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眠りの森のいばら姫 1/5

西国放送局『本日、西バーリントにて、爆破事件が起きました。少なくとも二十四キログラムのダイナマイトが使用され、スーダム通りのアパートで爆発。上の階と正面が破壊されました。この爆発により二名が死亡、二十五人が負傷。国際テロリストによる犯行とみて、捜査を続けています』

イギリス、ロンドン

WISE局長ヘンリー・シュナイダーは、夜九時少し前に、MI6本部ビルに到着し、エレベーターですぐさま長官室へ案内された。落ち着いたブラウンのスーツはたくましい肩のラインにぴったりだが、首が太いため、白いシャツは襟元のボタンをはずしたままだ。プロボクサーみたいな鼻に、グレーの瞳。その体格には似つかわしくない黒のボーラーハットを被っている。
ヘンリーは、さまざまな言語と偽造パスポートの束を武器にしてテロリスト組織に潜入し、世界に広がる情報屋ネットワークを作り上げた。ロンドンでは、オリヴァー・ジョンソンという偽名を使っていた。勤務先はどこかの情報通信会社で、ヨーロッパ担当のマーケティング部長ということになっている。
ヘンリーはMI6の本部に何度も来ているため、MI6局長ルーイ・エバンズの執務室の豪華さを称える言葉は省略した。ヘンリーのたくましい右手から下がっているのは、コンビネーションロック付きのステンレスのアタッシュケース。そこから薄いファイルフォルダーを取り出して、マホガニー製の特大デスクに置いた。書類が入っていた。長さは一ページ。

「一昨日の爆破事件の犯人についてだ」

ルーイは内容に目を通し、低い声で悪態をついた。

「情報源は誰だ?」

「我々の優秀な諜報員さ」

ルーイの返事を聞く前に、ヘンリーは、アタッシュケースからさらに書類を取り出し、最初の書類と並べてデスクに置いた。

「これは、我々が二年前にMI6へ送った報告書のコピーだ。この男がイランやリビアと繋がりがあることは当時から分かっていた。それに、雇ってくれる組織さえあれば、誰かれかまわず働くことも」

ヘンリーは、書類の下のほうを指差した。

「見ての通り、我々はヤツを取り除く作戦を提案した。こちらで実行しようとまで申し出た。なのに、君の前任者は断ったんだよ。よけいな騒ぎになるのを恐れてね」

おかげで、今回のような爆破事件が起こってしまった、とヘンリーはゆっくり首を振りながら言う。

「なぜヤツがこんなことをしたのか、その優秀な諜報員から何か聞いているのかね?」

ルーイが尋ねた。

「いーや、まだ何も。ただ誰かに頼まれて動いた可能性が高いのは確かだ。いずれにせよ、ヤツをなんとかせねばならん」

「こちらの提案は、今も有効だぞ」とヘンリーは続ける。

「何のことだ?」

「我々の手でヤツを処分しようと思う。そして、この事件の裏を炙り出すつもりだ。開戦の火種になる前に」

♦︎

東国、バーリント

WISEの地下にある隠れ家Gでは、西国情報局対東課管理官のシルヴィア・シャーウッドが脚を組んで黄昏を待っていた。

「新しい任務が入った」

「はぁ」

オペレーション梟以外にも、日々数件の任務をこなしている黄昏にとって、シルヴィアの言葉は重たく感じた。

「そう嫌な顔をするな。局長が直々にお前に任せたいとおっしゃったのだ」

黄昏は、無言でシルヴィアの話の続きを促した。

「先週の西バーリント住居爆破事件が、記憶に新しいと思うが」

「はい。国際テロリストのしわざだと聞いています」

「ライアン・コネリー。ヤツのしわざだ」

「ライアン、コネリー……ってまさか」

黄昏は目を見開く。

「そう。過去に国際的窃盗団や赤いサーカスにも爆弾を提供した男だ。今は二年前に設立された、アイルランドの武装組織ミャンアーハとも協力関係にある。どうやらコネリーの爆弾作りの才能を買ったようだ。ヤツは世界中に沢山の悪友がいる」

「つまり、コネリー自身、金さえ積まれればつきあう相手は誰でも構わないということですね」

「そうだ。ヤツはこの世界の疫病神だと言ってもいい。信念も何もない、ただ大金を手に入れたいだけの虚しい男だ」

シルヴィアはそう答えながら、ライアン・コネリーの経歴を記した分厚いファイルをデスクに置いて、ロイドに押しやる。

「それで、オレに何をしろと?」

「何年も前にやっておくべきだったことを。一刻も早くコネリーを排除しろ。ついでに、誰が西バーリント住居爆破事件を命じて、資金を出したのかも突き止めてほしい」

黄昏は返事をしなかった。シルヴィアは続ける。

「冷戦が激化している。この男も誰かの金に雇われて、爆破事件を起こした。これは確かなことだ。お前もよく理解していることだと思うが、重要なのは、誰が銃を撃ったかではない。銃弾の金を誰が払ったかだ」 

黄昏は俯く。

「全国民ひいては全世界市民の命が懸かっているのだぞ、黄昏」

シルヴィアが鋭い視線を投げかけると、黄昏は、無言で頷いた。

♦︎

東国、バーリント

「とりあえず、調べておいたぜ。例の爆弾魔について。情報が大方隠されていて、探すのに苦労したんだよぉ。それで、有望なのがひとつ手に入った」

「毎度助かるよ、フランキー」

フランキーは、ロイドに資料と写真を渡す。

「アイツ、公にしてないようだけど、奥さんがいるらしいじゃないか。期間は分からないが、定期的に会いに行ってるんだとか」

履歴書のような写真には、三十代くらいの女性が写っていた。頬骨が高く、顎はほっそりしている。絹のように滑らかな白い肌。ブルーの瞳。髪は肩までの長さで漆黒。自然の色とは思えない。
資料には、生年月日、出身、名前、住所といったその女の詳細な情報が記されていた。

「なるほど。場所はリスボンか」

「ああ」

リスボンは、第二次世界大戦時、アメリカへ向かう難民にとっては主要な玄関口であり、スパイにとっては避難場所であった。無論これ自体、偽造された情報である可能性も否定できないが――神出鬼没なヤツのことだ。ふらっと現れる可能性は十分にあるのではないだろうか。
ロイドはしばし考え込むと、フランキーにある提案をした。

