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眠りの森のいばら姫 5/5

東国、バーリント

現場に着くと、やはりKGBの極秘部隊がフォージャー家のマンション前で息を潜めていた。どうやら周辺にも広範囲にわたって仲間がうろついているようだ。

「行くぞ」

黄昏は周囲の動きを確かめながら、KGB極秘部隊Cグループのリーダー、ジュピターに続いた。
夜中の二時を回っているため、近隣住民の姿はない。ジュピターはピッキングでほとんど音も立てずにフォージャー家の玄関の鍵を開けると、「サターンは、ポイントBを。マーズはポイントCを捜索しろ」小声で言う。
サターンやマーズ、ジュピターは、コードネームだ。
黄昏は、マーズの指示を受けた。というより、ポイントCに指示されるよう、わざわざこの部隊の一員に変装したのだ。

(そこには、オレやヨルの寝室が入っているからな)

この家にヨルがいなければ、本当に行方不明ということになってしまう。そうであれば、どれだけ探そうが見つけることはできないだろうし、最悪亡骸となって返ってくる可能性もある。黄昏は覚悟を決めてフォージャー家に侵入した。
リビングには誰もいない。
ジュピターが二人に目配せをして、分かれてヨルを捜索することになった。
黄昏はヨルの部屋を静かに開ける。
絶対にここにいるはずだ、と確信していた。
クローゼットの中からベッドの下まで調べあげるが、ヨルの姿はない。部屋はもぬけの殻だった。
その場に立ち尽くし、項垂れる。
もうこれ以上捜索を続けても見つからないのではないか。ぬかるみの中を歩いているように足は重たかったが、黄昏に任されているもうひと部屋の捜索にもあたることにした。
自室の扉を開けて飛び込んできた光景に、喉元まで出かかった悲鳴をグッと飲み込む。

(ヨルさん!!?なんでオレの部屋にいるんだ!?しかもオレのベッドで、熟睡してる、なんて……)

ヨルはすやすやと穏やかな寝息を立てて眠っている。そういえば、彼女はほとんど全財産を隠れ家に置いて出て行ったはず。だとしたら、ここまで鉄道にも乗らず歩いて来たのだろうか?

いやいや、そうじゃない。

どうして自分のベッドで寝ているのか、が問題なのだ。
よく見ると、ヨルの左手の薬指には、ロイドが偽装結婚を決意した時にはめてあげた手榴弾のピンが。

(こんなものを、今までずっと大切に持っていたのか?)

夜風がカーテンを揺らす。
心地よい風が頬を撫で目を細めた。
なるほど、彼女はオレの部屋の窓から侵入したんだなと考え、やはり呆れてしまう。
今までいただろうか、こんな女性が。
ただの手榴弾のピンを大切にもっていて、窓から自分の部屋に入ってくるような女性が――

「……ロイド、さん……行かないで……」

「出て行ったのは、あなたじゃないですか」

「ご、めん……なさ……私……愛して、ます」

心臓がぎゅっと掴まれたように痛かった。あどけない寝顔の彼女が、耳に響く鼓動が、体温を上げていく。
そういえば、自分はハニートラップを何度も仕掛けて恋に落とさせたことはあれど、自分が恋に落ちたことはなかった。実感するとそれはとても切なく、温かいものだと知る。

「ヨルさん……どうやらオレも、あなたのことを愛してしまっているみたいだ」

ヨルの寝顔に惹きつけられる。
彼女の開いた唇を見つめることしかできなかった。
その小さな唇はどれほど柔らかいのだろうか。
どれほど温かいのだろうか。
気になって仕方がない。
早く味わってしまいたい――ブンッ!!

(っ!?あぶなっ!!!)

ヨルの右フックが飛んできて瞬時に避ける。ヨルが目を開けてからコンマ五秒以内に起こった出来事に黄昏は冷や汗をかいた。

「あなたは誰ですか?」

体を起こしたヨルが低い声で問う。
黄昏ははっとして、失態をおかしたことに気づいた。

(オレとしたことが……マスクを、取り忘れてたか)

ヨルから見ると今の黄昏は、ロイドではない。マーズだ。こうなったら仕方がない。もう潮時だったのかもしれない。

「すみません、ヨルさん、オレです」と言いながらマスクを取り、投げ捨てる。ついでに黒のレザースーツも脱ぎ捨て、いつものスーツ姿に戻った。
しかし、変装を解いた黄昏を見てもヨルの反応はない。頭を抱えこみ、何かに怯えるかのように動かなくなってしまった。

「ヨル、さん?」

「今、思い出しました……あの日のことを」

「あの日のこと、とは何――!?」

こちらに人が近づいてくる気配を感じて、すぐさま頑丈なロープを引っ張り出し窓間壁に括り付ける。逃走経路の準備は完璧だった。黄昏は呆然としているヨルをすぐさま横抱きにした。

「ヨルさん!ヨルさん!」

ぼうっとしているヨルを呼び起こしながら、窓枠を使って顔を向き合わせるように抱え直す。自分たちの間にロープを挟み込み、ちょうど木にぶら下がっているコアラのように、ヨルの両足と両腕を黄昏の身体に巻きつけさせた。こうしないと、降下する時にバランスが取れなくなってしまうのだ。

「はっ!!わっ!ロイドさん!」

「ヨルさん、オレの首にしっかり捕まっててください」

顔の近さにかなり驚いているようで、頬も真っ赤に染まっているが、素直に「はい」と頷き、腕がぎゅっと巻き付いた。

「ぐっ……も、少し、ゆるめて……」首が締まりそうになり、呼吸が苦しくなる。

「はっ!すみません!」

ヨルの腕が緩んだ瞬間、黄昏は窓枠を蹴って外へ飛び出した。優に12メートルはあるだろうが、慣れたものだ。女性一人抱えていてもスムーズに降りることに成功した。しかし、問題はここからだった。

「クソッ。もう車は使えないな」

KGBの極秘部隊が駐車していた車を既にマークしてしまったようだ。真夜中に住宅街の真ん中で発砲音を響かせるのも得策ではない。

「今、どういう状況なんですか!?」

「ヨルさん、走れますか?」

「えっ、あ、はい!走れます!」

黄昏の後をヨルがついて走る。なかなかの速さだが、彼女の足も申し分なく速い。病み上がりなのに、無理をさせてしまっているのではないかと申し訳なく思いつつ、こんな修羅場でも物怖じせず一緒に乗り越えてくれるヨルに、やはり想いを寄せずにはいられなかった。

「あの人たちは、誰ですか?」

「ヨルさんを苦しめた人たちです。もう一度あなたを攫って関係者を炙り出したかったのでしょう。それと、おそらくあなたに寝返って欲しかったんです」

「寝返るって?」

「ガーデンに所属しつつ、秘密裏にKGBに入ることです。一言でいうと、裏切り行為ですね」

「な!なななぜそれを!!わわわ私がガーデンの一員であることを、なぜ知っているのです!?」

「ちょっと、いろいろありまして。全て帰ってから話します」

(クソ!このままじゃWISEの隠れ家も割れてしまう可能性があるな)

