向かう。行ってきます、と微笑みながらアイボリーの中折れ帽を軽く持ち上げると、光の中へ消えていってしまった。
ヨルはその場にへたり込む。

どうしてそんなに優しくしてくれるのだろう。
どうしてこんなにも温かいのだろう。

(ロイドさんがそんなだったら、私、勘違いしてしまうじゃないですか)

つうっと一筋涙が伝うと、あとはとめどなかった。

(犯した罪の重さは計り知れないのに……もしかしたら、ロイドさんの本当の妻になれるんじゃないかって)

ボンドがヨルに擦り寄ってくる。その様子は、まるで大丈夫?とでも聞いてきているかのようで、余計に涙が止まらなくなった。

(これ以上欲深くなる前にここを出ないと)

自室に向かい離婚に必要な申請書、召喚状などの書類が入ったファイルと封筒と手紙を取り出す。今日のために、ボンドの散歩や買い物をしながら、近くの役場(職権をやや乱用した)や雑貨屋さんでこっそり手に入れたのだった。
諸々の必要書類は全てサイン済み。あとはロイドが記入さえすれば、提出できるようにしてあった。
封筒には辞表が入っている。部長宛に郵送し、市役所と殺し屋のお仕事の両方を辞める意思を記してあった。
残りの手紙はフォージャー家へ。ロイドとアーニャ、ボンドには自分のことを忘れてしまうくらいに幸せになってもらいたいから、内容は簡単なものだった。
ニールバーグへの片道乗車券と三食分買えるくらいの少ないお金、ハンカチ、ティッシュ、着替えだけを愛用のショルダーバッグに入れる。
あと一つ、持って行きたいものがあったが、それは数年お世話になったあのアパートメントにあった。ボンドの散歩を済ませてから餌をあげ、自分も軽く昼食を済ませると、この家を後にしたのだった。

♦︎

東国、郊外

任務が完了した、とフランキーから一報が入って三日経った。コネリーの暗殺に成功した彼らには五日間、外国を満喫してから帰ってこいとハンドラーからの指令が出ていた。MI6の長官も、トラックに積まれた一トン爆弾と発射コードが武装組織ミャンアーハに渡らずに済み、多くの命が救われたとWISE局長に感謝の意を伝えたらしい。旅行はその功績を讃えたものだった。二人とも今頃は、ヨーロッパのどこかの国でバランスを楽しんでいるだろう。だから、フランキーやフィオナがここを訪れることはない。アーニャもお泊まりでいないため、夕食は久しぶりにヨルと二人きりだ。赤ワイン、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、牛肉……今夜はビーフシチューでも作ろうか、などと考えながら帰宅した黄昏時。

食材の入った紙袋をダイニングテーブルの上に置いたっきり、足に根が生えたように立ち尽くした。

そこには、離婚に必要な諸書類と預金通帳、「アーニャさんの学費にでも使ってください。今までありがとうございました」というメッセージに、通帳のパスワードだけ書かれたシンプルな手紙が置いてあった。

さあっと血の気が引く。急いでヨルの部屋をノックし中を確かめるが誰もいない。家に入った瞬間から気配で分かってはいたが、確認せずにはいられなかった。

(ヨルさんは……どこに行った……?)

考えられる線は二つある。一つは最悪なパターンであるが、自害の線。もう一つはシスターになる線だ。どちらにせよ、一刻も早く見つけ出さないとヨルに会うことは永遠に叶わなくなってしまう。
『ヨル・フォージャー行方不明。情報を求む』と暗号化した手紙をハンドラーに届けるよう部下に押し付け、ロイドは駆け出した。
ヨルと一度は訪れたデートスポット、職場の同僚の家、ヨルが以前住んでいたアパート、車に乗ってニールバーグの生家(別の人が住んでいた)にまで足を運び、砂漠から一粒のダイヤを発見しようとするくらいにくまなく探したが、彼女の姿が見つかることはなかった。見張りをしていたWISEの工作員にも話を聞いたが、大した手がかりを得ることはできなかった。

星明かりが照らす部屋で、そっとベッドに腰を下ろす。窓の外の星々を眺めていると、膝枕をしながら聴いたあの夜が蘇ってきた。

銀色の明かりの下
お眠りなさい 
私のかわいい王子さま
お眠りなさい

ヨルの歌声が好きだった。どこか懐かしい、母に包まれていた幼い頃を思い出させてくれるから。
ギュッと目を瞑り、もう一度手元にある書類に目を通す。だが、当然のごとく書類は全てサイン済み。一文字一文字覚悟を決めるように、丁寧に書かれているところも気に食わないし、不安を掻き立てられるだけだった。勿論、サインをする気はさらさらなかったため、小さく折りたたんでスーツの内ポケットにしまい込む。

(オレの何が気に入らなくて、何が不満だったのか……)