「お前がこの女のアパートを監視してくれないか」

「はあっ!?俺が!?」

ロイドは頷く。

「いやいやいや、リスボンだよ?ポルトガルだよ?どうやってこの檻から出るんだっつーの」

「心配するな、全てこっちで手配しておく」

「俺一人じゃ無理だ。いつ帰ってくるかも分からない男を二十四時間待ち続けるなんざ、体がもたねーよ」

「それも問題ない」

フランキーは、呻き声をあげた。

「これは、お前にしか頼めないことだ。フランキー」

フランキーは、元来の性格により、相手に接近しても警戒心がもたれづらく、気付かぬ間にその人を情報源にできる男だ。この男の長所には、WISEの右に出る者はいない。
フランキーは愚痴りながらも、肯定の意思表示を示すと、ロイドは明日また来ると言って、地上へ出た。

翌日。

ロイドはレザー調のアタッシュケースから偽造パスポートと航空券、詳細な情報が書かれた資料を取り出した。

「明日の夜、西国へ戻るバスに乗り込め。それから、西バーリントで一泊して、午前十時のリスボン行きの便で、ポルトガルまで飛んで欲しい」

WISEの諜報員に、外国人旅行社関係の業務に従事してる者がいる。西国のある著名なバス旅行会社との東国側の連絡官という役割で、この旅行会社は一日に二度、外国人観光客を東側地区へ送り込んでいた。そのバスにこっそり乗り込み、西国から飛行機でポルトガルへ移動するというのが、シルヴィアとフィオナと立てた計画だ。もちろん、帰りも、旅行者リストにこっそり二人の名を入れてもらい、東バーリントへと戻ってくる予定だった。観光バスでは、乗客一人一人のチェックは行われないことになっていた。観光会社がパスポートを預かり、あとで人民警察の連中が乗り込んできて返してくれることになっている。その他の細かいことは、臨機応変に対応してくれるらしい。

「車は?」

「リスボン国際空港の駐車場に。シルバーのBMW。車種はセダン。女の目の前にあるアパートもすでに確保してある。銃やその他必要な物質は、アパートの洗面所の下に隠している。詳しくはこの資料を読んでおいてくれ。読み終わったら、適切な方法で処分するように」

「用意周到すぎんだろ」

「それから、お前の連れはフィオナくんに決まった。彼女と夫婦を装って、観光客になりすますんだ」

「ゲッ、またアイツかよ」

フランキーは渋い顔をして続ける。

「アイツとなら、前に一度カップルのフリをしたことがある」

フィオナ・フロストという彼女の名は、二回目の依頼時に知った。フィオナは、フランキーに偽造文書の作成を頼んでからも、ちょくちょく仕事の依頼に来ていたのだった。

「なら、ちょうどいいじゃないか」ロイドは肩をすくめる。

「何もよくないね。カップルならギリギリ通用するかも知れないが、夫婦は厳しいと思うぜ」

「パスポートも同姓にしてある。手遅れだ」

「おいおい、まじかよ……」

「本当にお前にしか頼めない仕事なんだ、フランキー」

ロイドはフィオナを思い出す。この提案をしたとき、彼女にしては珍しく感情を乱しているようだったが、フランキーに説得した言葉と同じようなことを言えば、案外すんなりと受け入れてくれた。何考えているのかよく分からんやつだ、と思ったのをよく覚えている。

「クッソー、リスボンで美味しいものをたくさん食ってやるからな。アンタんとこの経費で」

「美味しいワインを用意しておいてやるよ」

フランキーは、ふてくされた顔をしながら、ロイドから書類一式を掻き取るのだった。

♦︎

西国、西バーリント

フランキーとフィオナは、無事に東バーリントを抜け、西バーリントへ来ていた。ホテルにチェックインしたときには、フランスの偽名を使い、映画の世界取材中のフリージャーナリストとその妻ということにした。
夫婦として泊まるため、部屋数はもちろん一室。幸いベッドは別々だったが、フィオナの表情は死んでいた、というのが最も適した表現だろう。偽装夫婦ということで、もちろん二人とも指輪をつけている。左手の薬指にはまっているそれを忌々しそうに睨んでいる姿を何度見てきたことか。少なからずフランキーもショックを受けていた。

(そんなに俺といるのが嫌かよ。悪かったな!ロイドみたいなイケメンじゃなくてよ!)

やけくそになりながら、ルームサービスで持ってきてもらったワインを飲む。フィオナは入浴中だった。バーリント鉄道で乗り合わせて軽く挨拶をしたっきり、一切目を合わせてくれないし、喋ってもくれない。もともとそういう人だと分かってはいたが、なんというか……気まずい。胸がドキドキ、恋の予感のような気まずさというよりも、一歩間違えれば殺されそうな殺伐とした気まずさだった。
シャワーを終えたフィオナが、黒のスリープキャミとくるぶし丈のだぼっとしたパジャマパンツを着て、タオルで髪の毛を拭きながら、スタスタと備え付けの冷蔵庫へ向かった。もちろんフランキーには目もくれない。水を取り出し、ごくごくと飲む姿は、どこか煽情的だった。

(コイツ、無表情で何考えてるかさっぱり分からんやつだけど、顔とスタイルはピカイチだな)

フランキーが横目でフィオナの動きを観察していると、突然もの凄い殺気が飛んできて、むせかけた。

(おぉ、怖い怖い。くわばらくわばら)

目を逸らしながら、再びワインを口に含む。
ああ、これはあれだと、フランキーは閃く。肉食動物ジャガーの檻に閉じ込められたらこんな気持ちなるんだろうな、とフランキーは一人納得する。いかにフィオナを手懐けるかが、今回の任務完遂の鍵をにぎるのではないだろうか。

「おいお前」

「な、なんだよ」

鬼のような形相のフィオナに上から見下ろされる。

「それ、自費か?」

「なわけ。アンタんとこの経費だよ」

今にも掴みかかってきそうになったため、フランキーは慌てて付け加える。

「おいおい、怒んなよ、怒んなって!これは、黄昏が用意してくれたやつなんだから」

「先輩から?嘘だな」

「嘘じゃねーよ!ってか、どうせ何言っても信じてくれないんだろ」

当たり前だ、とフィオナは言い放つ。

「まあ、落ち着けって」

俺だって、アンタとこの任務を引き受けることに反対だったんだぜ?飲まなきゃやってられねえっての!