走りながら複数のルートを考える。

(確か北北西に八百二十メートル進んだところに廃ビルがあったはずだ。そこで巻いてしまう方がいいかも知れない)

おおよそルートが定まったところで、ヨルが突然ふふっと微笑んだ。

「なんだか、懐かしいですね」

黄昏に遅れを取らないでついてきているにも関わらず、まだまだ余裕があるようだった。

「ロイドさんと結婚した日を思い出します」

ああ、あの時か、と思い出す。確かあの日は、密輸組織の残党に追われていた。今みたいにこうして二人で走って逃げていて、その途中でいきなりヨルからプロポーズをされたのだった。ロイドも思わず表情を緩める。

「確かに、懐かしいですね。またこんなことに巻き込んでしまって申し訳ないです」

角を曲がると目当てのビルが見えた。元々飲食店が入っていたビルらしい。ピッキングで鍵を開け、中に入る。鍵や扉に細工をしてから、二人はL字になっている調理カウンターの陰に身を潜めた。
いつ見つかるか分からないが、ここであれば人通りも少ない上に、住宅街から離れた場所にあるため、一般市民にも被害が及びにくいと考えたのだ。壁はタイルが剥がれ落ちコンクリートが剥き出しになっている。調理カウンターには、かつてコンロがあっただろうぽっかり穴が三つ並んでおり、埋め込み型オーブンも換気扇も老朽化していた。机や椅子は全て撤去されているため、カウンター周辺以外は殺風景だった。
明かりは星明かりと街灯の光だけ。

「あ、あの、ロイドさん。聞きたいことはたくさんあるのですが、ユーリが保安局員だということは本当ですか?あと、アーニャさんが元孤児だというのも……」

突拍子もない質問に変な声をあげそうになり、咳払いで誤魔化す。

「……その情報はどこで知ったのですか?」

「拷問されていた時に、悪い人たちに言われました」

ユーリの情報が、SSSと密接な関係にあるKGBに渡っていることは何も不思議なことではない。問題はアーニャの方だ。まさかこのタイミングで、ヨルがユーリの正体とアーニャの秘密を知ってしまっているとは思いもよらなかったため、黄昏は言葉を詰まらせた。

「……ユーリ君が保安局員であるかどうかは分からないです。ですが、それを探索するのはおすすめしません。あなたが逮捕されてしまう可能性がありますから」

ヨルはなるほど、と神妙に頷いた。

「あと、アーニャのことは……嘘をついていて申し訳ありません。実は事情があって、孤児院から引き取った子です。ボクと血の繋がりはありませんし、前妻もいません」

「前妻もいない……ってことは私が、ロイドさんの初めての妻、ということでしょうか?」

「はい、そうなりますね」ヨルはなぜか頬を緩ませている。アーニャが孤児であってもなくても、ヨルにとっては自分の娘に変わりないため、特段気にしてはいないのだろう。だが、やはりどこか抜けた人だと思った。

「それから、どうして知らない人からロイドさんが現れたのですか?」と尋ねる。あのような姿を見せられたら、当然抱いてしまう疑問だろう。

「それは……オレがある組織の人間だからです」

「ある組織……?」

「はい。ですが今は、詳しくお話しできません」

「それはどういうことですか?」

「時が来たら必ず話します。それまではただ、オレのことを信じてくれませんか」

ヨルの瞳を見つめて、両手を包み込む。やはり、諜報員である以上、完全に口を割ることはできなかった。ヨルはほんのり頬を染め、視線を落とす。

「もっもちろん、信じています。ですが、いつか本当に話してくれますか?」

黄昏は静かに頷き「はい。きっと、いつか」と答えた。

二人そろって突然気配を察知し、顔を見合わせる。

黄昏はスーツの隠しポケットやホルスターから武器を取り出した。
銃二艇に、マガジン三個、折りたたみナイフを一本。そのうち、銃一艇とマガジン二個、ナイフ一本をヨルに渡すことにした。銃はベレッタ92Fをかたどったものだ。

「なっ!なんですか、これは」

「敵がいつ現れるか分からないため、持っていてください。銃を扱ったことはありますか?」

「え、ええ。訓練で、数回程度なら」

ヨルは折りたたみナイフとマガジンの一つを、恐る恐るジーパンの後ろポケットに直す。もう一つのマガジンと銃は黄昏の手元にあった。

「念のため、説明しておきます。弾は十五発。空になったらこのスライドがロックします」

黄昏は実物の該当部分を触りながら説明する。

「装填はここを押してマガジンを落とします。ちょうど懐中電灯の電池交換と同じような感じです。その後スライドを戻して、準備完了です。頑丈な造りにはなっていますが、引き金を引く時は特に、力を込めすぎないようにしてください」

ヨルにそれを手渡すと、黄昏は壁際に寄り銃を構えながら、窓ガラスを覗き込む。奴らは自分たちを探し回っているようだった。このビルの中に潜んでいることがバレるのも時間の問題だろう。姿勢を低くし、敵の動向を探る。 
しかし、床にカツンと音が響き、そちらに意識が向けられる。ヨルが銃を取り落としてしまったようだ。手が僅かに震えているため、故意ではないだろう。

「私……戦えません……」

「……ヨルさん?」

「ごめんなさい、ロイドさん。私、もう、戦えないんです」

「ヨルさん、それはどういう――!」

彼女の瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。黄昏は敵の動きを探るどころではなくなってしまいヨルに歩み寄ると、地面に片膝をつき、彼女の涙を指で拭ってやった。

「これ以上、人を、殺したく、ありません……」

小さくしゃくりを上げながら話し続ける。

「夢をみたんです」

自分を落ち着かせるように深く息を吸った。

「あの日みた夢が、人を殺すことは愚かな行為なんだって気づかせてくれました。たとえその人がどれだけ悪い人であろうとも、国家に命を捧げる尊いものであっても、守られる命がたくさんあろうとも、私が制裁を加えるのは間違っていると、気付いたのです」

黄昏は黙って話を聞いていたが、ヨルの言葉に何か動かされるものがあった。

「ですが、それだけじゃありませんでした。なぜかずっと、胸が苦しくて、辛くて、頭がどうにかなってしまいそうで。きっと、私自身が制裁を受けなければ、いけないんです」

人を殺すことは愚かな行為。
東西戦争で母を亡くした、あの長く孤独な時間が頭をよぎる。大好きなものを東国軍に奪われて、世界には嫌いなものしか残らなくなったあの日。銃を握り、多くの敵を殺してきた。人を殺さないと、自分が生き残れない。そんな世界で生きていた。
だけど、いつの日にか気づいてしまったことがある。この世界で一番許せなかったのは、東国軍でも東国人でもなく、無知な自分自身だったのだと。