黄昏のハニートラップに掛かった女性や任務に関わった女性は、大抵ハンドラーに叩き込まれた社交術や自身の度重なる交際経験により、パターンが読めていた。それに、ハニートラップに掛からなかった女性も今まで一人もいなかったのだ。どうすれば喜ぶのか、どうすれば落とせるか、全て完璧に分析していた。

だけど、ヨルは違った。

ヨルとアーニャと暮らし始めてから、西国一のスパイと謳われている自分がどれだけ手を焼いてきたことか。

(特にヨルさんは、いつもどこか抜けてたな)

偽装結婚が成立した日も、ヨルから突然のプロポーズを受け、盛大にすっ転ぶほど驚いたり。
南部シチューを美味しいと褒めただけで泣き出し、焦ってしまったり。
フィオナとのテニス勝負、ベッキーとの力比べでも、人離れした強さにドン引きさせられたり。
呆れたり焦ったりすることなんて日常茶飯事だった。
ユーリへの結婚報告が一年遅れた言い訳を任せた時も、殴打療法をアーニャに漏らしてしまった時も。
綿密に練ったデート計画だってうまくいかないし、彼女に仕掛けたハニートラップも、強烈な蹴りによる巨大な顎の腫れ(気絶もさせられた)となって返ってくるし、リゾート島で過ごしたバカンスでも立ったまま肩にもたれかかって熟睡してしまうし。
全てが非日常的で、有り得ないことで、起こり得ないことで、分析、蓄積してきたパターンに当てはめることすら敵わない。
けれども。
『大丈夫です。自信持ってください。アーニャさん言ってたじゃないですか、百点満点だって。ロイドさんはアーニャさんにとって、立派な父親です』悩んでいる時に欲しい言葉をくれて。
『私、頑張ります!お二人のために一生懸命努力します!』何事にもいつも気持ちが真っ直ぐで。
『私、結婚相手がロイドさんで良かったです』純粋で濁りのない瞳を向けてくれる。

ヨルは、そんな人だった。

『捜索中だが、今のところヨル・フォージャーに関する情報は掴んでいない。一週間以内に見つからなければ、残念だが、再婚を考え始めなければいけないだろう。その場合、こちらでは死別と処理しておく』今や灰になってしまったハンドラーの返事を思い出す。

「さようなら」だって、いつも自分から言っていたはずだ。出会いも別れも全て自分でコントロールできるものだと信じて疑わなかった。任務のための恋愛関係。任務のための交際。相手からそれを終わらせられることなんて、今までに一度もなかったのに。

(何でオレが、こんな思いをしないといけないんだ?)

ヨルをこのまま切り捨てる選択肢もある。再婚して迎えた新しい妻の方が、ステラをすぐに獲得できてしまうくらいに、もっとアーニャの教育に力を入れてくれるかも知れないし、トラブルの連続に悩まされなくて済むかもしれない。
そう考えてしまいたいが、心の奥ではそれを許さなかった。その未来を想像するだけで、胸がえぐられているかのように苦しくて仕方なかった。

『お前はすっかりヨルさんを愛しちまってるんだよ。家族としてだけじゃなくて、一人の女としてな』

頬を伝う温かい感触に驚く。

(泣いてる……?)

もちろん、嘘泣きで事を凌ぐことはよくあるとしてもだ。

(なんて……オレ、らしくない……)

いつの間にヨルが自分の中で、これほど大きな存在になっていたのだろうか。偽装結婚が成立した日からずっと、彼女には調子を狂わされ続けていたはず。何度も黄昏の仮面を外されてきたはず、なのに。

――いや、違う。

らしくないのではない。
これが本来の「オレ」の姿なのかも知れない。
ヨルもアーニャも、本当はごく自然に黄昏やロイドから、ありのままの自分を引き出してくれていたのかもしれない。昔の自分で居させてくれていたのかもしれない。なぜなら、こんなにも二人といることに居心地のよさを感じてしまっているのだから。

インターホンが鳴る。顔を整え、外を確認して扉を開けた。

「ピザのお届けぴょん」

(緊急時の暗号――)

髭が生えた小太りの男から袋を受け取り、慌てて机の上で蓋を開ける。箱の中には、いつも通り小さなレコーダーが一つ。恐る恐る再生ボタンを押すと、ノイズの中に機械音声が流れた。

『フォージャー家周辺で異様な動きを確認。KGB極秘部隊の一部が関わっている。リーダーは――。他のメンバーは二人確認済み。このメッセージは五秒後に消滅する』

ポンッと爆発音が鳴り、レコーダーが故障した。

「……そうだった……フォージャー家に行かないと」

フォージャー家の捜索が、すっかり頭の中から抜け落ちていたことに諜報員としての不甲斐なさを感じながらも、ロイドの体はすぐに動いた。念のため、必要になりそうな武器と変装セットを抱えて、WISEが用意した車に乗り込むのだった。

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