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眠りの森のいばら姫 2/5

東国、郊外

アーニャは、すんなりと車に乗り込むことに成功した。
男たちの心の声は、ずっと聞こえてきていたが、ロイドが複雑に思考しているのと同じような感じで、内容自体はちんぷんかんぷんだった。バッグからこっそり万年筆を取り出すと、時計回りに二回上部を回す。カチッと小さな音がして、発信機付きの盗聴器が作動した。

アーニャがこの秘密を知ったのは、じぃじにもらってからすぐのこと。授業中に天冠をいじって遊んでいたら、カチッと音がして、目を輝かせた。「これはさいしんのスパイグッズかもしれない!」という期待を胸に、こっそり分解すると中に黒い何かが詰まっていることに気づいた。謎の黒い物体をロイドに見せると、発信機付きの盗聴器だと判明。ロイドはほとんど無口で考え込んでいたが、それがどういうものなのか、どう使えばいいのか、といったことは心の声からほとんど聞き取れてしまい、ますます目を輝かせたのだった。しかし、ヘンダーソン先生の「フォージャー、そんなに雷がほしいのか」と凄む声と、アーニャの謝罪の声もばっちり録音されていたため、ロイドにはたんまり叱られてしまった。

少しでも音が拾いやすくなるよう、万年筆の尻軸を男がいる方向に向ける。暗い木箱の中にいても、アーニャの瞳は希望に満ちていた。

(エージェントアーニャ!ただいま、とーちょーきをさどうしました)

わくわくっ!

盗聴器と発信機の違いは正直よく分からないが、ロイド曰く、これを作動させると、ロイドの父にだけアーニャの居場所を把握することができるらしい。アーニャは、心の声で聞いたことを今でもきちんと覚えていた。

しばらくすると、男たちが会話を始める。しゃがれた特徴的な声だった。

「あの女さえいなければ、時期をつくれただろうな」

「そうですね。しかし、女はかなり強いです。詳細はまだ確定していませんが、おそらくガーデンの者かと」

男はフッと笑みをこぼす。

「それも尋問させてみればいい。本当か嘘か見抜けるはずだ。ガーデンの一員だったら、なんて都合のいい女だろう」

「ええ。飲まず食わず眠らずで、三日目に入るにも関わらず、凄まじい生命力だと聞いています。水責めも、殴打も、何もかもあの女には効果がないようです」

「殺すにはもったいない奴だ。なあ、同志フックスよ」

「ええ。もうアレを送り込んでいるのですね」

男は満足げに頷くと、しばらく沈黙が流れた。

(あのおんなって、ははのこと?はは、みっかかん、なにもたべてないし、ねてないけど、たぶんしんでない!でも、みずぜめってなに?おうだってなに?がーでん?ふっく?)

アーニャには、会話の内容を全て理解することは難しかったが、まだヨルが生きていることを知って、心底安心したのだった。

「こちらが調査した書類は、お前のとこの少尉には絶対に漏らすなよ」

「もちろんです。まさか自分の姉が拷問されているなんて知ったら、気が狂ってしまうでしょうから」

アーニャは心の声で「ブライア少尉」というのが聞こえた。そういえば、ヨルもブライアだったような気がする。もしかしたら、おじもかんけいしているのかと考えたが、思考が複雑になり、まぁいっかと考えること自体放棄した。
男たちの残りの会話は、ほとんど沈黙か他愛のないものばかりで終わった。道の悪い道路を走っているのか、時おりガタンガタンと激しく揺れるため、木箱の蓋に頭をぶつけてしまうこともあった。結構長い時間、車に揺られていたと思う。やがてエンジン音が完全に聞こえなくなり、わずかな揺れもおさまると、男たちがフロントドアを開けた。しかし、予想外なことに、バックドアも開けてきたのだった。

(まずいっ!アーニャのそんざいがばれちゃう)

アーニャは、万年筆をお守りのように握りしめ、息を潜める。バレませんようにバレませんように、とひたすら願い続けた甲斐があったのか、アーニャの隣にある木箱だけが降ろされ、ドアが閉められた。アーニャは、ほっと胸を撫で下ろした。心の中で百秒数えた後、木箱の蓋をそっーと開ける。外の眩しさに目を窄めながら、男たちの気配を探るがもう誰もいないようだった。蓋を限界まで開け、辺りを見渡す。

赤煉瓦の二階建ての建物。玄関の白いドア。逆さに吊るされた白いバラとユーカリの葉っぱ。ボンドの予知通り、バラの一本は折れていた。間違いない。ヨルはこの建物の地下にいる。

「で、これからどうすればいいんだっけ?」

ヨルを助けるためには、建物の中にこっそり侵入しなければならない。

「とりあえずそとにでないと!」

アーニャは車からの脱出を試みた。
しかし、木箱はバックドアとリアシートの間にぴったり収まっているため隙間がなかった。後部座席に身体を滑らそうとしても、十センチくらいしか蓋が開かないため、頭すら通らない。ならば、箱ごと破壊してしまえと思い、木箱の中を叩いたり引っ掻いたりするがびくともせず、脱出方法が全くないことに気づいてしまった。
アーニャは、雷に撃たれたようにショックを受け、目に涙を溜め、わんわんと声をあげて泣く。泣いても誰も助けてくれないのは分かっていたが、泣くことしかできなかった。悲しみに暮れるなか、ユーリやじぃじが言っていた勉強の大切さを身に染みて感じたのだった。

♦︎

東国、郊外

アーニャちゃん、アーニャちゃん

(アーニャちゃん!)