黄昏は、ヨルを優しく抱き寄せる。

「だからあなたは、自害するかシスターになるか、自分で選択肢をつくったのですね――罪滅ぼしのために」

先の東西戦争で、何のためにたくさんの人を殺しているのかが分からなくなったことがある。人を殺すという破壊的なエネルギーは必ず自分に跳ね返ってくる。人を殺したつもりでいても、実は他ならぬ自分自身を殺してしまうものなのだ。
なぜそこまでして人は争い合うのか?憎しみ合うのか?
国家のため?戦争の勝利のため?
違う。
大切な人たちを殺した仇を討ちたいため?
違う。たとえ仇を討てたとしても、死者は生き返らない。
おそらく、今「黄昏」になっていなければ、自分もヨルと同じ道を選んでいたのだろう。

「どうして、それを!?」ヨルが目をぱちくりさせる。

「全財産を置いて出ていくなんて、それしか考えられません。それに、なぜオレがあなたに惹かれるのかも、今、分かりました」

「??ひ、ひかれるって?」

きょとんとしているヨルの唇に、本当は強引にでもキスをしてしまいたかった。だが、リスクが高い。彼女の恋愛経験は皆無に等しい上に、前科がある。だから、もう一度優しく抱きしめてやった。

「ロ、ロイドさん……!」

ちょっとしたスキンシップには、休暇中に慣れてくれたようで、殴り掛かってくることはもうなかった。

「今から言うことに対して、絶対に殴ったり叫んだりしないくださいね」

「??……はい」

「あなたを愛している、ということです」

ヨルが息をのむのが分かった。黄昏はすっかり固まってしまったヨルの表情が気になり距離をとったが、それがいけなかったのだろう。
ほんのり染まった頬。艶々と潤っている唇。
瞳には涙が溜まり、それが窓から漏れる街灯や星々の光をきらきらと反射させていた。なんて美しいものを見ているんだと、目も魂も奪われる。まるでアフロディテが降臨したのかと思うほどに美しく見えた。

「で、でも私――」

「制裁は、オレもいつか必ず受けます。きっと地獄にも堕ちるでしょう」

(オレも多くの命を奪ってきたから)

「ですから、誓います。これからずっと死んでもなお、あなたを独りにはさせないと」

今、自分は黄昏として口説いているのではない。ましてやオペレーション梟のためでもない。生まれて初めて自分自身の言葉で口説いている。キザでも構わない。ただ目の前にいるヨルの心が手に入れば――。
ヨルの目が見開かれ、溜めていた涙が決壊する。その瞳には儚さを秘めていたため、思わず彼女の頬に手が伸びた。

「来たるべき時が来たら、共に罪を償いましょう。だから、今だけは幸せになりませんか?」

優しく輪郭を確かめるように撫でる。唇をなぞる。とても柔らかくて、綺麗な曲線を描く唇。ヨルはさすがに驚いたようで、ぴくりと肩が跳ねた。

「ロ、ロイドさん……?」

「ヨルさん、誓いのキス、してもいいですか」

彼女は何を言われたのかよく理解できていないようで、押し黙ってしまった。
なんて焦ったい。黄昏の手がヨルの後頭部に回る。

「というより、オレがもう」――ガンッ

正面玄関近くの窓ガラスを殴りつける音が聞こえた。ピッキングができずに強行突破を選んだのだろう。ヨルもガラスの割れる音に警戒態勢に入ってしまった。

(クソッ!!)

お前らのせいで、またお預けを食らってしまったと、この時ばかりは心からKGBの連中を恨んだ。

「あと一つ。あなたは、殺し屋としてたくさんの人を殺してきたかも知れません。ですが、[[rb:オレ > ・・]]たちは人を殺すことが目的ではありません。あなたの救出が目的でここにいます」

(本部に銃の使用許可を得ていないという理由もあるが)

ヨルと目を合わせながら、小さい子どもに言い聞かせるように続けた。

「だからこの銃は、特別に改造した麻酔銃なんです。撃てば人は倒れますが、滅多なことがない限り死にません。意識を失うだけです」

ヨルに銃を握らせる。

「それは……本当ですか?」

「本当です。信じてください」

身を潜めながら気配を探る。一人、二人、三人――合計八人くらいだろうか。この建物に侵入してきたようだ。

「オレが入口付近をやりますので、ヨルさんはあっちをお願いします」

黄昏は目配らせで指示する。

「カウンターに隠れるように、できるだけ体勢を低く保ってください」

「はい。任せてください」

ヨルの目の色が変わっている。すっかり戦闘モードに入ったらしい。

――パンッ

乾いた音が鳴り響く。

黄昏の撃った注射弾が一人の男の額に突き刺さる。男は声も上げずに倒れてしまった。一人、二人とどんどん人数が増えていくが、ずっとこちらが優勢だった。

『兵士一人で一個中隊を殲滅できる力を持っている』というのは、どうやら本当らしい。

ヨルには間違いなく戦う素質がある。完璧に銃を使いこなしている上に、的中率は100%だと言っても過言ではないからだ。
反撃されそうになってもヨルが撃てば、確実にターゲットは倒れてしまう。誰も自分たちに近づけない。調理カウンターは壁に沿うように設置されていたため、後方から攻められる心配はない。そう思っていた。しかし、裏の厨房からガラスが割れる僅かな音を捉え「ヨル!カウンターを飛び越えろ!」と叫んだ。
十秒も経たないうちに爆発。壁が崩壊する。
黄昏とヨルは軽やかに空中を舞い、カウンターを越え、背中を合わせてターゲットを撃ち続ける。

(すごいなヨルさん……どの諜報員と任務を遂行した時よりも安心して背中を預けられる)

こちらはWISE特製の麻酔銃だが、向こうの銃は実弾だ。短機関銃を容赦なく撃っている。ヨルは魚のように軽やかに跳ねながら、あらゆる角度からの攻撃をかわし撃ち返す。黄昏はブルーのTシャツからのぞくヨルの引き締まったお腹に一瞬視線を奪われた。

「ロイドさん、危ない!」

ヨルは黄昏に間合いを詰めようとした男を一発で仕留める。

「す、すまない」

(ダメだ。集中できん)

攻撃をかわしながら、また背中を合わせ抗戦する。
KGBの突撃があってから、ほんの数十分といったところだろうか。しかし、この建物を後にしたときは、感覚的にもう何時間も戦い続けていたかと思うくらい、精神的にも肉体的にも疲弊しきっていた。なによりも素晴らしいことは、極秘部隊の二十九人に対し、こちらは二人だったのにも関わらず、無傷であることだ。黄昏はヨルの能力の高さに、自分のような人間にとって、彼女以上に相応しい妻を迎えられるわけがないとほくそ笑むのだった。

