黒シャツの日本人 下位春吉

(試験的に前に書いた文章を公開)

下位春吉は明治十六年十月二十日、福岡県士族の井上喜久蔵の四男として福岡県朝倉郡で生まれた。

明治四十年、東京高等師範学校英語科に入学。この学費を捻出するために喜久蔵は東京に下僕として働きをしたらしい。同年、東京の下位嘉助の養子となり、井上から下位へと姓が変わる。

この辺りの経緯は良く分からないが、おそらく下位家の息女である富志(明治二十三年生まれ)との結婚による養子縁組で四年後には長女である桃代が生まれている。

 高等師範在学中の春吉は、巌谷小波や久留島武彦などによる「口演童話」の活動で知られた存在であった様だ。

巌谷小波が始めた「巡回口演」のお伽話会には、先生に引率された生徒たちが数多く参加する等、新しい教育運動という一面があり、多くの教師が関わっていた。春吉は「通俗講話も一の大きな教育である」とし、他校では「雄弁部」や「弁論部」が幅をきかせる中、より教育的な「講話部」の活動に力を注ぎ、友人である葛沢しげる(童謡作曲家・教育家)と共に師範学校卒業生在校生を中心とした口演研究グループ「大塚講話会」を発足させている。同会は師範学校の校長である嘉納治五郎の後援を受け、教育的な「口演」活動の中心として、昭和まで存続している。(同会の設立年を昭和四年や大正十四年としている研究書があったが、春吉自身の経歴や著作から考えても大正四年前後ではないかと思われる)

高等師範卒業後は女子中学や女子高等師範学校で教鞭を取るのだが、その合間をぬって東京外語大学伊太利語科に学んでいる。大正四年には、その語学力を買われた春吉は、イタリアのナポリにある国立東洋語学校(Istituto Orientale di Napoli、後のナポリ東洋語大学)の日本語教授として招かれる。本人は「赴任」と記しているので、政府からの要請された渡航であったのだろう。春吉は先にイタリアに赴任し、半年後に家族(妻子と義理の弟・英一氏)を呼び寄せている。

東洋語学校では教授(Prof.Shimoi)として、日本文芸を紹介するサークルを作り、翻訳にも力を注いでいる。狂言のイタリア語訳や与謝野鉄幹など日本の詩人の紹介、後年には日本文芸紹介雑誌「サクラ」を出版させ、イタリア人への日本文化伝達の推進役であったことは間違いない。

1914年(大正三年)七月にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発する。1917年十月には、優勢だったドイツ・オーストリア連合軍がカポレットで大攻勢をかけた為に、イタリア軍は壊滅的な被害を受け、戦線を大きく後退させてしまった。

春吉はこの翌年九月に義勇兵として、イタリア軍に従軍する。多くの学生が兵員不足の軍に入隊したことがキッカケではないだろうか。激情家の彼は周囲の人々が戦場に出て行くのに、自分だけが後方にいることが我慢ならなったのではないかと思う。

志願するに当たっては、司令官へ直接従軍を頼んだとある。春吉が所属したのはイタリア陸軍第三軍であることはほぼ間違いないため、この司令官とは国王ヴィットリオ・エマヌエル2世の従兄弟であるアオスタ公と推察される。戦争後もアオスタ公とは直接電話でやりとりをしているらしく、以前から何らかの付き合いがあったのだろう。

春吉の志願したのはアルディーティ(Arditi)と呼ばれる、オーストリア軍に対して近接戦闘を行う特殊な義勇兵で、戦後のファシスト運動の闘士を生み出すこととなる。

 春吉もアルディーティとして、このグラッパ峰攻防戦に参加している。大正14年に、再びこの地を訪れた春吉は、軍人墓地であった下士官に「日本人ならシモイという人物をご存知か」と尋ねられたと書いている。(前述・「大戦下のイタリア」)

グラッパ峰の攻防は激しかったが、何とか撃退に成功したイタリア軍は逆にドイツ・オーストリア軍への追撃を開始、春吉もモンテルロ丘の戦闘等に参加し、最終的にはイタリア軍の奪還の目標であったトレント(この時は第三軍を離れ、第二十九軍と一緒だったらしい)への進軍に同行している。

 春吉は1918年九月から十月をグラッパの塹壕で過ごし、十一月にはトレント奪還に参加している。約3ヶ月程度の従軍であったが、最前線部隊で兵士と共に生活したことは、決して小さな経験ではなかった。