フランキーはぶつぶつ呟きながら、ワインを継ぎ足す。新しいワイングラスにもワインを入れ、飲みたかったら飲みな、とフィオナのそばに置いてやった。

「このワイン、なかなか良い品だぜ。アンタんとこの潜入員が持ってきてくれたんだ。さっきも言ったけど、アイツがこの任務の成功を祈って用意してくれたワインだ、飲むだろ?」

「黄昏が用意してくれた」と聞いただけで、フィオナは目の色を変え、ワイングラスをかっさらい、ごくごくと飲み干す。グラスが空っぽになると、もう寝ると言ってベッドに潜り込んだ。

(なんだコイツ。変なヤツ)

フランキーは、最後の一杯を飲み終えると、俺もシャワー浴びて寝よ、と言い残し浴室に向かったのだった。

♦︎

東国、バーリント

ヨルは、ランチ休憩に市役所を出ていた。日光の強烈な光に、目を窄める。この頃、夏季休暇を取る人が多く、かなり忙しかった。もちろん、それだけじゃない。殺しの仕事も先月より多くなっているのだ。市役所の仕事で家を出る時間が早くなり、殺しの仕事で帰る時間が遅くなる。そういうわけで、家族と過ごす時間がめっきり少なくなっていた。

サンドラー広場近くの公園のベンチに腰を下ろす。日光が暑くても、木陰は涼しかった。ヨルは一人でぼーっと考え事をしながら、サンドイッチを食べる。これもロイドが作ってくれたものだ。レタスのシャキシャキ感と厚焼き卵のプルプル感がクセになりそうなくらい美味しいのだが、食べることに集中できないでいた。職場の同僚のことがずっと頭から離れないからだ。

(カミラさんは、ドミニクさんとライシュッツの音楽祭へ。シャロンさんは、家族でデーボン湖。ミリーさんは、大学の友達とガラでキャンプ、か……)

はぁ、とため息を漏らす。

(私も、ロイドさんとアーニャさんと夏を満喫したかったです)

市役所の仕事は休暇がとれるかも知れないが、殺しの仕事は突然入る。そのため、バーリントから出ることはできなかった。

「今日は、審議会の準備もしなければいけませんし、早めに戻りましょう」

食べ終えたランチボックスを鞄にしまった瞬間、微かに血のにおいを嗅ぎつけ、辺りを見渡した。目についたのは、ヨルの目の前を通り過ぎた男。しょぼくれた姿をしていて、足音を立てずに歩いていた。手には、錆び付いた赤い缶。なんだか嫌な予感がする。ヨルの直感がそう訴えてきたため、こっそりと男のあとをつけることにした。
男は、デパートをぐるりと周り込み、屋外にある非常階段を登っていく。ヨルもその後ろに続く。気配を消すのはお手のもの。今までたくさんの修羅場を乗り越えてきたこともあり朝飯前だ。男は最上階まで登ると、金属音を立て始めた。これ以上近づくと気づかれてしまう可能性が高いため、ヨルは動きを止め耳を澄ます。
カチャカチャ、カチ。
途端に男の気配が消える。どうやら建物の侵入に成功したらしい。

(やっぱり、悪い人です!)

ヨルはドアの隙間から様子を見ると、はっと息を呑んだ。薄暗い階段の踊り場には、大きなダイナマイトが。男は赤い缶から、起爆装置を取り出し、それに取り付けようとしていた。
ヨルは、本能で駆け出した。
男の顎を膝蹴りし、手に持っていた起爆装置を蹴り飛ばす。顔を歪めた男は、危険を察知したようで瞬時にヨルから間合いを取り、手すりを飛び越えた。そして、下の階へ下の階へと、どんどん飛び降りていく。ヨルもそれに続いた。男の身のこなしから、只者ではないと感じた。

(早い!なかなか追いつけない!)

男は、三階からデパートの中へ入る。ヨルも男を追ってデパートへ入るが、男を見失なってしまう。

(……いたっ!)

左奥にあるトイレに向かう姿を目の端で捉えヨルも走る。あと少し。あと少しで追いつきそうだったところを、男は男性用トイレに逃げ込んだのだった。ヨルは、はっとして、ぎりぎりの理性でブレーキをかける。

(さすがに既婚女性が、男性用トイレへ飛び込むのはまずいです!)

ヨルは、男を捕らえられなかったことに悔しい気持ちでいっぱいだったが、時計を見て焦り始める。ランチ休憩終了まであと五分。
慌ててデパートの一階まで降り、サービスカウンターで、「非常階段の最上階に爆弾が仕掛けられています。あと犯人が三階の男性用トイレに篭ってます。通報をお願いします」と並び立てた。

「ば……爆弾?」

「はい、爆弾です!!とりあえず、爆弾の撤去お願いします!あと犯人も!」

悠長に話している時間はない。午後から審議会へ向けての準備があるのだ。伝えたいことだけ伝えると、急いで仕事へ戻った。

♦︎

ポルトガル、リスボン

ターゲットの目の前にある三階建てのアパート、二階の一室に食料品の袋を二つさげて、フランキーが入ってきた。アパートメントは家具付きだが、なんとも殺風景だった。リビングの椅子はどれもちぐはぐで、近所のフリーマーケットで適当に買ってきたような代物だ。二つの寝室はまるで独居房のよう。ベッドはきちんと二つ設置してあり、ひとまず胸を撫で下ろした。だが、二つ同時に使う日はこないだろう。なぜなら、二人で一つのベッドを使うからだ――という冗談はさておき、つねに一方の寝室でどちらか一人が窓辺で監視に当たらないといけないからだ。たいていフランキーが監視役になるつもりでいる。洗面所の下には、黄昏が言っていた通り、拳銃二挺、M60機関銃一挺、サイレンサー、双眼鏡、非常食まで必要なものは全て揃えられていた。早速監視の準備に取り掛かろうとした矢先、横からひょいっと拳銃一挺とサイレンサーを取られる。もちろん、犯人は一人しかいない。

「これ私が貰っとくから」

「ちょっ、待て!おい!」

フィオナは、それらをホルスターに差し込み、薄手の上着を羽織った。黒のキャミソール、デニムのスキニーパンツ、ベージュの上着、スリッパという現地人のような出立ちで玄関へ向かい、そのまま外へ出ていってしまった。もちろん、フランキーの呼びかけは完全無視だ。

「ったく、相変わらず何考えてるのかさっぱりわかんねーわ」

三脚付きの暗視スコープカメラ、パラボリックマイク、お手製の極小サイズの安全な無線機と送信機、黄昏と安全な回線で結ばれている固定電話。用意は周到だった。
フィオナがコネリーのモンタージュを家族写真のように壁に貼っていたため、それらしき年齢と身長の男が狭い道を通りかかるたびに、フランキーはモンタージュと見比べた。年齢は三十代半ば、身長は多分百八十センチほど、顔の左側にある五センチほどの傷跡が特徴的な男だった。
三日目の夜。
月が南に差し迫った時刻に、シャッターが下りたカフェアンドバーの方からコネリーがやって来たように思った。あれはコネリーの顔だ、興奮した小声でフィオナに告げた。歩き方にもたしかにコネリーの癖が出ていたが、コネリーではなかった。

「長期の監視は、だれを見てもターゲットだと思い込むようになる。反対に、ターゲットが目の前に立っていても疲労でぼうっとするあまり、まったく気づかないこともある」

過去に複数回、監視任務を遂行してきたフィオナが、長期の監視に伴う危険性について説明してくれた。

「なるほど。確かに、もう全員ターゲットに見えてきちゃってるもん。奥さんは毎日決まった時間にアパートを出て、仕事に行って帰ってきているようだけど、やっぱターゲットは、そう簡単に現れないものだね。ってか、奥さんずっと置き去りだし、アイツ、男としてもクソだと思わない?」

あんなんでも奥さんいるのに、俺はカノジョすらできないのなんで?フランキーがトホホと肩を落とす隣に、フィオナが腰を下ろした。

(あれ?そろそろ交替の時間だっけ?)