「んー?」

アーニャは、夢現で返事をする。アーニャの頭の中に温かい心の声が流れ込んでくる。

(起きたかい?じぃじがむかえに来たよ)

「じぃじ……?」

アーニャは目をこすり、焦点を合わせる。男の柔らかい笑みがはっきりと見えた時、アーニャは、じぃじっ!と声を絞り出しながら飛びついた。かがんだ男の分厚い胸板に顔をすり寄せる。

(なんでこんなところにいるんだい?)

「このいえのちかに、ははがいるから」アーニャは指を差して言う。

(……ヨルさんが?)

アーニャは無言で頷く。そして、バッグから万年筆を取り出すと、男に手渡した。

「わるいひとたちが、あのおんなっていってた。たぶん、ははのことだとおもう」

男は万年筆を一瞥し、反時計回りに二回天冠を回した後、それをダークグリーンのスラックスのポケットにしまった。

(なるほど……分かった。とりあえずここをはなれよう。ここは、危ない場所なんだ)

男はアーニャを抱え木箱から出した。すべて元通りにしてから、アーニャの手を繋いで、通りを歩く。

「アーニャちゃん、じぃじとやくそくしてほしいことがある」

「やくそく?」

アーニャは男を見上げる。男は、真剣な表情でアーニャと視線を合わせた。

「もう二度と、こんなことはしないでおくれ」

「うぃ……」

冷静な声だったが、そこに男の心配する気持ちを感じ取り、アーニャはしょんぼり肩を落とす。落ち込んでいるアーニャの姿を見て、男は表情を緩めた。

「どうしても、お母さんを助けたかったんだね?その気持ちはよくわかる。でも、じぃじは、アーニャちゃんも怖いことに巻き込まれてしまうのが嫌なんだ」

男は、語りかけるような口調で言った。

「何かあったら、お父さんやお母さん、先生、信頼できる大人にまずは相談してほしい。心の声のことは無理に話さなくてもいいけど、相談することは大切なことだよ」

アーニャが無言でこくりと頷くと、男は微笑みながら繋いでいる手に力を込めた。

「アーニャののーりょく、まだだれにもはなしていない。ちちも、ははもしらない」

「そうか。アーニャちゃんがよかったら、家族には話してみてもいいかも知れないね。お父さんとお母さんは、どんなアーニャちゃんであっても、受け入れてくれるはずさ」

男がウインクをすると、アーニャは口元を緩めた。

「うぃ!じぃじ、あざざます」

男のスクーターが、目立たないところに立てかけられていた。男はアーニャを後ろに座らせ、自分も前に座ると、腰のところに太めのロープを回しキツめに結ぶ。アーニャが落ちないようにするためだ。

「苦しくないかい?」

「うぃ」

エンジンをかける。じぃじには上半身をコイツには下半身をぴったりつけておくんだよ、と声をかけ、右手のグリップを捻った。初めて乗るスクーター。アーニャは、耳元でヒュウヒュウと鳴る風の音、流れる景色、男のたくましい背中に心が躍った。
途中、男はスクーターから降り、公衆電話に操作を加えて(盗聴防止のため)電話をする。暗号のようなメッセージを話していたため理解できないことばかりだったが、その電話の相手だけは分かっていた。
受話器の向こうにいるのは、WISE局長。
じぃじのてにかかれば、ちちもははもたすかるはず、とほっと一安心したのだった。

♦︎

東国、郊外

冷たい水を掛けられ、微睡んでいた意識が呼び覚まされる。

「目を覚ませ。お前には、睡眠時間などない」

ブラウンの瞳をもつ丸刈りの男が鞭を振り下ろす。
肌を切り裂く痛みに、小さな悲鳴をあげそうになったが、必死に堪えた。男は、悶えているヨルにかまわず話を続ける。

「ヨル・フォージャー、二十九歳、市役所勤め。もちろん、お前の家族の情報も既に手に入れている。
両親は共に他界し、弟のユーリ・ブライアと幼少期を過ごしてきたそうじゃないか。今は外交官として働いていて、裏ではSSSの少尉をしているそうな。それから、お前は結婚していてバーリント総合病院、精神科医の夫ロイド・フォージャー、イーデン校に通う元孤児の娘アーニャ・フォージャー、ボンドという名の白い犬とともに生活を送っているんだとか」

ヨルの顔から血の気が引いた。家族のことは絶対に漏らさないことを徹底していたのに、どこからか情報を手に入れてしまったようだ。それに、自分が知らなかった情報まで知ってしまい、驚きが隠せない。

(ユーリが保安局員……?アーニャさんが元孤児……?ロイドさんの前妻の子ではないのでしょうか?)

「だが、それだけじゃない。俺たちはもっと重大な情報を手に入れている」

男の生暖かい息が耳にかかり、全身に嫌悪感が走る。

「ようこそ、暗殺組織ガーデンのいばら姫?」

(ど、どうして私の極秘情報まで……!)