♦︎

東国、バーリント、郊外

バーリント郊外には、時代遅れの英国風といった雰囲気の地区がいくつもある。黒のベンツが突っ込んだのもちょうどそういう場所だった。コントロールを失った車が対向二車線を越えて、草地に突っ込んだ。途中で街灯柱を倒し、道路脇の小さな看板を壊し、ほっそりした若木にぶつかってようやく停止した。
フロントシートの男性一人は即死。その命を奪ったのは、衝突時の衝撃ではなく、走行中に至近距離から頭部に正確に撃ち込まれた弾丸だった。目撃者たちがバイク乗りの男について証言している。長身でひょろっとしたタイプの男性だったらしい。
衝突から数秒もしないうちに現れた黒のノイエ・クラッセの行方も、警察には突き止められなかった。小柄ではあるが体格の割にがっしりしている男が、ベンツ助手席側の後部ドアを、ある工具を使い紙細工のごとく楽々とこじ開け、血を流して呆然たる表情を浮かべているスラブ民族らしき長身の男を引きずり出し、ノイエ・クラッセに乗り込ませたと証言する者がいた。しかし、自分で乗り込んだと証言する者もいる。本当のところはよく分からない。いずれにせよ、全てに要した時間は、きっかり二十秒くらいだったという証言だけは一致していた。

ガーデンが所有する隠れ家にて、ユーリとマシューは捕らえた男を椅子に括り付けた。
口には粘着テープをはり、目隠しをしているその男は、覚醒と昏睡のあいだを彷徨っている。

「意識を戻してやれ」

マシューの指示にユーリは頷くと、ミネラルウォーターの一リットルボトルをとりだし、男の顔にかけた。やがて、男が身じろぎをした。ユーリは粘着テープを一気にはがす。

「はっきりさせたい点が何点か残っているんだ。イワノフ」

「それと交換に何をくれる?」

「何もない」

「だったらこっちも何も出せん」

マシューは実弾を装填した銃を一発、ウラジーミルの右足に向け、引き金をひいた。銃声が地下室にこだました。ウラジーミルの悲鳴も同じようにこだました。

「自分が置かれた立場の深刻さがわかってきたか?イワノフ」マシューはウラジーミルの頭にヘッケラー&コッホを突きつけた。

ユーリの鋭い視線がウラジーミルを刺す。
「お前は西バーリント住居爆破事件で罪のない人々に重軽傷を負わせた。そして、それをきっかけに第二次東西戦争を引き起こそうとしたんだ」イワノフは、はっと息を呑む。

「被害者の中の二人、バームクーヘンで有名なケーキ屋Rubyの店員アリス・クラウゼと、西バーリント市立小学校へ通う十歳の男の子ベン・フィッシャーは死亡した。お前が今夜ここにいるのは、その人々のためだ。どう弁明する?」

「わ、私じゃ、ない……爆弾を仕掛けたのは、ライアン・コネリーだ。我々ではない」イワノフはあえいだ。

「お前が金でコネリーを雇ったのではないか?」

「違う!や、奴を雇ったのは……カザロフスキー、長官だ」

(KGBのトップに君臨する奴か)

「では、カザロフスキーが爆破事件を起こすよう命じたのだな?」

「馬鹿言うな。いくらKGB長官でも、勝手に開戦を企てることはできん」イワノフは信じられないという口調で続ける。

「命令はトップから来ている。秘密裏にな」

「ソ連邦大統領か」

「……そうさ」

「なんで知ってる?」

「信用しろ、事実だ……だから、爆破事件を命じた男の追求はやめた方がいい。その男は大物過ぎて、きみたちが命を狙うのは不可能だ」ユーリは唇を噛み締める。薄暗い独房で、イワノフは不気味な笑みを浮かべるのだった。

♦︎

東国、バーリント

空の色も薄められきた頃に、ロイドとヨルはようやく隠れ家“I”に着いた。
この隠れ家はあるホテルの地下にある。エレベーターの中で網膜認証、指紋認証、声帯認証を通過してようやく辿り着ける場所だった。
当然、部屋は一室。ダブルベッドが一台。ソファはなく、机と椅子しか備え付けられていない。十二平米ほどの広さに二人きりだった。

「狭い場所ですみません」

ロイドがスーツの上着をハンガーに掛けながら言う。

「い、いいえいえ!ももも問題ないです!」

ヨルのあからさまな反応に思わず吹き出しそうになる。

「ヨルさん、お先にシャワーをどうぞ」

ロイドもシャワーを済ませ、タオルで頭を拭きながら寝室に戻ると、ヨルが何かを一生懸命探し回っていた。それもバスローブ姿で。

「どうしたんですか?」

「すみません、大切なものを失くしてしまって……」

「大切なもの?」

自分の着ていたジーパンのポケットを全てひっくり返して確かめている。

「はい……。ごめんなさい。ロイドさんからいただいた指輪を無くしてしまったようです。もしかしたら、外で落としてしまったのかも……」

「指輪って、手榴弾のピンですか?」

「はい」

ジーパンを畳み直すと、ベッドの下、椅子の下、机の下を覗き込む。ロイドは必死なヨルをみて顔を緩めた。

「明日新しいのを買いに行きましょう」

「そうですね……へっ!!?イダッ!」机の下から頭を上げた勢いでぶつけてしまったらしい。

「大丈夫ですか!」

「は、はい。すみません」

後頭部をさすりながら、恥ずかしそうにうつむく。そんな姿に思わず、吹き出してしまう。ロイドはヨルに近寄り、しゃがみ込んだ。彼女の後頭部を撫でてやるが、腫れ物はできていなさそうでほっと胸を撫で下ろす。

「怪我は、大丈夫そうです」

「ありがとう、ございます……っ」

ヨルと視線が絡み合ったとき。ロイドとの距離がかなり詰まってることに驚いたのか、後ろに倒れそうになったところ、背中を支え左手をひいて引き寄せた。二人の距離が一層縮まる。ヨルの鼓動が触れているところから伝わってきている気がして、自分の心臓も早鐘を打つ。

「ヨルさん、オレの正式な妻になりませんか?」

「せ、正式な、妻……」

「はい」

「でも、私なんかが……」

「オレはヨルさんがいいんです」

握っている彼女の左手薬指に口づけ、そのまま横抱きをしてベッドに横たわらせる。その上にロイドがまたがった。

「ロ、ロロロイドさん!!?」

頬を真っ赤に染めあげ、小さな唇を震わせるヨルを見て、ロイドは息を呑んだ。任務で腐るほど女性の恋をする顔、欲情した顔、誘ってくる顔を見てきたが、わざとらしくないヨルのそれは破壊的だった。早く自分のものにしてしまいたい。だが、まだヨルの返事を聞いていないと、はやる気持ちを抑える。

「ヨルさんも誓ってください」

偽装結婚が成立したあの日。

「病める時も悲しみの時もどんな困難が訪れようとも」

手榴弾が爆発する中で共に助け合うことを誓い合った。そして、手榴弾のピンが失くなった今日。やはり何者かに追われる中で、新たな誓いを立てることになってしまった。だが、彼女とならばどんな危機でも乗り越えていけるはずだ。