腕時計に目をやったが、あと一時間ある。無言のフィオナに不思議に思いながらも、フランキーは窓辺から目を離さなかった。

「あなたって、ほんと変わってるわよね」

フィオナが静かな声で呟く。

「ええ、それっていい意味?悪い意味?」

「一応、いい意味」

フランキーは、フィオナに初めて褒められた気がして内心歓喜していた。多分、表情も緩んでいたと思う。が、フィオナはあえて何も言わず話を続けた。

「情報屋なのに、こうやって先輩の任務を一部担うところとか特に」

「あー、たしかに。まあ、あいつは戦友?というか、相棒みたいなもんだからな」

「ふーん……。そういえば、先輩とはどうやって知り合ったの?」

「東西戦争が激化していた頃の話なんだけど、この話題大丈夫そ?」

フィオナは、うんともすんとも言わなかったが、フランキーにはなんとなく肯定の意味に感じて静かに話し始めた。

「俺、東国兵として参戦させられていたんだけど、ある時もうやってらんないって思って、途中で脱走したんだよ。そんで、国境を越えて迷子になっていたところ、黄昏に見つかっちまって、殺されかけたんだけど、『一度も女と付き合わないまま死んでたまるかー!』って泣き喚いて事なきを得たんだ。それがアイツとの出会い。で、冷戦下になってから、縁があって今に至るって感じ」

「……なんか、ださ」

「ださってなんだよ!ほんと性格わりーねーちゃんだな!女は最高だって野郎どもが言うもんだから、ずっと気になってるんだよ!!って言っても、この有様だけど」

なんか虚しくなってきたわ、とフランキーはふてくされたように唇を尖らせた。

「……東西戦争、か……」

ふと、遠くを見つめながら呟いたような声が聞こえた。

「今は冷戦状態にあるけどさ、あの東西戦争も第三国の工作によって勃発したことが疑われてたんだ。(真相は謎のままだけど)だから、今回の西バーリント爆破事件もそういう意図があったんじゃないかって、俺もアイツも考えてる。あくまで俺たちの推測にすぎないけどね」

フィオナはじっと考え込んでしまい、しばらく沈黙の時間が流れた。しかし、不快な沈黙ではなかった。彼女なりに考えを整理できたのか、はたまた何を思ったのか、沈黙を破って出た言葉は予想外のものだった。

「それと気になってたことがあるんだけど、なんであなたの方が監視時間が長いわけ?私、プロなんだけど」

当初の予定では、窓辺の監視を二時間交替で行うはずだった。しかし、フランキーがショートスリーパーであることもあり、交替時間になっても「俺、このまま続けるわ」とだけ言って、三、四時間連続で監視を行うことも増えてきたのだ。延長時間が過ぎると、ほぼ強引に交替されるのが常だった。

「なんでってそりゃー、俺がやりたくてやってんの」

ショートスリーパーになったのも、東西戦争がきっかけ。都合よく憎しみ合わされて、戦って、命を落として――間違いなく世界一不毛な時間を過ごしたあの記憶。
あるときは暗闇で、あるときは真っ昼間に殺害を実行し、実行され、いつだれに殺されるか分からない恐怖のなかで日々を送っていた。実は一度だけ、みすぼらしい部屋で出入口と人々を監視しながら過ごす夜が続いたことがある。ストレスと血まみれの光景のせいで誰もが不眠症に陥った。もちろん、自分も。だから、この狭く薄暗い(外から人影を見られることのないよう照明を暗くしている)アパートメントにも、戦時中の記憶が蘇り、あの頃の不眠症が襲いかかってくるのではないかと予想していたが、日々が過ぎてもまだ悩まされることはなかった。多分、フィオナがずっとそばにいるからかも知れない。強がりといえばそうかも知れないが、どこか彼女が心の安定剤のようになってきていることは否定できないでいた。

「それって、暗に私の諜報員としての仕事を信用できないって言ってるの?」

「ちげーよっ!!むしろ逆だよ逆!」思わず窓辺から視線を外してしまう。フィオナは相変わらずのポーカーフェイスで、表情から何を考えているのかを読み取ることはできない。だが、声音は少し悲しげだった。ような気がする。

「こんなこと言ったらキモいって言われそうだけど、俺はさ、別にどうなったっていいんだよ。病気になろうがなんになろうが、今までもこれからもずっと独り身の自信があるからね。だけど、アンタは諜報員である前に、なんていうか……一人の女性だろう?これから子どもを産む可能性だってあるんだし、俺が勝手に気ぃつかってるだけ」

フィオナは、フランキーの言葉に黙り込む。

「もちろん、ちゃんと根拠もあるんだぜ。最近、北米の妊娠を考えている二十一歳から四十一歳の女性を対象として行われたコホート研究の論文を読んだんだ。睡眠障害をもつ女性では、中等度の妊孕性の低下が認められてる上に、標準を八時間の睡眠として、六時間未満の睡眠をとる女性ではわずかな妊孕性の低下が確認されたって統計までしっかり出てる、だから……」

フィオナの無表情は崩れないが、なんだか空気が重たくなったように感じる。うわ、俺今マズイこと言っちゃった?冷や汗が出てきた気がするが、触らぬ神に祟りなしということで、彼女が去るまで監視に集中しようと姿勢を正した。

「やっぱりあなたって、変な人ね」

フィオナはゆっくり立ち上がり、リビングへと姿を消した。抑揚はないが、気を悪くしたと攻めるような言い方ではなかったと思う。ふうっと長く息を吐く。

「アンタこそ、なかなか変わったねーちゃんだと思うけど」

フィオナに聞こえないくらいの小声だったため、返事が返ってくることも、突きや蹴りをくらうこともなかった。

翌日。

朝から雨が降っているなか、フランキーはぶっ通しで三時間監視し続けていた。交替したフィオナは、朝から出かけて帰ってきたっきり、監視部屋に入ってくることはなかった。

(もうすぐランチタイムか…腹減ったなあ。ってか朝ごはん食ったっけ?)

