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超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』・『岡崎猫』

十二月大歌舞伎 第一部 <白梅の芝居見物記>

 旅噂岡崎猫

 佐賀の鍋島、福岡の有馬と並び「日本三大化猫」の一つとされる岡崎の猫ですが、他の二つと違い、岡崎にそうした伝説があったわけではなく、一般的に岡崎の化猫はフィクションとされます。
 ただ、江戸時代の歌舞伎の系譜を引く作品は、巷間に伝わった伝説だけを扱っているわけではありません。必ず歴史的に重要な人物が描かれており、歌舞伎における岡崎の化猫も例外ではないと、私は考えます。
 その理由に関しての詳細は、別の機会に譲りますが‥

 黙阿弥系の「岡崎の猫」は尾上菊五郎家の家の芸として撰じられた「新古演劇十種の内」と銘打たれたこともあるようです。単なる、ケレンで評判を呼んだ当たり役というだけではない演し物と捉えるべき作品であることは、まず心にとめるべきと考えます。

 今回の上演は、大南北の『獨道中五十三驛』を三代目市川猿之助丈が復活上演したものをベースにしているかと思います。
 坂東やゑ亮丈が、おくらで奮闘し見せ場として成り立ってはいますが、作品として小芝居的受け狙いだけに終始しているまとめ方であるのは、私としてはかなり残念に感ずるところです。
 なぜなら、この場の重要な登場人物である老婆の描き方として、作者の意図するところから遠く離れるどころか、作品としてなにが大切かということがまるで見えなくなってしまっていると言えるからです。上演時間の長い作品をコンパクトにする作業は、その作品の芯となる意図がわかっていないと、趣向だけに終わってしまいかねません。今回の上演は、そうした残念な例であるように私には思われます。

 坂東巳之助丈のおさんも、老婆をただ面白く受け狙いで演じていればいいというわけではなく、役者の大きさで魅せるという次元にはまだかなり距離があります。頑張ってはいらっしゃいますが、大劇場で上演するには荷が重く、気の毒であるとさえ私には感じられました。 

 超歌舞伎と抱き合わせだから動きのある見せ場本位の芝居作りがよかろうということで済ませてしまったように、私には感じられます。
 「わからないけど、すごいかもしれない」そんな一幕を持ってきた方が、かえってよかったように私には思われましたが‥
 この一幕が、超歌舞伎ファンにとってそうしたものに匹敵するのであれば、それはそれでいいとは言えるかとは思います。
 可能性までは否定しないでおきましょう‥

 今昔饗宴千本桜

 まず、中村勘九郎丈、中村七之助丈が一座することで、かなり舞台に厚みが出て、見応えが増しました。
 また、2022年8月、演舞場にて初めて超歌舞伎を拝見しましたが、その時より、初音ミクさんを含め映像がさらに進化したように思われました。
 素人にはよくわからない部分が多いかとは思いますが、かなりNTTさんも力を入れられ、晴れの歌舞伎座舞台に挑まれたのかな、と推察いたします。

 超歌舞伎の第一章は終了とのことですが、第二章に期待が持てる、期待したいと思わせる可能性を、今回感じることが出来ました。
 期待したいのは大きく分けて二つあります。
 一つ目は、やはり芝居(演劇)としての進化をめざして欲しいということ。二つ目は、さらに映像を生かした芝居作りで魅せて欲しいということです。

 初音ミクさん(映像)との共演がまず前提となっていたからでしょうが、今後、超歌舞伎が進化していく上では、脚本として、もっと成熟させる必要性がかなりあるかと思います。
 超歌舞伎が生み出す舞台と客席の一体感を大切にする意味でも、「劇的」共感性は演劇空間において欠かせないものかと、私は思います。
 そういう点では、これからの大きな課題ではないでしょうか。

 今回、SNSに、神代から何故千年後に時代が飛ばなければならないのか‥という疑問の声が出ていました。神代を卑弥呼の時代あたりに設定しているからでしょうが‥。千年の時間を越える設定にしなければならない必然性も描ききれてはおらず‥。
 それにしても、青龍をこの世を闇に落とさんと企む悪に設定してしまったことは、かなり乱暴な扱いであったといえるのではないでしょうか。
 『義経千本桜』の時代の狐忠信にからませて、白虎と対比させるためでしょうが‥

 日本でも龍神というのは、かなり重要な位置をしめています。神社の手水場では龍があしらわれていることが多く、かなり馴染みが深い存在でもあります。
 青龍は東の霊獣として、西の白虎、南の朱雀、北の玄武とならんで、四方を司る四神の一つでもあります。

 今まで超歌舞伎では、やはり趣向本位で芝居作りがされてきているので、脚本としての進化を求めたく思います。
 ファンタジーとしての前提に立つとしても、やはり、例えばディズニーの作品群のように、その底辺に作品の歴史的背景に対するしっかりとした認識の上に立って、作品を作っていく姿勢が必要であると思います。
 ディズニーの世界は、世界の物語や童話を深い歴史認識を持って作りだしていると私は考えています。そうした意識が存在していないと、子供だましにもならずに終わってしまう危険性があるのではないか、と私は危惧してしまいます。

 もう一つは、脚本作りにも関連しますが、やはり映像技術を駆使した舞台作りにさらに磨きをかけていただけたらという期待です。
 今回、歌舞伎座の間口の広さを生かした美しい映像が、ことのほか印象に残りました。
 映像技術の進歩を取り入れることは魅力的で、大きな可能性があるのではないかと思います。
 新技術を使った新しい舞台空間が創造される‥
 遊び心がさらに技術を進化させる‥
 そうした相互作用を大いに期待したく思います。

 見所の一つに、小川夏幹くんの初お目見得がるかと思います。弟の登場にお兄ちゃんの自覚ゆえか、陽喜くんの舞台がさらにしっかりして見応え十分になっていたのは、微笑ましい限りです。
 また、超歌舞伎で実力と魅力を大きく開花させた澤村國矢丈の青龍が、さらに大きく存在感を発揮していたことが印象的でした。

 獅童丈の、場を盛り上げようとする熱量が大きく、宙乗りでは美玖姫の存在を忘れてしまう程でしたが‥。
 それが美玖姫ファンにどう映っていたのかはわかりませんが‥
 観客を煽るようにして、小屋自体を祝祭空間にするような、そうした歌舞伎が一つくらいあっても楽しいのではないか、と私自身は思います。
 
 客席の最前列で、ペンライトを力強く上下させながら、舞台と一体化してのりにのっている年配の着物姿の女性達の姿が目にとまり、微笑ましく眺めさせて頂きました。
 まだ、歌舞伎座の観客には馴染みが薄く、どのように楽しめばいいか迷っている方々も多くいらっしゃるかと思います。
 眉をひそめていらっしゃる方も、少なからずいるかもしれなせん。
 やはり、回りの雰囲気により、私自身まだ超歌舞伎を歌舞伎座で楽しめ切れたとはいえません。立ち上がったら回りの方に迷惑ではないかしら‥など気をつかってしまう部分が大きいのです‥

 ただ、一つの歌舞伎の在り方として、可能性を追求するということは、決して悪いことではないように思います。
 これからも、超歌舞伎を進化させて未知なる可能性を見せていただけたらと、楽しみにしております。
 獅童丈のご健闘に今後も期待したいと思います。
                        2023.12.8


 

 


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