分けることは不可能ではないのか②

 私はいわば数々の神秘体験をしていたものの、自称「霊能者」が出てくるテレビ番組はニセモノだと思っていた。なぜなら、その霊能者たちは「あそこにぼんやりと少女の霊が浮かんでいます」などと言うからだ。私の体験では、ぼんやりと見える「霊」などというものは一つもなかった。見えるときは、あとで絵に描けるほどに鮮明に見えていたからである。また、はっきり見えているからこそ、それが通常のものではないということにそのときは気づかなかった。あとになってようやく、自分が見たもの、自分に起きたことは、物理的にありえないものだとわかるのである。だから、見えているとき、その体験をしているとき、私に恐怖心など微塵もなかった。

 そして、私はこの現世界と霊的な世界が併存しているのかもしれないと、漠然と思うようになった。まだ、二十代前半だった。そして、昼には大学に行き、夜にはサンドイッチを数分で食べてから語学学校に通うという日々が続き、就職して安定した企業の社員になりたいという気持ちなどさらさらなく、ドイツの大学に籍を置きたいという気持ちばかりつのっていた。たぶん私は、他の若者よりは多くの本を読み、恋愛し、酒を飲んだ。しかし、自分の「神秘体験」を誰かに話すことはなかった。頭がおかしい人間だと見られたくなかったし、その体験には微妙なところが多々あったからだ。つまり、安易に話せば、たんなるオハナシになってしまうことを嫌ったのだ。

 ドイツの大学生になってベルリンに住み始めると、不思議な体験は消えた。しかし、二年ほどたち、あの『ブリキの太鼓』を書いたギュンター・グラス氏の家を見下ろす古い建物(Altbau 戦前の建物)に住んでいたとき、それが起きた。今度は、物理的にありえない現象だった。空から花の鉢が落ちてきたのである。

 外人局に行く用があって近くの教会の前を歩いていたときだった。鉢が落ちてきて、数メートル前で割れ散った。数秒してまた鉢が落ちてきて砕けた。花と土が散乱した。見上げると、あと二つの鉢が空に浮かんでいて、それもまた落ちて割れた。

 もっと落ちてくるのかもと思ったが、それだけで終わった。教会の隣の古い建物から落ちてきたのではないかと疑ったが、その建物はしんとしていたし、見上げたとき視界に入ったのは古い教会の尖塔の上に浮かぶ鉢だった。尖塔の高さはゆうに20メートルもあろうか。もし誰かが花の鉢を投げたとしても、そんな高さまでほぼ垂直に投げ上げることなど不可能だろう。

 私は立ちどまって呆然としていた。今起きたことは確かだった。石畳の舗道には茶色い鉢のかけらと花が散らばっている。私は空を見上げつつ、そこを立ち去った。その後、その場所を通るたび、周囲を注意深く観察した。どう考えても、空から降ってきたとしか考えられないロケーションだった。

③に続く。

 

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