そう考えながらも、シャッターを切る手は休めない。窓の下を通り過ぎる者は、年齢、性別、人種に関係なく、一人残らず写真に撮っていた。ターゲットの建物に入っていく者とそこの住民については、さらに念入りな撮影を行った。
アパートメントには、雨が降ったり、風が通りを吹き抜けたりするたびに映りの悪くなるパラボラアンテナ付きのテレビが置いてあった。監視に使う寝室に持ってきたそれが、フランキーたちと世界を繋いでいたが、世界は一日ごとに収拾がつかなくなってきているようだった。

『ソ連が軍縮を行わず、欧州の安全を脅かす恐れがあります。アメリカの中距離ミサイルを我々は配備せざるを得なくなるでしょう』

ニュースを右から左に聞き流しながら仕事をする。
人類は何度同じことを繰り返せば気が済むのだろうか。最悪な世界へと陥る前にブレーキを掛けるのが情報屋や諜報員といった人間の生き方だと思うが、自分たちも含め、誰もが安心して暮らせる世の中になることを願ってやまない。だからこそ、ほぼ押し付けられたような仕事ではあれど、諦める気はなかった。幸い、割と監視は得意な方かも知れない。監視が得意な人間の例に洩れず、フランキーもフィオナも生来の忍耐心を備えていた。

コトリ。

カメラなど機材が置いてある窓枠の隅に、皿が並べられる。いい匂いだ。フィオナがランチを買って持ってきてくれたのだろう。

「おお!ちょうど腹が減ってきたところだったんだ!サンキュー!」

窓辺から目を離さず、ワックスペーパーに包まれているハンバーガーに手を伸ばしかぶりつく。咀嚼して飲み込んでから数秒。声にならない声で呻いた。

「……!!」

開いた扉の影から、フィオナの探るような視線を背中に感じる。不穏な空気になっているが、事件ではない。

「これ、いつものファストフード店で買ったものじゃないよね?この世の中にこんなうまいものがあったのかって思うくらいうますぎるんだけど。特にこのソースの味が絶妙で――」

思わず、振り返ると無表情だが、緊張した雰囲気をまとったフィオナと目が合った。

「え?」

「……」

「え?」

「……」

「もしかして……いや、もしかしなくても、これってアンタの手作り?」

彼女の唇が僅かに震え出し、頬はほんの少しだけ赤らんでいるように見える。気がする。うんともすんとも言わないが、それは肯定の意味だと分かった。

「どういう風の吹き回しか全く分かんないけど、最高じゃん……!」

五口くらいで食べ終え、おかわり!と叫ぶ。うまいうまい、口に入れるたびにうまいが止まらない。そして、またおかわり。三個目を食べたところでおかわりの分がなくなってしまったが、お腹も心も充分満たされていた。

「ほんとに美味かった。ありがとな」

ポーカーフェイスに戻っているが、どこか嬉しそうなフィオナに、食べ終えたお皿を渡しながら礼を述べる。ここ最近で、いや、人生で一番贅沢な食事だったことは言うまでもない。嬉しすぎて、今もだらしない顔をしているだろう。そういえば、初めて彼女のポーカーフェイスが崩れたところを見たかも知れない。キッチンへ戻っていったフィオナにちょうど聞こえるくらいの声の大きさで「できればでいいからさ、これからもアンタの手料理食べたいんだけど」と伝えると、遠くからパリンとお皿の割れる音が聞こえた。

♦︎

東国、郊外

薄暗い独房に「誰か」が入ってきた。
なぜ自分はここにいるのだろう。しばらく思考を巡らせて思い出す。そうだ。市役所の帰り道。いつもの細い路地に入った瞬間、目出し帽を着用した黒い男にいきなり襲われたのだ。反撃に出たが、一ヶ所急所に重たい攻撃を受けた後、さまざまな急所が狙われ続け意識を失ったのだった。間合いの掴み方、護身術、体捌き全てにおいて一流の腕前だったことは覚えている。そこから何をされたかは全く分からない。目を覚ませば、この独房にいたのだ。
ヨルは視界がぼやける中、その「誰か」の数を数える。四人。ガタイの良い男たちがいるようだった。
そのうちの一人、自分をとらえている男の険しい顔を見上げた。ヨルは、はっとした。ダイナマイトに起爆装置をつけようとしていた男だった。男は、人を威嚇するいやな顔をしている。ダークグレーの目に、こけた頬。その左側には、五センチほどの傷跡が斜めに走っている。

「お目覚めかい、お嬢さん。あんたは何者だ?誰に頼まれて爆発を止めた?」

ヨルは沈黙を守った。全力で慕ってくれる弟のユーリ、自分たちを育ててくれた店長、ヨルのことを全て受け入れてくれるロイド、かわいい娘のアーニャに、危害を与えることは絶対に避けたかったからだ。
男は鞭を片手に近づいてくる。ヨルは、そんな男を睨みつけた。

「ずっと口をつぐみ続けるつもりか?」

そう言って、にやりと笑う。

「まあ、それもいつまで持つかな」

男が頭上高く掲げた鞭が音を立てて空気を切り裂き、ヨルの剥き出しの腹を打ち据えた。痛みに声をあげそうになるのを唇を噛んで必死に抑える。腹の痛みで気づいたが、ヨルは下着しか身につけていない状態だった。

――痛みを遮断するのです。遮断すれば痛くありません。

店長の声が脳内に響く。
鞭が太腿を打った。唇を噛み締めて耐える。
両手は真上で固定され、金属の太い手枷で縛られていた。足も同様に、自由を奪われた状態だった。いつもの馬鹿力で手足を解放しようとするが、びくともしない。

「残念。逃げられないぜ。これは、特別に発注したものだ。地球上で最も頑丈な拘束具だと言われている。あんた、かなり強いだろう?俺たちにはわかるぜ?」

男のイギリス式のイングリッシュのアクセントが耳元で囁かれた後、鞭がヨルの体を打ち付ける。何度も何度も何度も何度も。腹も胸も背中も脚も、もう打ち付ける場所はないのではないかというくらいに、全身に痛みが走っていった。

――この男には、お前を痛めつけることはできません。気力で耐え切りなさい。

(ああ、ヨル。この仕打ちに耐え切れるでしょうか)