「愛をもって、共に幸せになることを誓いますか?」

早く彼女のイエスが聞きたい。そう思っていたが、ヨルの反応は暗いものだった。

「……私は、人殺しなんです……。罪を償うと言っても、私みたいな人が、本当に、ロイドさんと幸せになってもいいのでしょうか……」顔を曇らせる。
ガーデンの一員だったヨルは、確かに多くの人を殺してきただろう。その罪悪感に苛まれているため、なかなか大きな一歩を踏み出せないでいるようだった。だけど、それは自分も同じで。不安や恐れ、罪悪感をずっと抱え続けてきたのだ。

「オレもいつか必ず制裁を受ける、と言いました」

「……はい」

「それは、自分もたくさんの人を殺してきたからなんです」

なぜ?と聞かなくても分かるくらいヨルの表情に疑問が滲み出ていた。

「先の東西戦争の前線で戦っていましたから」

ロイドの言葉にヨルは瞠目する。それはそうだ。彼女には過去のロイドについて詳しく話したことがなかったのだから。話したとしても、大抵が捏造した話だった。

「すみません。驚かせてしまいましたよね。実は母親や友人のほとんどは、東西戦争で亡くなりました。父親は知っての通り、あのバーで出会った人なんですけど、いろいろ事情があって、これから先ももう会うことはできないと思います」

ヨルは黙ってロイドの話を聞く。衝撃的なのだろう、話についていくだけでも必死なようだった。

「いつになったら争いが終わるんだ、いつになったら水平線の先に夜明けが見えるんだ。そう思いながら、何千何万の屍を築いてきました。ですが、いくら親の仇を、友人の仇を討っても気分は一向に晴れませんでした」

ヨルは真剣に話を聞いてくれていた。

「そしてある日、気付いたのです。一番許せなかったのは、大切な人たちを殺した仇ではなくて、無知な自分自身だったんじゃないかって」

あの頃の自分は本当に何も知らなかった。開戦の理由も母親や友人たちを守る方法も。盲目的に敵を憎み、盲目的に銃を取り、盲目的に国に従った。そんな中、小銃なんかよりももっと相応しい武器があると、今の「黄昏」になるきっかけを与えてくれたのが陸軍情報部だった。

「ヨルさんは、最強にして最重要な武器とはなんだと思いますか?」

ヨルは口を真一文字にして考える。彼女は時々かなり鋭いことがあるから、もしかしたらもう分かっている「スティレッド、でしょうか」――ことはなかった。

「そ、それはヨルさんが一番扱いやすい武器では?」

「はっ!!すみません、すみません!銃とか他の武器をあまり知らなくて!」恥ずかしそうに謝る。やはり彼女はぶっ飛んでいる。だが、そんなところも愛おしくて堪らなかった。

「いえ、実は知らぬ間に扱っているものですよ。それは、情報です」

「情報……?」

「はい。ターゲットの情報を手に入れて初めて戦えるようになるのです」

ヨルにも何か思うところがあるのか、確かに、と納得したように相槌を打った。
ロイドは情報の重要性を知り、追い求めてきたからこそ、なぜ爆破事件が起こったのか、誰がその爆破事件を起こしたのか、何がきっかけなのか?今なら全て分かる。ただ一つの失態を除いて。

「ヨルさんが拷問にかけられたのは、開戦のきっかけを作ろうとした爆破事件を止めたからです。西バーリント爆破事件が起こり、立て続けに東バーリントのデパートで爆破事件が起こりかけた。もし、あの時あなたが止めていなければ、第二次東西戦争へ、最悪の場合、核戦争へと発展していたかも知れません」

「だ、第二次東西戦争……?核戦争……?」ヨルの顔から血の気が引く。

「そうです。オレは情報を手に入れるプロですが、あの爆破事件を止めることはできなかった。だけど、ヨルさんはたった一人で、その身ひとつで止めたのです」

彼女は、全く分かっていないのだ。自分たち国家機関が血反吐を吐きながら築こうとしている世界も、アーニャの精神的な安全基地も、全てその腕一本で成し遂げてしまう力があることを。

「あなたは東国と西国の国民を、ひいては世界中の市民の命を救ったのです」

「そ、そそそんな大そうなことはしていません……!!」

ロイドはヨルの頬に触れる。ヨルの肩がぴくりと跳ねたが、やはり殴りかかってくることはなかった。

「でもオレの本音は、爆破事件を止めるのではなく、死傷者が出ないよう多くの人たちを避難させて欲しかった……」

ヨルの瞳が見開かれる。

「いや、そうじゃない。オレが情報を掴んで先回りしておけば良かったんだ。そうすれば、あなたをこんな目には、遭わせなかったのに……」

自分がどんな顔をしているのかは分からない。しかし、ヨルがとても辛そうな顔をしているため、よっぽど酷い顔をしているのだろう。こんなに感情を剥き出しにする日が来るなんて、あの頃は思ってもいなかった。スパイ失格も甚だしい。

「ロイドさん、どうか謝らないでくださいね」

ヨルの手がロイドの手に重なる。その温もりに心が解かされていくように感じた。彼女はいつだって昔の自分を思い出させてくれる。それに、そんな自分を優しく包み込んでくれるのだ。本当はこうやって誰かと心を通わせたかったのかもしれない。孤独を打ち消してくれる愛を求めていたのかもしれない。

「私が勝手にやったことですから、誰も悪くありません」爆弾を仕掛けた人は悪い人かも知れませんけど、と付け足す。

「ロイドさんにそう言っていただけるだけでも、私はとても嬉しくて、とても幸せなのです」

薔薇が咲き誇ったような微笑みを目の当たりにして、言葉を失う。
ついに歯止めが効かなくなったらしい。

潤んだ瞳に引き寄せられ、唇が触れ合う。

それは、ほんの一瞬の出来事だった。

「すみません、誓いの言葉を聞く前にキスしてしまいました」

甘い沈黙の中に、大きな恥じらい。

どうやらヨルには刺激が強すぎたようで、ロイドは肩の動きからアッパーが来ると察し、後ろに引いた。が、それがいけなかったようだ。

「やあああーーー!!」

アッパーではなく、まさかの膝蹴りが来た。咄嗟に間合いを取ったが間に合わず、子孫を残すために必要な機能を蹴られてしまう。

「はっ!!ロイドさん!本当に、ごめんなさい!ごめんなさい!」

「くっ……い、いえ……気にっ、しない、で……」

(オレとしたことが……ちゃんと、心の準備を、させてあげる、べきだった、か……)

あまりにも衝撃的な痛みにふっと意識が途絶えた。

♦︎

目が覚めれば、隣には美しい寝顔のヨル。
あの後三分ほどで意識を取り戻し、またすぐに眠りに落ちてしまったようだった。蹴られた後の痛みもすっかり引いたが、彼女が本調子であれば本当に機能しなくなったかも知れないと思うと背筋に悪寒が走った。

