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山岡鉄次物語 父母編3-3

《 母の物語3》諏訪湖へ

☆珠恵の物語が続いてゆく。

両親を亡くした珠恵と兄姉は、親戚に別れて面倒を見て貰っていた。
東京に奉公にあがった長女のいえ子、養子に行った次兄の春芳、親戚の世話になる子供たちは、バラバラになって生きて行かなければならなかった。

次兄の春芳との再会は、ずっと後、珠恵が結婚してからになってしまう。
私、山岡鉄次はこの伯父には、学生時代にお世話になる。伯父に連れられて上野の東京文化会館で聴いたN響の音が懐かしい。

長女のいえ子ともなかなか会うことが叶わない。
いえ子の晩年は、養子に迎えた息子の嫁と反りが合わず、老人施設での生活を送ったようだ。
珠恵たち兄妹でいえ子の施設を訪ねたが、他に移った後で、養子の息子からも情報が得られず、いえ子と兄妹たちは再会出来なかった。

塩川の兄妹たちは時々会い、励まし合いながら生活していた。

しばらくしてから姉の清子は親戚の仲立ちで、志願して軍人になっていた中越正一のところに嫁ぐことになる。
新婚の住まいは所属部隊がある甲陽市の中心に近い街にかまえる。
数年後の昭和16年には、中越は南方の島へ出征していくことになる。

長男の勝義は塩川の実家で、従姉妹の八千代と所帯を持つことになるが、予備役で昭和17年には軍に再び召集されることになる。

珠恵は親戚に通わせてもらっていた尋常小学校を何とか卒業する事が出来た。

戦前の昭和の学校はどうだったのか。

明治19年に文部大臣森有礼により小学校令が公布され、尋常小学校と高等小学校が設置された。

珠恵の通っていた頃は尋常小学校が6年の義務教育、高等小学校が2年となっていた。

尋常小学校の教育内容は、1・2年生が、修身、国語、算術、唱歌、体操、3年以上は、図画、理科、裁縫(女子のみ)、国史、地理が順次加わった。2年生では国語が全時間の半分以上を占めた。

修身は、身を修めることを意味し、明治の教育勅語発布から、昭和20年の終戦まで教育が続いた。
重点教科に位置付けられていたが、終戦後、GHQは国史・地理と並んで修身を軍国主義教育とみなすと、授業を停止させた。
昭和25年、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが道徳である。

尋常小学校の卒業後は、高等小学校・高等女学校などに進学するか就職をした。昭和11年の統計では、旧制中等教育学校に進学する者は21%、進学しない者は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。

珠恵は進学どころではなかった。一方頼正も進学どころではなく奉公のための中退だった。

進学率は年々上昇し、太平洋戦争の頃にはほとんどが進学した。
進学と聞くと教育熱心なイメージを持たれるが、この話は現在の中学校への進学のことである。

この後、太平洋戦争が始まる昭和16年、国民学校令により初等科6年と高等科2年からなる国民学校が設置された。

終戦後の昭和22年には、学校教育法に基づいて初等科が新制小学校、高等科が新制中学校に変わり、義務教育の期間も6年から9年に延長される。

珠恵は尋常小学校を卒業してから、しばらくの間、親戚の家の手伝いをしていた。
2年が過ぎた頃、14歳になった珠恵は親戚のすすめに従い、長野県諏訪湖畔の製糸工場で働く事になった。

珠恵は親戚の叔母に伴われて、電車に乗り長野へ向かった。
珠恵は車窓からずっと外を眺めていた。郷里の山々が遠く過ぎ去って行くと、珠恵の目から涙が一粒落ちた。
長野に入ると、きらきらした湖面が見えて来る。
綺麗な眺めの諏訪湖が大きく広がっていた。

蚕の繭玉から生糸を紡ぐ工場では、珠恵は寄宿舎生活をしながら仕事の毎日を送る事になる。

諏訪湖畔の製糸工場で、珠恵は糸取り工女となるのだ。

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