鞭が肌を切り裂き続ける。ヨルは、痛みを遠くに放り去るように、意識を失ってしまった。

♦︎

東国、バーリント

アーニャにとっては、何気ない夜だった。

ロイドは新しい任務を命じられてから、毎日“ヤツ”の動きを探ったり、なにやら複雑なことを頭の中で考えたりしている。ヨルは市役所の仕事と殺しの仕事が忙しいようで、この頃は二十四時を過ぎた時刻に帰ってくる上に、朝も早い。そのため、ロイドとアーニャがそろって朝ごはん、夜ごはんを食べている時間には、ヨルはいないことが多かった。

「はは、ぜんぜんかえってこない。いそがしそう」

「だな」

(今年は、市役所で夏季休暇を取る人が多くて、今月いっぱいは忙しくなるって言ってたな。いろんな仕事がヨルさんに回されているのだろう)

ロイドの思考を読みながら、アーニャは、野菜たっぷりハンバーグを頬張り続ける。最高の夜ごはんだ。にんじんは苦手だが、ロイドの作る料理に入っているにんじんは、美味しくて好きだった。

「アーニャ、夏休みに入ったからって、毎日ダラダラ過ごしてばかりじゃダメだぞ」

「うぃ。らいしゅうのらいしゅうくらいに、ベッキーのおうちで、おとまりかいする」

「そうか。迷惑をかけないようにな」

ロイドは、読んでいた新聞を畳みながら言い加える。

「明日も八時になったらシッターさんが来る。いい子にしておけよ」

ロイドはアーニャの頭を撫でてから、食べ終わった食器をキッチンに持っていく。そのまま洗面台に姿を消すと、ロイドと入れ替わるように、ボンドがアーニャの足元に擦り寄ってきた。ボンドが辺りをくんくんと嗅ぐのと同時に、ぱちちと、ボンドの予知がアーニャの頭の中に流れ込んでくる。

そこには、ロイドが愛おしげにヨルとアーニャを包み込んでいる姿があった。しかし、突然ヨルが消えてしまう。それから、ロイドも消えて、アーニャが独り取り残されている映像が流れた。独りぼっちのアーニャは、暗い表情で俯いている。

アーニャは目を見開く。

(みらいで、ははがいなくなる?ははがいなくなったら、ちちもいなくなる?)

ボンドの予知は続くようで、サンドラー広場の時計台付近の映像が流れた。時刻は十七時十分。大勢の人で賑わっているなか、スーツを着た二人の男が黒い車に荷物を積み込む姿があった。

ザザザ……と場面が切り替わると、赤煉瓦の二階建てが一定間隔に並んでいる市街地が映し出された。その中の一軒に焦点が当てられる。雑草だらけの前庭には、あの黒い車の後ろ姿が。丸いフォルムに、羽を形取ったシンボルマークが特徴的だった。
玄関の白いドアに逆さに吊るされているのは、白いバラとユーカリの葉っぱ。それらは、深紅のリボンで一つに束ねられており、そのうちの一本はすっかり折れているように見えた。そして、その建物の地下、奥まったところにヨルが閉じ込められていた。血まみれで傷だらけになったヨルの姿に、アーニャは衝撃を受ける。

「……ははっ……?」

ヨルは下着姿で鉄パイプに縛り付けられている。しかし、まだ生きているようで、鋭い目つきをしていた。

ザザザ……と再び場面が切り変わり、ロイドが一人で、ヨルの現場に駆けつける映像が流れる。だが、ヨルはすでに死んでしまっているのだろうか、ロイドはがくりと膝から崩れ落ちた。すると次の瞬間、ロイドもこめかみから血を流して床に倒れ込んでしまう。
この家のテレビ画面には『臨時放送、臨時放送。西国軍が軍事作戦を決行したとの情報がーー』『ソ連が西国に侵攻してきた場合、フランスも西国への核ミサイル発射を余儀なくされるーー』様々なニュースが流れ、街中に黒い煙が上がる映像まで流れると、パチンと現実に意識が戻される。

(みらいたいへん!!!ははもしんで、ちちもしんで、へいわもほーじゃーけもしゅうりょう!!)

アーニャは、ボンドをガクンガクンと揺さぶる。最後の方は何があったのか、アーニャにはよく分からなかったが、二人ともいなくなってしまうことや、街全体が爆弾で焼け野原になってしまうことは間違いないと確信した。歯を磨き終え出てきたロイドが、怪訝な顔つきでアーニャを見る。

「おい、アーニャ、ボンドの目が回るからやめてあげてくれ」

アーニャは少し成長した脳みそで一生懸命考えながら、ロイドに振り返った。

(ちちに、ははのいばしょをおしえて、ははをたすけてもらう……?でも、あのばしょ、どこかわからない。それに、ははをたすけにいったら、ちちもしんでしまう……これは、アーニャがなんとかするしかない……!アーニャにみらいがたくされた!)

アーニャがよほど複雑な表情をしていたのだろう。ロイドは、アーニャの表情から感情を読み解くのに必死で、いつものごとく的外れな思考に辿り着いていた。

「ちち、しんぱいするな。アーニャはいつもいいこにしてる」

「??あ、あぁ。そう、だな。シッターさんからは、テレビばかり見ているとも聞いているが」

ギクッ。みっこくされていたか。

「あしたから、がっこうのふくしゅーとよしゅーがんばるから、あんしんしろ」

「うん。がんばれ」

ロイドは、神妙な顔つきになりながら、アーニャの食べ終わった食器をキッチンへ持っていき、皿洗いを始めた。

♦︎

東国、バーリント

二日前、新たに爆弾が発見されたとニュースに流れた。起爆装置が付いておらず爆発しないまま回収されたが、これも国際テロリストによる犯行として処理されたのだった。もちろん、WISEや黄昏はコネリーのしわざであると確信している。しかし、相変わらずコネリーの動きは読めないでいた。
ロイドは、リビングに鳴り響く電話の音に起こされた。今は夜中の一時だ。こんな時間に掛けてくるなんて非常識極まりない奴だな、と呟きながらも受話器をあげた。

「こんにちは、あるいは、こんばんは。黄昏さん」

聞き慣れぬ声が聞こえてきて、心臓がどくりと嫌な音を立てる。その声は、WISEの連中のものではないし、バーリント総合病院の職員のものでもない。もちろん、機械音声でもない。ロイドの知り合いにも、こんな地に響くような声の主はいなかった。