(オレのことを気絶させられるのは、教官とあなただけだ……)と苦笑する。

水を飲みに、ベッドを出て戻ってきたとき、ヨルの小さく開いている唇に釘付けになった。
蹴り飛ばされた逆襲に、その唇と、頬と、額にキスを落とす。ついでに、乱れたバスローブからのぞく鎖骨にもキスマークを何個か残してやった。
左手薬指のサイズを確かめてから、もう一度。
彼女の唇の柔らかさを味わうように重ね合わせ、離れるとヨルも目を覚ました。

「おはようございます、ヨルさん」

「ロ、ロイドさん……はっ!!大丈夫ですか!?」

「はい、もうすっかり」

「良かった……本当にごめんなさい……」

ヨルは安堵のため息をつく。

「いえいえ。オレはそんなヨルさんのところも愛してしまっているんです。それにスキンシップは、これからどんどん慣れていけばいいだけの話ですしね」

ぽぽぽっと頬を染め、ヨルはそっぽを向いたが、またすぐに視線が絡み合った。ヨルの瞳がロイドを誘なう。

「あの、昨日のお返事ですが……私もロイドさんと、病める時も悲しみの時も、どんな困難が訪れようとも」

その情熱的に揺れる深紅から目を離せない。

「共に助け合い、幸せになることを、誓います。こ、こんな私でよければ、ロイドさんの……ほ、本当の妻に、ひゃっ!」

ヨルの両手首を抑え、またがった。今度こそは、としっかり腰を挟んで身動きを取れないようにする。

「ヨルさん、もう、いいですよね?」

「な、なにがですか?!」

ロイドの唇が耳、首筋、鎖骨といろんなところに触れていくのを、ヨルが必死に抑える。バスローブにも手が掛かっており、ヨルは一層焦った。

「ダッダダダメですダメです!もうアーニャさんが帰ってきてしまいます!!」

「まだ正午になったばかりでは――」

置き時計を確認すると、午後三時を回っていた。ロイドから〈黄昏〉モードに入り、所要時間を計算する。ここから隠れ家“J”までは車で一時間強、鉄道では二時間弱掛かると判明し、ロイドとヨルは慌てて支度をし始めた。
午後五時になるとアーニャが帰ってくるのだ。
昨日の車は、爆弾が仕掛けられている可能性が高いためもう乗れないだろう、と判断するとすぐに内線でWISE本部にヨルの発見の報告と車の処理を頼んだ。それから、ヨルの手を引いて、バーリント駅へと向かったのだった。そんな道中で、離婚に必要な諸書類をゴミ焼却中のドラム缶に入れる。

「ロイドさん、何か捨てましたか?」

「はい、必要のなくなった離婚関係の書類を」

ヨルは驚いた顔をしてすみません、と謝った。ロイドはそんな彼女の手を離さないようギュッと握りしめるのだった。

帰宅すると、アーニャが既に帰っていた。この隠れ家の鍵はロイドとヨルしか持っていないため、WISEの工作員と車の中で待っていたようだ。

「ちち、はは、おそい」

時刻は午後五時十五分。

「すまない、鉄道に乗り遅れてしまって」

「待たせてしまってごめんなさい、アーニャさん」

「ふたりして、どこにしけこんでた?」

「なっ!どこでそんな言葉を覚えてきたんだ!」

図星をつかれて、たじろいでしまう。ヨルは頬を染めて俯いているので、まるで肯定しているようだ。いや、しけこんでいたことは間違いないが。
WISEの工作員もくすくすと微笑ましそうに見ている。
ロイドは動揺しながらも鍵を開け、工作員に礼を述べると、ヨルとアーニャの後に続いた。
むっすりしていたアーニャだったが、突然ぱああっと表情が晴れやかになる。

「はは、げんきになった!もうだいじょーぶ!」

アーニャがヨルに抱きつく。

「ア、アーニャさん……」

ヨルは目に涙を溜めながらアーニャを包み込む。
そんな二人を見て、ロイドは顔が緩んだ。
アーニャを間に挟むようにロイドが二人を抱きしめる。ボンドも三人に擦り寄り、三人と一匹でハグをする。
幸せだった。
幸せとは、おそらくこういうことを言うのだろう。
フォージャー家に訪れた平和な時間を、ロイドは胸に刻みつけるよう噛み締めるのだった。

アーニャの秘密が明かされたのは、その翌々日。ロイドとヨルが契りを結んだ朝だった。

「起きたか、アーニャ」ロイドはテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「おはやいます……むにゃむにゃ」目を擦りながら、洗面所へ向かう。顔を洗ってすっかり目が覚めたところで、ヨルもリビングにやってきた。

「おはようございます、ロイドさん、アーニャさん」ふぁーと欠伸をしながら、どこか気怠げな様子だった。

「はは、なんかしんどそう」

「ヨルさん、疲れがとれるまで寝ておいた方が良いですよ」

(昨日は無理をさせてしまったからな……途中で何度か殴られかけたけど)

アーニャはハッとして、ヨルを見やる。

「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます!」

(と言いながらも、歩くのが精一杯です。股やお腹?にずっと違和感がありますし、血も出てしまったからシーツを替えないと……)

アーニャはギョッとした。

「ちち!ははになにをした!」

ロイドはコーヒーがむせたようで、ゴホゴホと咳をしている。

「いきなり何を言い出すんだ!?」

(もしや、アーニャの部屋にまで声が聞こえていたか!?)

「アーニャさんん!?な、なななにもされていませんよ!」ヨルは大きな目をくるくるさせ、手をあたふたさせている。

(まずいです!何といえば良いのでしょうか。流石に直球はまだ早い気がします……夜の運動会とかプロレスごっことかならギリギリセーフでしょうか?!)

アーニャは頭の中にハテナが浮かぶ。

「よるのうんどーかいって、なに?」そう言った瞬間、ヨルはボンッと頬を染め、顔を手で覆い隠し、ロイドは持っていたコーヒーカップを落としてしまった。

そんなこんなでアーニャは自分の超能力を二人にカミングアウトすることになったのだった。

♦︎

東国、郊外

翌日。
ヨルはディナーの支度を整えていた。相変わらず料理は下手だったが、最近南部シチューの他にグラタンも作れるようになったのだ。南部シチューを発展させた料理であるため、チーズをのせて、オーブンに入れる時間と温度さえきちんと設定すれば失敗することはなかった。