「驚いたか?隠していたつもりだろうけど、残念だったな。まあ、殺し屋でもなきゃ、あんな一般人から乖離した動きをすることに説明がつかないからな。それで、こっからは提案だ」

男は、唇の端に嫌な笑みを浮かべた。

「お前がKGBの極秘部隊に入れば、家族全員の安全を保障してやる。だが、それを拒めば――いや、拒むことはないはずだろう、ヨル?」

ヨルはひゅっと息を呑んだ。
耐えられない怒りが心臓で唸る。もちろん、KGBの極秘部隊に入る気はさらさらない。だが、それよりも許せないことがあった。

(ヨルと……ヨルと呼ばないでください。私の名前を呼んでいいのは……呼んで欲しいは、あの方だけですから)

頭の中に想い描いた「あの方」は、スカイブルーの瞳を穏やかに緩めている。偽装であれ、ヨルにとってはただ一人の夫で、初めて気になった男性。

一層険しい顔つきで、目の前の男を睨みつける。

すると、白衣を羽織った男が近づいてきた。痩せこけた幽霊のような雰囲気の男。ヨルは嫌な予感がして、体をよじる。白衣の男がポケットから注射器を取り出すのと同時に、周りの男がヨルの腕を固定し、いとも容易くよく分からない物質を体内に注入されてしまった。

「良かったな、お前が第一号だ」

訓練を重ねてきた身であるため、毒物には強い耐性を持っている。しかし、それでも心臓は嫌な音を立て始めた。白衣の男は、ヨルの姿を観察しながらバインダーに何かを書き込んでいる。それを見て、自分がモルモットのように扱われていることに気づき、吐き気がした。

「ヨル、俺たちの力にならないか?」

「……」

男の問いかけに、ヨルは沈黙を守る。

「噂には聞いていたが、やはりお前は強い。俺たちの力になれば、世界平和も夢じゃないし、家族も守れる」

「……」

男は何も答えないヨルに痺れを切らし、鞭を投げ捨て数回殴りつけた。

「おい、いつから効果が出るんだ」

他の男が、研究者らしき男に尋ねた。

「いつから、とは断定できません。新薬ですから」

ヨルを殴打し続けていた男は、突然動きを止めた。やっと満足したかと安堵したのも束の間、男は口元に嫌らしい笑みをたたえ、いきなり顔を近づけてきた。
ヨルは突然の出来事に瞠目し、反射的に頭突きをする。その打ちどころが悪かったのか、あるいは男に口付けられることに拒否反応が出てしまったのか、そのまま意識を手放してしまった。

♦︎

神聖な空間。パイプオルガンの音に、男女の調和し合う歌声。優しい花の香り。
ヨルの両手には、白の胡蝶蘭が美しく咲き誇っていた。流れている音楽はジュリオ・カッチーニのアヴェ・マリア。足元を見れば、美しい純白のドレス。歩くたびに、ふわりとしたレースが揺れる。
ヨルは、重厚なドアの前に立った。

振り返ると、アーニャが満面の笑みでヨルを見上げていた。
『はは、きれい』
多分、そう言った気がする。
音は、カッチーニのアヴェ・マリア以外聞こえなかった。

ヨルは、ありがとうございますと微笑み返す。
アーニャはリングガールのようだ。ヨルと同じような膝丈のドレスに、ウエストを締めるエメラルドグリーンのリボンが可愛らしい。アーニャの手には、サイズの異なるシルバーの指輪が二つ。それらが、白いリングピローの上で、リボンに結び付けられていた。

ヨルは目を瞑り、深呼吸をする。

重厚なドアが静かに動き出し、目を開ける。
真っ白な空間の先に見えるのは、愛おしいあの方の姿。

音楽に合わせて、一歩ずつ一歩ずつ近づいていく。周りに人の気配はなかった。というよりも、ロイドしか視界に入っていなかったため、いないと思い込んでいるだけなのかもしれない。

『ヨルさん』

声はやっぱり聞こなかった。アップバングされた金髪に、穏やかなブルーの瞳。雲一つない青空のような目をしている。白のタキシードを嫌味なく着こなしたロイドの姿は、まさに王子様そのものだった。

(ああ、ロイドさん。ロイドさんの妻になりたいーーですが、本当に、私のような者があなたの妻になっても良いのでしょうか)

ロイドがヨルに手を伸ばす。ヨルがその手をとろうとした瞬間、ピキリと大きな音がした。神聖なメロディー以外に初めて聞こえた音だった。

ヨルの足元が突然崩れていく。それはまるで雪崩のように。大きな唸りをあげながら。

あっ、と焦って、明るい世界に手を伸ばした時には既に遅く、深い穴に吸い込まれていった。

♦︎

落ちた世界は、混沌としていた。一言でいえば、人間が人間ではない世界になっていたのだ。

人々は何かしら意味もない憎悪にとらわれて、殺しあっているようだった。たがいにおどりかかって、突きあったり、斬りあったり、噛みあったり、食いあったりしていた。突然自己殺戮をはじめる者もいる。

(ここはどこでしょう。さっきまで白いアイルランナーの上を歩いていたはずなのに――)

