ある諜報機関出身者の人生
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「OSS」ことOffice of Strategic Servicesは、1942年にルーズベルト大統領によって創設された諜報及び特殊工作の秘密機関である。
長官である「ワイルド・ビル」ことウィリアム・ドノバンによって集められた多くの若者たちは、OSSの工作員として訓練され、情報収集やレジスタンス支援、破壊活動、潜入工作などを行うためにヨーロッパ戦線や太平洋戦線に投入された。
OSSは第二次大戦後の45年に解散されたが、冷戦の危機感の高まりから47年に大統領直属の情報機関CIAとして改組される。後にCIA長官になるウィリアム・コルビーなど、OSS出身者は戦後アメリカの情報活動の中心を担ったと言うことも出来るだろう。
しかし、OSS出身者が活躍したのは諜報、情報活動だけではない。
OSS創設当初、一人の長身の女性がこの秘密諜報機関に参加する。
カリフォルニア州パサデナの裕福な家庭のお嬢様で、アメリカの名門女子大スミス大学を卒業した才女、ジュリア・キャロライン・マクウイリアムズという女性である。
彼女は戦争前はニューヨークの高級家具メーカー「W. & J. Sloane」の広告担当をしていた経歴もある職業婦人で、戦争勃発当時は地元に帰り、やはり広告やコピーライトの仕事をしていたが、愛国心から海軍に志願したのである。
しかし、当時との女性としては背が高い188cmもあった体のために、「制服も無いし、経歴から見ても有能だろう」ということで、まだ出来たばかりのOSS・ワシントン本部に派遣されたのである。
そこで秘密情報活動のリサーチ・アシスタントとなった彼女は、各工作員の所在地を記録する人員管理や海難救助特殊装備開発部門でサメよけツール研究などをしていたが、44年にスリランカ(セイロン)に派遣され、工作員との秘密通信業務などを行ったらしい。
そこで同じくOSS暗号班に属していたボストンの資産家の息子であるポール・チャイルドと出会う。
戦争終結後の46年に二人は結婚、彼は国務省の外交官となりパリなどに派遣された。
ここで問題が起こる。いや、問題と言うか、のろけ話かな(笑
夫に手料理を作ろうと考えたジュリアは、自分が料理など一度もしたことが無いことに気付く。なにせ、使用人のいる家族のお嬢さんで職業婦人、その上、スパイ組織でバリバリ働くという人生を歩んできたのだから。
加えて夫ポールは、家に専用コックを雇うほどのグルマンな一族出身。
そこで彼女は料理の勉強をはじめ、パリ赴任中は37歳という異例の生徒としてフランス料理の名門学校「ル・コルドン・ブルー」にも入学。その体験 と成果として、61年に「マスタリング・ジ・アート・オブ・フレンチクッキング」(Mastering the Art of French Cooking )という700ページを超えるレシピ本を出版することとなった。
彼女こそ、アメリカにおけるフランス料理普及に尽力し、多くの主婦、コック、料理ライターに影響を与えたと言われるアメリカTV料理番組の重鎮、ジュリア・チャイルドである。
彼女を前にすれば、あのマーサ・スチュアートだって、若輩に過ぎないだろう。
彼女はけっして器用で繊細な料理人ではなかったが、持ち前のバイタリティーと気さくで豪快な性格からアメリカの主婦層を中心に人気を保ち、62年の料理番組「フレンチ・シャフ」から90歳近い年齢となるまでTVの料理番組やレシピ本出版で活躍した。
彼女の最後のキメ台詞である「This is Julia Child. Bon appétit!」(ジュリア・チャイルドよ。食事を楽しんでね!)は有名。
多くの大物を輩出したOSSの出身者でも、彼女のその後の経歴は異例中の異例。
2004年10月、アメリカの家庭に「フランス料理を輸入した」と称された料理のテンターティナーは、92歳の誕生日直後に腎不全で死亡する。
秘密情報機関出身のアメリカきってのTV料理人、なんともユニークな人生である。
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