「……お前は、何者だ」

冷静を装い、低い声で尋ねる。

「ヨル・フォージャーを監禁しました。無事に返して欲しければ、今から言うところに来てください。時間もきっちり守るように」

男は、ロイドの質問を無視して、住所と日時を言い連ねる。
住所はここから北へ十キロほど離れたところで、日時は今日の十一時だった。

「万が一、あなたが一人で来なかった場合、あなたとヨル、その関係者全員に危害を与えます。よろしいですね。では」

一方的に話し立てると、男は電話を切った。ツー、ツーと虚しい音が耳に鳴り響く。ロイドは、受話器を戻した。

住所も日時も、あの男の声も、話した言葉も全て脳裏にこびりついていた。

背中に冷や汗が流れる。誰の電話なのか、全く予想がつかない。それに、身内にいる秘密警察ですら黄昏の存在に気づいていないのに、男はまるで全てを知っているようかのようだった。この家の電話番号も含めて。
しかし、なによりも全く答えを導き出せない疑問が、次第にロイドの頭の中を支配し始めた。

(ヨルさんが、監禁ってどういうことだ?なぜ彼女が監禁されなければならない?それに、かなり強い人なのに……)

ヨルの身辺は、黄昏が何度も調べていたが、クロになることなかった。

(やはり、秘密警察に身元がバレた線を考えるべきか?いや、奴らは手荒いから、見つけ次第すぐに銃口を向けてくるはずだ)

何か解決の糸口を見つけようと、ヨルの部屋をノックする。もちろん中から返答はなく、謝罪の言葉をかけながら扉を開けるが、そこにヨルの姿はなかった。
すぐに部屋を出て、自室に向かう。
私用の固定電話に番号を入力すると、その相手はすぐに出た。

「こんにちは、あるいはこんばんは。フランキー、オレだ」

「よお、黄昏。久しぶりだな」

完全に盗聴されていない安全な回線の電話を、リスボンとの国際電話のためだけに手に入れていた。ここの電話番号もフランキーしか知らない。

「そっちは何か動きはあったか?」

「毎日張りついてるけど、今のところ特にないね」

ってかさ、あれだけここに来るの渋ってたけど、今最高の泊まりがけデートを満喫してるわ、とフランキーはフィオナに聞こえないようにか、小声ではしゃぐ。デートじゃない、任務だ、とロイドが言うと、分かってるって!俺まじ頑張れちゃう、と上機嫌な声が聞こえてきた。ロイドは、肺に溜まった空気を出し切るようなため息をつく。

「で、いきなり何の用だ?そっちは夜中の一時回ってるだろ?」

「ヨルが監禁されたらしい」

「はっ!?監禁!?」

フランキーが驚きのあまり、言葉が出てこないようだった。

「さっき電話で、脅迫された。相手は全く検討もつかない」

「秘密警察じゃないのか?」

「違う、あいつらのやり方じゃない」

「いや、分からないぜ?まあ、最悪ヨルさんを見限らなねーといけない時がくるかもな」

フランキーの妙に落ち着いた声が耳につく。

「そんな時はこない。絶対に」

ロイドの苛立った声が伝わったようで、フランキーは、すっかり要らん情を抱いちまったようだな、と呆れたように言った。ロイドは、また動きがあれば連絡してくるようにとだけ言い残して、電話を切った。

ベッドに寝転がって考えるのは、ヨルのことだった。

(要らん情か……)

ヨルには、確かに好意を抱いていた。でも、それは家族としての好意で、両親や兄弟に抱くのと似たようなものだった。そう、ちょうどアーニャを愛おしく思うのと同じような、あの感じ。

(ヨルさんが、無事ならそれでいいのだが)

爆破事件が起こって、犯人探しをしている途中で掛かってきた電話。ロイドは、嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
当然眠れるわけがなく、五十代副署長に変装をすると警察署へ向かった。データ管理室に忍び込み、直近三日分の街頭防犯カメラのデータを調べていく。

(オレは何をしていたんだ。ヨルさんがいないことに気づかないなんて……)

市役所周りでヨルが映っている映像はあれど有力なデータは見つからない。不審な人物も見当たらない。
プロの犯行であることは確実だ。
最後にヨルの姿を確認できたのは、二日前の午後十六時十七分に市役所を退社し、公園通りに向かって歩いているところを捉えたものだった。

(二日前……まさか、な)

爆破未遂事件がふと頭によぎったが、有り得ないと首を振った。

♦︎

東国、バーリント

アーニャの小さなショルダーバッグに入っているものは、じぃじからもらった秘密の万年筆と、ハンカチとティッシュ、非常食のピーナッツだけだった。紺色の長ズボンと白の半袖Tシャツというシンプルな格好に、バッグの可愛らしいエメラルドグリーンが映える。以前デパートに出かけた時に、古典のテストで良い点が取れたご褒美として、ロイドに買ってもらったものだ。

(十六じ三十ぷん。そろそろいかなきゃ)

アーニャは、一年生の頃と違って、時計が読めるようになっていた。ロイドが意識的に時間を聞いたり、簡単な問題を出してくれたりしていたおかげだと思う。こっそりと用意してあったメモを机の上に置くと、抜き足差し足で玄関に向かった。ボンドが後ろから付いてきて、クゥーンと小さく鳴く。

「しんぱいするな、ボンド。かならずかえってくる」

小声で伝えながら、ボンドにぎゅっと抱きつくと、音を立てずにドアを開けて外に出た。シッターは、アーニャの外出に気づくことなく、鼻歌を歌いながら洗濯物を取り込んでいたのだった。

時計台に着いた時間は十六時五十五分。
アーニャは、きょろきょろしながらボンドの予知で見た車を探す。

(あった!)

広場の奥まったところに、目立たないように停められているようだった。丸いフォルムに、羽を形取ったシンボルマークを確かめて、にやりと笑う。

(アーニャ、スパイしてるきぶん)

さっそく車に乗り込もうとするが、流石に後部座席は敵にバレてしまうと思い、バッグドアを開けようとする。だけど、開け方が分からない。とりあえず、隙間に指を入れてみたり、少し飛び出ているところを精一杯引っ張ったりしてみるが、びくともしなかったため、後ろに乗り込むことも諦めてしまった。

(アーニャ、ぴんち。ちちみたいにうまくいかない)

しかし、次の案はすぐに閃いた。男たちが荷物を車に積んでいた映像を思い出したのだ。大きな木でできた箱が三つ。アーニャでも開閉可能なロックが付いていて、そのうちのひとつ、“ALCHOL"と書かれた箱を開けた。中には、ガラス瓶が数本入っている。いずれも緩衝材で包まれており、中身は見えなかった。アーニャは隠れるのに十分な隙間を見つけて入り込み、蓋を閉める。それから、三角座りをしながら男たちの到着を待ったのだった。

♦︎

東国、バーリント、郊外

ロイドは、どんな恐ろしい地獄に招待されるのかと危惧していたが、指定された場所には、立派な花屋がぽつんと一軒、あるだけだった。何十種類、何百種類もの色とりどりな植物が通りまで溢れ返っている。