今はレッドカーペットの上を歩いているようだった。胡蝶蘭のブーケも白いベールも、どこへ飛んでいってしまったのだろうか。手元にない。誰もが殺し合いに夢中になっているためか、ヨルのことはここにいる人たちにはまるで見えていないようだった。
ウエディングドレスを引きずりながら、混沌とした世界を歩き回る。
今いるこの世界が、信じられなかった。
血の生臭さが辺りに立ち込めている。ドレスの裾が血に濡れたタイルを引きずる感覚もある。
時々、誰かにぶつかることもあったが、相手は壁に当たったかのような感じで、特に気にする素振りもなかった。
ヨルは、どこへ向かっていいのか分からなかったため、足の向くままに彷徨い続ける。多方から血が飛んできて、真っ白なドレスを赤く染めていく。まるでお前にそのドレスはふさわしくないとでも言われているかのように。飛んでくる刀剣や斧、矢は、どれも血に濡れている。生身の肌にも誰のか分からない血が付着し、その生温かさを直に感じて、ヨルは小さく身震いした。

(血を見たり触れたりすることなど、慣れているではありませんか……)

辺りをぐるりと見渡すと、中世ヨーロッパの郊外のような光景が広がっていたが、どの時代にいるのかは分からない。現実世界でないことだけは確かだろう。

「この神の土地にこそ、新しい神殿を建てねばならぬ!」

「そこは我々の聖地だ。異教徒に蹂躙されてたまるか!」

男が一方の男の首筋に喰らいつく。

「お前たちのせいで、私は不幸なのだ!キリストを十字架にかけた罪を償え!」

そう喚きながら、あたり構わず刀剣を振り回している者もいる。

「私たちの家庭を壊して何がしたいの?!」

「私がいつ壊したですって?元はといえばあなたのせいじゃない!」

女同士で掴み合っていたが、片方の女は通り過ぎた刀剣に斬られてしまったようで、血飛沫をあげながら倒れてしまった。
人々は、自分の判決や、学術上の結論、道徳上の確信、信仰などを、絶対に間違いのない真理と考えているようだった。誰もかれも不安な心もちに閉ざされて、たがいに理解しあうということをしない。何を悪とし、何を善とすべきかの問題についても意見の一致というものがまるでなかった。
町々では、ついに警鐘を鳴らして、人を呼び集めているところもあったが、誰が何のために呼んでいるのか、それを知るものは一人もなかった。一同はただ不安に包まれていた。てんでに思い思いの意見や善後策を持ち出すけれど、一致を見ることができないようだ。人々はここにひとかたまり、あちらにひとかたまりとかけ集まって、何かの決議をした上に、けっしてわかれまいと誓った――けれど、たちまちのうちに、たった今、自分たちで予定したのとは、まるで反対なことをやりだして、たがいに相手を責めながら、つかみ合い斬り合いを始めるのだった。正気では見ていられてない惨状を目の当たりにし青ざめた。

(私が、人を殺し過ぎたせいでしょう……人を殺し過ぎたから、罰を受けているのです)

両腕をさすりながら歩く。目の前に殺された人が倒れてきて、ヒッと後ずさると、また別の誰かに思い切りぶつかった。慣れないヒールを履いていたため、足をぐねり、地面に転んでしまう。
ヨルは、タイルに広がる血を眺めた。
目的がよく分からない殺し合いを目の当たりにして、頭がおかしくなりそうだった。いつも誰かのため、何かのためを思って、戦ってきたヨルにとって、考えられない光景がここにある。
しかし、ふと思った。
ここにいる人たちは、みんながみんな、自分の主張が正しいと考えて、殺し合っている。反対に、自分の主張が正しければ、人を殺してもいいということになるのだ。

(私も店長からの依頼で、たくさん人を殺めてきましたが、どうやら、ここにいる人たちと同じ考え方をしていたようです)

ヨルは、初めて殺しの仕事自体に疑問を持った。何のために戦っているのか分からなくなったことは過去にもあったが、人を殺すことについて、深く考えたことがなかった。というより、考えないようにしていたのかも知れない。
悪い人たちだから。
国家に命を捧げる尊いお仕事だから。
誰かの他愛ない暮らしを守りたいから。
自分の仕事によって守られる命がたくさんあるから。
人を殺す。亡き者にする。
それが「正しい」と思っていた。
しかし、本当に正しかったのだろうか?

全身血濡れた花嫁が、殺しが続けられている広場の真ん中で横たえている。
ヨルには、すでに立ち上がる気力すらなかった。

(もし神がお望みなら、私はこの罰をお受けします)

そっと目を閉じる。
思えば、今までの生活は人殺しには贅沢すぎるものだった。
心から愛してくれる弟。
偽装結婚ではあるが、スマートで気遣いもできる夫。
義理ではあるが、可愛らしく心優しい娘。
時には頼りになる癒しの愛犬。
絵に描いたような家族の一員として、幸せな生活を送ってきた。
しかし、その生活の下には数知れぬ死体が積み上がっていたのだ。
殺めてきた人たちにも、大切な家族がいたかも知れない。本当は自分が間違えた情報に踊らされていただけかも知れない。どんな理由であれ、人を殺すこと自体愚かな行為であることには変わりない。そもそも、そうやって「殺す」という制裁を加える事自体、自分の役目ではないはずなのだ。
裏では殺人の仮面を被って、表では何事もなかったかのように笑顔を繕って。家族を騙してきた。自分を欺いてきた。

(ああ、やっと大切なことに気付きました。私が幸せになることは許されないし、許されてはいけないのですね)

温かい涙が乾いた頬を伝う。

(なぜなら、たくさんの人を最もな理由をつけて、殺めてしまいましたから……)