「ふぅー、出来ました〜!あと十五分焼けば完成です!」

「ははー、アーニャなにかてつだう!」アーニャはちょうどアニメがひと段落したため、ヨルに駆け寄る。

「アーニャさん、ありがとうございます!では、一緒に洗い物でもしますか?」ヨルは微笑みながらアーニャの頭を撫でた。

アーニャの超能力を知っても、二人は何も変わらなかった。それがとっても嬉しかった。むふふと頬を緩めながら頷く。

「ただいまー」

洗い物に取り掛かろうとしたとき、キッチンにひょっこりと顔を出すロイド。彼には珍しく大量の薔薇の花束を手に帰ってきた。

「わあ!とっても綺麗な花束ですね!」

「ちち、だいたん」

「ヨルさんに、記念の花束を買ってきました」

「記念?ですか?」

ロイドはヨルに花束を手渡すと、内ポケットからミルキーホワイトの小さな箱を取り出し、片膝をつく。
ヨルは何をしているのか分からず、きょとんとしている。

「ヨルさん、受け取ってくれませんか?」

そこには、シルバーのリングが。小粒のダイヤモンドが照明の明かりを受けて、まばゆい光を放つ。

「きらきらしてる!ほんもののだいやもんど?」アーニャが二人の間ではしゃぐ。

「ああ、もちろん。一番ヨルさんに似合いそうなのを選んできたんだ」ロイドが片手でアーニャの頭を撫でてやる。

「きれいっ!ははににあう!」

言葉にできないほどの幸福が心の底から溢れ、心と体を満たした後、外に溢れ出て、ヨルは空いている手で顔を覆いながら座り込んだ。

「ヨルさん、左手を」

「……はいっ」

嬉し涙に濡れた左手の薬指に指輪が通される。アーニャはヨルの薬指で輝く指輪をじっと観察した。ヨルは真っ赤な薔薇の花束を優しく床に置いて、頬に伝い続ける涙を拭う。

「これからは本物の家族になろう、ヨルさん、アーニャ」

ロイドは二人まとめて抱きしめる。ヨルはついにこらえ切れなくなった嗚咽を漏らした。アーニャは二人の間で、幸せな心の声に満たされていたが、ふいにボンドが足元にやって来て三人に擦り付いたあと、アーニャの服をくいくいと引っ張る。テレビでは、ちょうどコマーシャルが終わってボンドマンが始まっていた。

「はっ!きょうはボンドマンのさいしゅーかい!」

アーニャが二人の間を抜けて、テレビに駆けつける。
ボンドがその隣に座り、二人はテレビ画面に集中していた。そんなアーニャとボンドの目を盗んで、ロイドとヨルは甘い口づけを交わしたのだった。

THE END

♦︎

EXTRA STORY

テーブルの上に出来立てのグラタンを並べ、夕飯の準備が整ったとき、玄関のベルが鳴った。外を確かめると、荷物を抱えたフランキーとフィオナが来ていた。

「よおロイド!ひっさびさだなぁ!」

「先輩……」(ああ♡やっぱり先輩が世界一格好良い!すき♡)

「フランキーとフィオナ君、本当にありがとう。助かった」ロイドは小声で礼を述べる。

「なんのなんの、これくらいお安い御用ってもんよ!お陰で俺にも春が訪れそうなーーいってーな!!」ニマニマしているフランキーの足を、フィオナはヒールで思いっきり踏みつける。いらんことを言うなと視線で制されてフランキーはふてくされたような顔で「やっぱアンタ、何考えてるかわかんねーわ」とぼやいた。

「いえ、先輩。私は先輩の命に従ったまで」(その微笑も美しいです、先輩♡)

「あ、フランキーさんとフィオナさん!こんばんは!」リビングからヨルがやって来る。「こんばんはー、奥さん」とフランキーが陽気に挨拶をする隣で、フィオナは固まってしまった。彼女の視線の先には左手の薬指に光るそれが。

「どうした?フィオナ君」ロイドが問いかけてもフィオナの返答はなく呆然としている。

「あ、あのよければお二人とも晩御飯を食べていきませんか?」

「えっいいの!じゃお言葉に甘えて!フランス産の美味しいワインとチーズもこっそり持ち込んで来たし、今日はパッーと宴だ、宴!アンタも食うだろ?せっかくなんだから大人数で楽しもうぜ!」フランキーは、灰になったフィオナの腕を掴んでずるずるとリビングまで引きずっていく。その光景をロイドは不思議そうに眺めていた。

「もじゃじゃ!と、おねいさん!」

「よお、アーニャちゃん!お土産買ってきてやったぜー!」

フランキーにお土産を渡され、うきゃーと喜ぶアーニャ。お世辞にも可愛いとは言えないピーナッツのキャラクターストラップに、手のひらサイズの大きなピーナッツクッキー。しかし、アーニャはそれがたいそう気に入ったようで「ぴーなっつ、かわいい〜!」と頬ずりをするのをみて、フランキーもにししと微笑んだ。

食卓に五人分のグラタンが並ぶ。赤ワインとカマンベールチーズ、ゴーダチーズも加わり一層華やかになったところで、乾杯!とワイングラスをならしあった。もちろん、アーニャはリンゴジュースで乾杯。

「このグラタン、なんだか懐かしい味がする!」

「私の母がよく作ってくれて。南部シチューをグラタンにさせたものなんです」

「ああ!南部シチューか!」フランキーは美味しそうに食べていく。

フィオナはグラタンを食べつつ、相変わらずのポーカーフェイスを保っていたが、心の中は荒んでいた。

(あの指輪は、サンドラー通りの高級ブティック店○○で手に入れたものね……しかも、新作じゃない!もしかして、先輩、本当にこの女と……いえ、有り得ないわ。ロイド・フォージャーとしての演技を完璧にこなしているだけよ)

爪を噛み始めるフィオナを見て、アーニャは愉快がる。ヨルとフランキーはお酒が進んでいたが、ロイドとフィオナはずっと素面だった。

(そういえば、指輪にばかり気を取られていたけど、あの豪華な花束は、何?)こっそり数を数え始めるフィオナ。

(百八本の薔薇……永遠に……結婚して、くだ、さい……)

フィオナは、いきなりワインを一気飲みする。

「先輩、ワイン、おかわりください」

「おいおい、フィオナ君、さっきからどうしたんだ?」(何か気に入らないことでもあるのか?)

読唇術で会話を試みるが、フィオナはもはや顔すら見ていない。三杯目を飲み切ったところで、出来上がっていた。

「はっ、ずっとポーカーフェイスでいろ、ですって?ひっく」

「あっちゃー始まっちゃったよぉ」やや酔い気味のフランキーはハンカチを用意する。まるで先を読んでいるようなフランキーの行動にロイドは疑念を抱く。

「ヒオナさん、だいじょーぶれすかー?」ヨルも呂律が怪しくなってきた。

フィオナは、ひーんと大粒の涙を流して号泣し始める。

「なんであたじじゃないんですかぁ〜あたじのどこがダメなんですかぁ〜」

「まあまあ、涙ふけよ〜俺も悲しくなっちまうよ〜」

子どものように泣きじゃくるフィオナの目元にハンカチを押し付けるフランキー。そんなフィオナの姿を見て、ヨルもなぜか泣き始める。

「ヒオナはんみてると、なんらかあらしまで悲しくなっれきました〜」ロイドはギョッとして、内ポケットからハンカチを取り出し、ヨルに手渡す。

「何もヨルさんまで泣かなくても……。フランキー、彼女、本当にどうしたんだ?」

「よくわかんねーけど、コイツ、酔うといっつもこうなるんだよぉ。失恋したヒロインみたいなこと言ってさぁ。でも、相手は誰だか全く教えてくれねーんだ」

「そ、そうなのか」

フランキーが、フィオナの背中をさすってやると、落ち着いてきたみたいで机の上に突っ伏してしまった。すやすやと穏やかに寝息を立てている。ロイドは初めて見るフィオナの姿に困惑した。