(ここは、かなり質の良い商品を取り揃えているようだ)

ロイドは、真紅のバラを観察しながら、真夜中の電話の主について考えを巡らせる。すると突然、隣から脳裏に焼き付いているあの声が耳に入った。

「こんにちは」

男の気配を全く感じ取れず、ロイドは動揺する。

(この感覚……以前にもどこかで……)

ロイドは、それを思い出して息を呑む。

(ヨルさんと初めて出会った日だ)

三番街のブティックにて、ロイドの背後にたやすく現れたヨル。これまでなるべく考えないようにしていたが、ヨルにはおかしな点がたくさんあった。牛を急所突きだけで倒したり、力強さ診断マシーンを破壊してしまったり、ラケットを振っただけでボールを切り刻んでしまったり。思えば、自分の顎を蹴り上げてきた、あのキックも常人のそれではなかった。この男の気配とヨルの気配は、どこか似ているものがある。直感的にそう感じた。

「お待ちしておりました。さあ、こちらへ」

ロイドは、警戒しながら男の後ろに付いていった。お客のごとく扱われることにも違和感を覚える。この男の他にも、店員が一人だけいるようだが、奥で作業をしていたため、姿は確認できなかった。 
腰まである白髪が歩行に合わせ、風に吹かれる麦の穂のように揺れている。パナマハットに黒いエプロン、黒のガーデニング用手袋だけ見ると、何の変哲もない園芸家だが、捲られた長袖から除く小麦色の固そうな腕や動作一つ一つをとってみても、只者ではなかった。
同業者に違いないとロイドは確信する。
それも、その道のプロだ。できれば、一戦も交えたくない相手だとさえ思った。

(なるほど。もしそうだとしたら、この高品質な花屋は、合法的なビジネスで、これを隠れ蓑にして、非合法的に得た金をロンダリングしている可能性が高いな)

店内の植物の間を通り抜け、男が突き当たりの扉を開けると、ザアアと風が通り抜ける。

目の前には、それはそれは見事な庭園が広がっていた。

白を基調とした美しいガゼホに、アーチ、男の住処と思われる洋風住宅、そのほとんどを鮮やかな緑とまばらな花々が包み込んでいる。心地よい風が流れ、ロイドは目を細める。植物の良い香りが、幾分ロイドの緊張をといてくれるようだった。
ガゼホに入り、男がアンティーク調のガーデンチェアを引く。ロイドに座るよう促すと、自分もガーデンテーブルの向かいにあるチェアに腰を下ろした。

「はじめまして。ガーデンへようこそ」

ガーデン、という言葉を聞き、脳内であらゆる情報が検索、精査される。

『兵士一人で一個中隊を殲滅できる力を持っている』

『影の政府の命令で国賊を次々と粛清している』

『やつらは存在する』

『確証はないが、「ガーデン」にやられたんじゃないかって』

ヨルの強さや男の佇まい、その他の断片的な情報が全て結びつき、ロイドは警戒心を一層高めた。

「ガーデンは、お店の名前です」

何か悟ったかのように男が付け加える。しかし、ロイドは、自分の仮説を信じて疑わなかった。
間違いない。東国に昔から存在する暗殺組織、ガーデンだ。
男は感情の読めない黒い目で、ロイドを見据えながら言った。

「……といっても、あなたの目は誤魔化せないでしょう」

男は微笑む。

「私のことは、どうぞ店長とお呼びください。黄昏さん。いや、ロイドさんと呼ぶべきかな?」

「ヨルはどこにいる」

ロイドの鋭い視線にも動じない。
鳥の声や植物のざわめきが、音の空間を支配する。

「ヨルが監禁されているのは事実です。ですが、私が監禁しているわけではありません」

配給係が近づいてきて、紅茶を二つ静かに並べると、音を立てずに去って行った。

「では、誰が?どこで監禁している?」

「まだわかりません」

「なぜオレをここに呼び出した?」

「ヨルの救出を、お願いしたいのです。我々ガーデンにとって、畑違いの仕事ですので。あなた方の協力を仰ごうと考えています。もちろん、非公式ではありますが」

草木をざわめかせるような風が吹き抜ける。
思いがけない店長の答えに、ロイドは動揺した。

「安心してください。私はあなた方を殺しなどしません」

全て見透かされているような言葉に、どきりと心臓が高鳴る。呆然としているロイドにはお構いなしに、店長は続けた。

「覚えていますか?ずいぶん前のことですが、尾行されていたことを」

「ええ、もちろん」

数ヶ月前、ロイドは怪しい人物に何度か尾行されていたことを思い出す。

「聞きましたよ、私の手下から。いつもうまく巻いていたようですね」

ロイドさんが、ただの一般人じゃないのは確実だと言っていました、と店長は口角を上げて言う。

「我々があなたを尾行していた理由は、ヨルから聞いたことが気になっていたからです」

「ヨルから?」

店長は無言で頷く。

「あなたが国家統一党総裁にお会いしていたり、その政党に興味があると、ヨルが言っていたのです」

店長は、紅茶を一口だけ飲むと話を続けた。

「国家統一党は、我々の信念には合わない。ですので、この政党を支持する連中は、密かにガーデンの監視下に置いてきました。お客さまから依頼を受けたり、何か不都合なことがあったりした場合は、“業務”を遂行することもしばしば」

「それで、オレたちはどうでしたか?」

店長は、微笑んで言う。

「あなた方は、我々と非常に似た信念をお持ちのようだ」

ということは、ガーデンの存在目的も、『東西の平和』ということになるのだろうか。もし国家統一党を支持していれば、今この場で自分は殺されていたかも知れないと思うと、ロイドは肝を冷やした。

「黄昏も国賊だと聞いていましたが、どうやら風説に過ぎなかったようです」

黒い目は、相変わらず感情を読めないでいた。しかし、そこに敵対心はないように感じた。

「オレの正体は、どうやって知った?」あと電話番号も、とロイドは付け足す。

「我々のやり方で、情報を盗み出しました。もちろん、誰も殺してはいませんよ」

WISEの内部に情報をリークしたやつがいる可能性があるということか、とロイドは渋い顔をする。
店長はエプロンのポケットから一枚のメモを取り出し、ロイド方へ押してよこした。

「必要があれば、こちらに連絡を。我々はいつでも協力体制にあります」

ロイドは店長からメモを受け取ると、ざっと目を通し、内ポケットの小さな手帳に挟み込んだ。近々依頼にくるかもしれません、と一言残して、ガーデンを出ると、急いでヨルの居場所を探し始めるのだった。

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