頭の中を走馬灯がよぎる。
多くの思い出が溢れかえる。
前にもこんなことがありましたっけ?とぼんやり考えながらも、出てくるのは愛おしい家族の姿ばかり。

「姉さん、見てみて!テストで良い点数を取ったよ!」
「違うよ、姉さん。くもは昆虫じゃないんだよ」
「姉さん、ボク外務省に内定もらったよ!」
「分かりますか?そんな世界で1番大切な家族をポッと出の奴に奪い去られてしまった僕の気持ち」

(ユーリ。いつも私のことを大好きでいてくれてありがとう)

「アーニャ、つよくてかっこいいははすき!」
「アーニャ、かってにおそとでて、ごめんなさい」
「はは、ひっさつわざおしえろ!」
「ははー!」

(私の大切な大切な娘のアーニャさん。心から愛しています)

「誰かのために何かのために、過酷な仕事に耐え続けることは普通の覚悟では務まりません。誇るべきことです」
「これからもアーニャの母役でいてくれたら、嬉しいです。それとボクの妻役も」
「ヨルは十分頑張ってるよ。だからアーニャもこうして懐いてる。それ以上に助けてもらえることなんてないよ」

(ロイドさん。いつもこんな私を受け入れてくださって、ありがとうございます。感謝してもしきれません。ですが、謝らなければいけないことがあります。
私は偽装結婚の中で、禁忌を侵しました)

赤黒く染まったウエディングドレスには無数の足跡。
露出している肌にも数多の傷。
ヨルは痛みに慣れていたため、これらに耐えることは朝飯前だった。
だけど、ずっと心だけが痛い。
認めてしまったらもう戻れなくなってしまいそうで、でも認められずにはいられなくて――

(私は、人を殺してしまいました。それも数え切れないくらいの。そんな人殺しが、ロイドさんに恋愛感情を抱いてしまってごめんなさい)

殺された人が倒れ込んでこようとも、上から武器が飛んでこようとも、ヨルに避ける気はなかった。このままだといつか致命傷を負うだろう。だけど苦しみながらも、ここで生きるしかない。ここは、生き地獄のようなものだ。おそらく死んでも死にきれない世界。
でも、それでいい。
この世界に居続ける覚悟は既にできている。
どのくらい時間が経ったかは分からない。そもそもこの世界に時間という概念があるのかすら分からない。
雨のように降ってきた剣が急所に刺さる。ヨルはその強烈な痛みに耐えきれず呻き声を上げた。

♦︎

東国、バーリント

ヨルの居場所を突き止めることはできなかった。シッターの退勤時間が迫っていることもあり、一旦家に戻ることにしたが、ロイドが帰宅するやいなや、彼女からひたすら謝罪されたのだった。何があったのですか、と問いかけると、アーニャが夕方頃に突然姿を消したという。
机の上には、下手な字で書かれた置き手紙が。

『すぐにかえるます。しんぱいするな』

ロイドは頭を抱える。
夏休み中、家族で何かをする予定は特になかった。ヨルは仕事で忙しい上に、ロイドも新しい任務が追加されたこともあって、かなり忙しかった。自分は家族と、せめてアーニャとゆっくり過ごす時間を作るべきだったかと反省する。アーニャはきっと、家族と過ごせない寂しさを埋め合わせるために、家を飛び出してしまったのだと考えた。
シッターには、とりあえず今日のところは帰ってもらうことにし、アーニャを探しに行こうと玄関に向かった時、チャイムが鳴った。

「ピザのお届けピョン」

髭が生えた小太りの男から袋を受け取り、慌てて机の上で蓋を開ける。緊急の情報を伝える時の暗号だったからだ。箱の中には、小さなレコーダーが一つ。恐る恐る再生ボタンを押すと、ノイズの中に機械音声が流れた。

『ヨル・フォージャー、二度目の爆破阻止。一連の事件にKGBが関わっている可能性あり。このメッセージは五秒後に消滅する』

きっちり五秒後にポンッと爆発音が鳴り、レコーダーが故障した。全身の血が冷えわたる。ヨルが監禁されてしまった理由が明らかになり、ロイドはどっと汗を噴き出した。

(ヨルさんは、急襲したということか……本格的にまずい事態になってしまった)

敵の襲撃を妨害して、エージェントの身を危険にさらすのか、あるいは、襲撃を実行させ、死傷者が出ないよう万全を期すのか。もし、自分にその二つの選択肢があるとすれば、間違いなく後者を選ぶだろう。その戦術が功を奏した例が多くある。しかし、ヨルは前者を選んでしまったのだ。それに相手が悪すぎる。いくら強いヨルでも、KGBに対抗するのは不可能だと思った。

(もしかしたら、すでに、もう……)

ロイドは項垂れる。認めたくない事実に心が締め付けられ、心臓が張り裂けそうだった。

すると突然、バンッと大きな音を立てて、玄関のドアが開けられた。ユーリが、持ってきた荷物を乱雑に放り投げ、凄い勢いでこちらに迫ってくる。ロイドは、鍵を閉め忘れていたことを思い出し後悔した。このタイミングで、この男が来ることなど予想外の出来事だ。