「ヨルさんも、今日は記念日なんですから、泣き止んでください」

アーニャはみんなゆかい、と思いながら一人ご馳走様をして、またテレビの前に座った。観れなかったところは後で録画を見返すとして、途中から観始める。今夜は最終回ということもあり、二時間スペシャルなのだ。

「なんだ、記念日って」フランキーが聞く。

「家族記念日だ」

「家族記念日?」

「ああ。今日、ちゃんとヨルにプロポーズした。本当の家族になるために」

「今日!?」

フランキーは、ヨルの左手に着けてあるそれにようやく気がつく。

「……お前、本気だったんだな」

睡魔に耐えられなくなったヨルは、ロイドの肩にもたれかかって眠ってしまった。

「おーおー、お熱いこった。見せつけんじゃねーよ」

「別に見せつけてない」ロイドはヨルをそのまま寝かせてやることにした。

「本当にいいのか?結婚しちまって」

「ああ。もう彼女以外考えられない」

「この稼業をしてる限り、今後もヨルさんが何か事件に巻き込まれてしまう可能性がある。アンタが黄昏ってだけで、命を狙われることだってあるんだ」

「それも問題ない。爆破未遂事件にまさかヨルさんが関わっていると思わなかったが、オレは何度だって助けに行くし、彼女が危険な目に遭う前に必ず阻止してみせる。それに――」

黄昏は穏やかに眠っているヨルを見つめながら微笑を浮かべる。

「彼女はオレより強い」

「あ?それはどういう意味だ?」

「言っただろう、同業者だって」

フランキーは黙り込む。お前が何を言いたいのかさっぱり分からん、と顔に書いてあった。

「暗殺組織ガーデンの一員、コードネームいばら姫」

フランキーは完全に固まってしまう。コードネームは後から分かったことだった。市役所の通話記録を漁れば一発で出てきた。議会直結の行政機関であることもあり、トラブルがない限り、国家保安局の目に留まることはないだろうが。

「……おいおい、まじかよ……やっぱガーデンって存在してたんだな。どうりで力も強いし凄い動きをする人だと思ってた」

一人納得したように頷く。

「で、アンタの正体もバラしちゃったわけ?」

「いや、オレはまだ。だが、オペレーション梟が終了すれば明かすつもりだ」

「ふーん……なんだよ〜お前らだけうまくいっちゃってよー。俺も、俺だって」

「お前もそのうちうまくいくはずだ。なんかそんな気がする」ロイドは、フランキーが眠っているフィオナの背中を時折トントンしているのを知っていた。

(お前だって、人並外れて強いフィオナの警戒心をまんまと解いているからな)

ふっと笑みを浮かべながら、フランキーの空いたグラスにワインを継ぎ足してやる。

しばらくして、突然インターホンが鳴った。ロイドは嫌な予感がしていた。
ヨルを机の上に移した後、外を確認して、やっぱりなと扉を開ける。

「姉さーーーんっ!」ユーリが大量の薔薇の花束を手に現れた。

「ヨルは眠ってます」

(夜帷もいるのに、厄介な者まで来てしまった……) 

「そうなのか、すまない姉さん。そうだロッティ。あの件なんだが」ユーリがロイドに耳打ちする。あの件とは、ウラジミールから聞き出した情報のことだった。ロイドは概ね推測通りで特に驚きはしなかった。これで事件の全貌が明らかになったのだ。

「おじ!いらっさいませー!」アーニャがユーリに振り返る。ユーリはアーニャの頭を軽く撫でてやる。

「すまない。今日は職場の同僚と友人も来てるんだ」

フランキーもいつの間にか寝てしまったようで、ロイドは紹介しながら苦笑してしまう。

ユーリはふーんと言いながら、リビングに飾ってある薔薇の花束が視界に入り、ロイドを睨む。

「ロッティ、何あれ」

「今日は記念日だから、ヨルにプレゼントした」

「記念日?何の記念日だ?」

「家族になった記念日」

同時にユーリはヨルの左手薬指を見て、発狂する。ロイドに負けじと美しい薔薇の花束は、どさっと床に落とされてしまった。

「うわあああああああああ!ねええさあああああああんっ!」断末魔のような悲鳴をあげる。

「ユーリ君、もう少し静かに」

「指輪なんてつけてなかったのに……こんな男に汚されてしまうなんて……」うぅ、とユーリは嗚咽を漏らす。

「汚すって」ロイドは薄笑いする。

「いやいや、ヨルがユーリ君の姉であることは永遠に変わらないじゃないか」

「いいや、やっぱりお前、処刑してやる!」ユーリはキッとロイドを睨みつける。

「残念だが、それはできないだろう」

「できるさ!保安局の総力をかければお前の正体なんてーー」ロイドは盗聴器に録音してあるデータを再生した。

『姉さんがいるから、守る価値のある国だったんだ。姉さんがいなければ、東国も西国も世界中のどの国だって、無価値さ!』
『俺には、姉さんが全てなんだ。姉さんのためなら、この国を裏切ることも怖くないさ』

ロイドは微笑を唇に漂わす。

「クッソォォォォ!!」

ユーリはテーブルに置いていたワインを瓶ごと掻っ攫い、がぶ飲みし始めた。

「ちょっ、ユーリ君!」

(もうなんかめんどくさ)ロイドは心の中でぼやく。

その頃、テレビでは、ボンドマンがハニー姫に片膝をついてプロポーズをしているシーンが流れていた。

『ハニー姫、オレと結婚してくれないか』リングケースを開けると、大きなダイヤモンドのついた指輪が。

『まあ、ボンドマン!その言葉をずっと待っていたわ』

アーニャは「ちちー!ははー!」と呼ぶ。

「あれ、ちちとははみたい!」とテレビを指差す。ユーリはアーニャの言葉に食いついた。

「おい、チワワ娘。本当にロッティと姉さんも、こ、こんな感じだったのか」

アーニャは、ユーリの姉愛にげっぷりしながら教えてやる。

「うぃ……」

「こ、こここんなラブラブなのか!?」

「ちゅーもしてた」

「な!お前、気づいてたのか!」

「あたりまえ。アーニャなんでもしってる」

「ちゅーも……してた、だと……」ユーリは、関節が機能しなくなったように床に膝をつく。そんなユーリを慰めるようにアーニャは彼の背中を撫でていた。

テーブルで突っ伏して爆睡している三人に、絶望感に打ちのめされる一人。あまりの悲惨な光景にロイドはいろいろと諦めることにした。

画面の中の二人は熱い抱擁を交わし、次の場面では結婚式を挙げていた。

「ちちも、ボンドマンたちみたいにけっこんしきする?」

「ああ、できたらいいな」

ロイドは、ヨルの美しいドレス姿を思い浮かべて、式をあげるのも悪くないかも知れないと一人考えたのだった。

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