「おい、姉さんはどこだ」

ユーリは血眼になって、ロイドの胸ぐらを掴む。ロイドは、ずっと無表情だった。

「お前、姉さんと結婚してるんだろ?姉さんの居場所もわかるはずだ。どこにいる?答えなければ、処刑してやる」

もともとワインレッドの瞳をもつユーリは、鬼のような形相をしていた。ロイドは、ふと、ユーリがKGBと協力関係にあるSSSに所属していることを思い出し、密かにスーツの後ろポケットに入っている盗聴器を作動させた。黄昏だと正体が明かされてしまった時の保険だ。

「ヨルがどこにいるかは分かりません。ですが、どうなっているかは分かっています」

「貴様っ何を知っている!」

「ヨルを助けたいですか?」

ロイドの挑発したような言い方にユーリは、手に一層力を込め、目を見開く。

「どういうことだ」

「ボクもヨルを助けたい。だが、ヨルを助けることは、東国の裏切り行為になるかも知れない」

「東国?そんなのどうでもいい」

ユーリの声が怒りのあまり掠れる。男は、姉に対する理性を持っていないのだ。

「姉さんがいるから、守る価値のある国だったんだ。姉さんがいなければ、東国も西国も世界中のどの国だって、無価値さ!」

「ヨルは、監禁された」

ユーリは、監禁という言葉がすぐに飲み込めなかったようで、かんきん、かんきん、と繰り返し唱える。

「それも、お前のところのお友達に」

やっと言葉の意味を理解したユーリは、へなへなとへたり込む。俯いているため、ユーリの表情は確認できないが、正気に戻ったようだった。

「……いつから知っていた」

「初めて会った日から」

「お前、黄昏だろ」

「……何の話です?ボクはしがない精神科医だ」

ロイドは、一人掛けのソファに静かに腰を下ろすと、ユーリも立ち上がって、力なくロイドの斜め前にある三人掛けのソファに座った。

「そっちで何も情報はないのか?」

「尋問や監禁なんて日常茶飯事だし、姉さんに関することはまだ何も」

ただ、と言ってユーリは少しためらいつつ、重々しく口を開いた。

「少将の部下が言ってた言葉が気になってる」

アメリカが、東国を攻撃して来るのは間違いない。ただ、時期がわからない。

ロイドは、ユーリから聞いた言葉を復唱する。頭の中で、いろんな声が飛び交い始めた。

『ソ連が軍縮を行わず、欧州の安全を脅かす恐れがある。アメリカの中距離ミサイルを我々は配備せざるを得ない』
『人類の自殺行為だ。ゆえに、米国に核軍拡競争の終止符を打つよう要求する』
『ソ連の指導部に理解を求める。この協定はソ連の利害にもかなうものだ』
『西国のコール首相は、ミサイル配備の計画を延期しない模様です。米国は世界の覇権を握るため世界を核の危機にさらしています』
『本日、西バーリントにて、爆破事件が起きました。少なくとも24kgのダイナマイトが使用され、スーダム通りのアパートで爆発――』

(そして、ヨルが阻止した二度目の爆破事件……か)

ロイドは、ユーリに尋問するかのごとく問いかける。

「それは、いつ、どこで聞いたんです?少将の部下というのは事実ですか?SSSの少将か?それともお友達の方か?」

「えっ、と……覚えていない」

ロイドの射るような視線に、ユーリはたじろぐ。ロイドは、今話さなければ、ヨルとは金輪際会わせてやらない、と脅すと、ユーリは卑怯だ!と叫び、最終的には「SSSから抜擢され、完遂した極秘任務」の情報を漏らしてしまった。ユーリには、銃をちらつかせるより、ヨルを引き出す方が効果的らしい。やはりこの男は、姉に対する理性を持っていないのだ。

西国西部連邦軍の基地に、中尉として潜入していたこと。
米国ロージャス将軍が持っている文書の情報を盗んだこと。
おそらく暗号化されているであろう極秘ディスクを盗み出したこと。

ユーリは、リークしたら貴様の命はないと思え、と言ったっきり、黙りこくってしまった。ユーリの話を聞きながら、ロイドは考え込む。

(SSSの少将はこの頃頻繁にバーリントの偵察総局へ赴き、KGBの諜報員と会っていると聞いたことがある。やはり……アメリカの先制攻撃を恐れたソ連が、コネリーに入れ知恵をしたとしか考えられん。問題は、誰がそれを指示したのか、だが……)

二人の間に重たい沈黙が流れるなか、けたたましく電話のベルが鳴った。

「はい、フォージャーです」

「こんにちは、あるいは、こんばんは。
今日はすっかり快晴だった。アーデル地方のおばあさんの家では十二枚の洗濯物がよく乾いたらしい。日が陰っているのにな。アップルパイが焼き上がったとさ。ベリージャムとバターはつけるか?」
(ヨル・フォージャーを発見。住所は――。地下一階にいる。アーニャ嬢はこちらで保護予定。人員と車はどうする?)

「いや、ジャムもバターも必要ない。ジュースだけ用意しておいてくれ。あと、PUGも忘れずに」
(人も車も間に合っている。“J”だけ手配しておいてください。あと、銃の使用許可をいただきたいです)

“J”というのは、WISEの所有する隠れ家の一つだ。緊急時にのみに利用される隠れ家であるため、専属の医者もいる。

「了解した」

必要事項だけ伝わると、電話を切られた。シルヴィアの声だった。暗号化されたメッセージであるが、ロイドには何を言っているのか全て理解できた。秘密警察の人間と行動を共にする可能性があるため、WISEを動かすのは控えたかった。アーニャが保護されることに安堵しつつ、新たにダイアルを回す。メモは処理してしまったが、番号は完全に暗記していた。

「フォージャーだ。そちらの人員と車を寄越してほしい。その車を運転できる人、一人だけでいい」

「かしこまりました。場所はどちらで?」

「十分後に、サンドラー広場で」

「すぐに手配しましょう。黒のノイエ・クラッセ、ナンバーはDJ88――」

電話を切ると、ようやくユーリに、ヨルが見つかったと報告する。ユーリは、俺も姉さんのところへ行くと意気込んだ。

「ユーリ君、本当にいいのか?」

「ああ、言っただろう。俺には、姉さんが全てなんだ。姉さんのためなら、国を裏切ることも怖くないさ」

男は、姉に対する理性を(以下略)

ロイドは念のため、「スーツケース」をもっていく。このコンパクトなスーツケースには、頑丈な粘着テープ三ロール、使い捨てのプラスチック製手錠一ダース、身長百八十センチの人間を放り込めるナイロンバッグ、黒いフード、ブルーと白のトラックスーツ、布製サンダル、下着二組、救急箱、耳栓、鎮静剤、注射器、消毒用アルコールが入っていた。ベテランのエージェントの間では、「テロリストの旅行キット」として知られている。サンドラー広場までは徒歩五分以上掛かるため、ロイドとユーリは急ぎ足でフォージャー家を後にした。

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東国、郊外

待ち合わせ場所には、すでに黒のノイエ・クラッセがサンドラー広場の時計台のそばに止まっていた。中には、すっきりと刈り上げられた白髪に、皺ひとつない黒のスーツ、セミオート型のメガネを掛けた中老の男が運転席に座っていた。ロイドは助手席に、ユーリは後部座席に座る。目的地を伝えると、男はすぐに車を走らせた。男の本名は、マシュー・マクマホン。自分のことを、マシューのニックネームである「マット」と呼ぶように言ったきり黙り込んだ。無論、「マット」以外の男の呼び名をユーリは知らない。しかし、ロイドはヨルが勤める市役所の部長だとすぐに分かった。が、あえて何も聞かないことにした。
マシューは、度々バックミラー、サイドミラーを探るような目で見る。すぐに気づいた。この男もプロの同業者であることに。

「マットさんは、運転席にいてください。十五分以内に戻ってきます」

ロイドはマシューにそう伝えると、ユーリに振り返った。

「ユーリ君、銃は?」

「ワルサーが、一挺。でも、残弾数が……」

ユーリが緊張した面持ちで答えると、マシューがグローブボックスを開けてください、と言った。そこには、ヘッケラー&コッホの9mm拳銃とサイレンサーがあった。

「助かります」とロイドが言いながら、それらをユーリに手渡す。ユーリは、中に弾丸が装填されていることを確認すると、ホルスターにおさめた。マシューは目的地から少し離れた場所に車を止めた。
ロイドは例のスーツケースを片手に、ユーリと車を降りる。音を立てないよう静かにドアを閉めると、ヨルが閉じ込められている建物へ向かった。雑草だらけの前庭に足を踏み入れる。スーツの内ポケットからピッキング用具を取り出し、十秒も掛からないうちに、玄関の鍵を開けることに成功した。ロイドの手際の良さに、ユーリはうたぐるような目を向ける。お前絶対黄昏だな、とでも言いたげな目をしていた。ロイドは、ホルスターからサイレンサー付きの9mm拳銃を取り出し、室内に侵入すると、ユーリもサイレンサーを付けた銃を手に、ロイドの後に続く。玄関は暗かったが、お互いの顔は確認できた。二階には人の気配を感じず、一階の奥の方から何人か男たちの話し声が聞こえ、ロイドは目配せで一階を頼むとユーリに指示をして二手に分かれた。
ロイドは、玄関の近くにある階段を音を立てずに降りる。白いドアの隙間から、わずかに光が漏れていた。スーツケースを隅において、もう一挺ある拳銃、刃物の位置を確かめたあと、ドアノブをゆっくりと回す。鍵はかかっていなかった。わずかに開けると、薄暗いうちっぱなしの通路の先に門番をしている男が一人。
素早くドアを開けて発砲すると、男は声を上げずに静かに倒れ込んだ。奥に進むと、もう一枚頑丈なスチールドアがあり、中にいる人の気配も音も探れなかった。

この先にヨルがいるのだろうか。ヨルは今、どんな姿になっているのか。そもそも生きているのか。何もかも分からなかった。

ロイドは生唾を飲みながら、ドアノブを回す。こちらも鍵は掛かっていないようだ。ドアを押し開けると、五人の男が一斉に振り返る。その中の一人は見たことがある顔だった。バインダーを片手に持ちながら固まっている。

(あれは、KGBエリート研究員のアダム・ニコチン)

ロイドは、二発で二人の男を仕留める。残りは間に合わず、アダムとの間合いを瞬く間に詰め、急所を二発蹴り込みながら、倒れたアダムの手を撃つ。こいつは生き残しておかなければならない。二時の方向と五時の方向から連射される銃弾を避けながら、視界の端に妻の姿が映り、目を見張った。

(……っ!?ヨル……!?)

下着姿で血を流し、ぐったりしているヨルに衝撃を受けた瞬間、左腕に銃弾が掠り、じわじわと血がスーツに滲み始める。

(理性を保て、黄昏!今はコイツらを片付けなければ!)

地下室には、武器となる道具も身を隠す場所も何もなかった。そのため、スチールドアを盾にしながら、ロイドも撃ち返すが、うまく反撃できずもたついてしまう。
十二時の方向から近づいてくる男と睨み合いながら、右手でホルスターから、もう一挺拳銃を取り出し、三時の方向に回り込んだ男を撃つ。十二時の方向にいる男が隙をみせた瞬間に、持っている拳銃を隅に放り投げ、素早く間合いを詰める。アッパー肘打ちで男の顔面を攻撃。そのまま相手の銃口を自分から外しながら、その手を固く包み、腕の急所を攻め落とす。そうして倒れ込んだ男からそのまま銃を奪い、男の額に発砲。全てが一瞬の出来事だった。

部屋に充満する汗と血の匂いに目眩を覚えながら、ロイドは、ヨルに駆け寄る。

「ヨル!ヨル!」

呼びかけても、肩を揺らしてもヨルに反応はなく、脈を確かめる。弱い脈ではあるが、確かに生きていた。

「はっ、生きてる……」

ロイドはヨルの拘束具を外すため、男たちの腰元を探る。はじめに仕留めた男が、鍵を所有していた。隅に飛ばした拳銃を全て回収すると、急いでヨルのもとに向かい、ヨルの左手、右手にある手枷を外してやる。彼女は力なくロイドの肩口にもたれかかった。
しかし、突然腰元を探られ、何だと思った時には、ヒュン、と風を切る音がした。ヨルがナイフホルダーから刃物を取り出し、それをロイドの後方へ投げ飛ばしたのだ。
振り返ると、銃をこちらに向けていた男の額に見事に突き刺さっていた。もちろん、ヨルに意識はない。ロイドは、彼女が今動いてくれなかったら自分は死んでいたのではないか、と思うと背筋が凍った。それと同時に、ヨルの本能的な戦闘意識に恐れ入った。

(クソッ、オレとしたことが、仕留め損ねていたか……。それにしても、さすがガーデンの一員。意識がなくとも敵の攻撃を察知するとは)

両足の足枷も素早く外してやり、自分のスーツとトラックスーツの上着でヨルを包み終えたところに、ユーリが駆けつけて来た。

「ああ!!姉さんっ!!!」

ヨルのぐったりとした姿をみたユーリが、金切り声を上げる。

「大丈夫だ。ヨルはまだ生きている」

姉が無事との報告を聞き、ユーリは目に涙を溜めながらも少し落ち着きを取り戻したようだった。

「ユーリ君、頼みがある。階段のところにあるスーツケースの道具を使って、あの片手を撃ち抜いている男を拘束してくれ」

ロイドはヨルを横抱きしているため、顎で男を指し示す。

「なっ、お前!姉さんを!」

早くしないとヨルの状態が悪化する、と鋭い視線でユーリを制すと、ユーリはクソッ、と一言こぼして、ロイドの言う通りに、鎮静剤を打ち軽く手当てした両手に手錠をしてから、粘着テープでぐるぐる巻きにしていったのだった。呼吸が止まる危険がないことを確かめてから、口と目にも仕上げのテープを巻き付ける。男をナイロンバッグに入れ、ファスナーを閉めると、ユーリはそれを肩に担ぎ、スーツケースを片手に、ロイドの後に続いた。十五分まで残り二分余裕を持たせて、車に戻った。
ナイロンバッグはトランクに押し込み、ユーリは助手席、ロイドとヨルは後部座席に乗る。
ユーリは、ヨルの現状を数分毎に聞きながらも、一階で収集してきた『新ゲロリマス』の容器と研究員の男が持っていた血塗られたバインダーをロイドに手渡す。容器の中身は空っぽだった。ロイドは、新薬が出ていたことに驚いたが、表には出さず「ありがとう」とだけ伝えた。

(あいつら、ヨルさんに新ゲロリマスの試用をしていたんだな)

ロイドは、作成途中の報告書をぐしゃりと握りしめ、剥き出しになりそうな怒りをぐっとこらえる。ヨルの制服も、ユーリが見つけ出し持ってきてくれていた。
ヨルの長い足は隠し切れておらず、剥き出しだったため、嫌でも目に入ってしまう。誰が見ても、暴行を受けたと分かってしまうぐらいの痛々しい姿。高熱も出しており、呼吸も脈も通常より早い。

(すまない、ヨルさん。もっと早くに気づいて助けるべきだった。こんな姿にしてしまうなんて……)

心の中で謝り続ける。

指定した場所に到着すると、ロイドとヨルは車を降りた。別れ際、マシューが声を絞り出しながら言う。

「仕事があれば、何なりとお申し付けください。必ず私どもが処理致します。フォージャーくんをこんな目にあわせた連中を生かしてはおきません」

額には青筋が走り、睨み殺しでもしそうな目つきをしていた。もちろん、隣にいるユーリも怒りを隠せない様子だ。

「お前にしか頼めないのは不愉快だが、姉さんのことをよろしく頼む」

ロイドは、マシューとユーリの言葉に無言で頷く。二人には、拘束した男の身柄を任せることにしていた。「明日、そっちに行く」とだけ伝えると、黒のノイエ・クラッセは夜の闇へと溶け込んでいった。

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