戦功としてイタリア政府からは大戦十字勲章、コンメンダ勲章を授与され、1919年には、最前線でも記録をまとめたに「日本人の見たるイタリアの戦線」(確認は出来ていない)をイタリア語で出版、この本には総司令官ディアズ元帥も書を寄せ、外務省の推奨や官報にも名が載る栄誉を浴したのである。

「日本人下位春吉教授の書は、氏の抱懐する崇高なる至誠より見るも、又氏がわが国及びわが国の軍人に対すて寄する熱烈なる友情、徹底せる理解の流露より見るも、全伊国民の深き感謝に値ひするもの也。」―外務大臣の名で発表―(前述「大戦下のイタリア」より)

春吉は、単なる異邦人の語学教授から、「戦友」であり「最も親しいイタリアの友人」と認知されることとなる。

もう一つ、春吉がいた第三軍に詩人ガブリエレ・ダンヌンツィオがいたことも重要であろう。

船会社を経営する裕福家庭に生まれたダンヌンツィオは、「聖セバスチャンの殉教」や「死都」など作品で知られた詩人であり、フランス語やイタリア語を魔術師の如く操ると称された作風は、敵国であるオーストリアでさえも絶大な名声を誇っていた。

1897年には代議士として当選していた彼は、ニーチェの「超人思想」の実践者であり、「過酷な状況が人間を発展させる」という思想の元、イタリアの大戦への参戦を激しく主張していた。

彼は痩せて背が小さく、豪傑風の人物とは言えなかったが、その演説ぶりは他の追随を許さず、大衆扇動にかけてはその詩作同様に天才の域に達していたと言われている。

戦争勃発後は自ら従軍し、上層部が司令部での安全な職務に付かせようとするのも聞かず、擲弾兵(Granatieri)として最前線での戦闘に加わり、その結果、カルソ山の戦いで左眼を失ってしまう。

上層部もこれで懲りたろうと思っていたが、今度は航空部隊の将校として半ば強引に自らの部隊を編成。自分を老人扱いした上層部に当てつけた様に「悠々閑々隊」(Serenissima)と名づけ、敵の首都ウィーンへ嫌味なビラを撒く作戦をしたり、海軍に入ってMASボートで敵海軍基地を奇襲したりと冒険的な活躍を繰り返した。

どうやら、春吉はこの世界的な詩人と最前線で出会ったらしい。当時、イタリアでは戦友のことを「塹壕の友」と呼んでいるが、文字通りの意味で友情を得る事が出来たのだろう。

戦後、ダンヌンツィオは一詩人というよりも、イタリアの「英雄」として絶大な人気を持ち、ベネチアの彼の邸宅には限られた人物しか入れなかったが、春吉は友人として何度も訪れていた様だ。

そこでダンヌンツィオの飛行機による日本来訪が春吉から提案され、本人も乗り気となり、1919年の七月前後に先発隊としてフェラインとアティエルロの飛行将校二人を派遣、その後本人が飛び立つ予定であった。日本側では土井晩翠らが受け入れを行うこととされ、なんと新聞記者であったムッソリーニの参加も計画されていたらしい。

実際、フェラインとアティエルロは東京まで飛行し、ヨーロッパと日本の空路を最初に開くこととなるのだが、肝心のダンヌンツィオの訪日は出発の二日前に中止される。

それは第一次大戦の処理を行っていたベルサイユ会議において、イタリアの領土問題が暗礁に乗り上げたことに端を発する。

英仏の圧力により、領土問題で数々の譲歩を強いられたイタリア政府であるが、最後まで頑強に主張していたアドリア海東側の港町フィウメの併合が、アメリカ大統領ウィルソンの強硬な意見により拒否されてしまったのである。

フィウメはユーゴスラビア領内であるがイタリア系人間が多く住み、市議会ではイタリアへの併合を決議していた。しかし、戦略的に重要な地点であり、連合国の基地でもあるこの地をイタリアへ渡すことはなかったのである。イタリア国内では強硬派の「反英仏米」と「フィウメ併合」の集会が数々開催される。この時期から、国民の意識を束ねようとする意味合いでの「ファッショ」(束という意)に、独特の政治的な色彩が含まれてくる。

ダンヌンツィオはその年の三月にも領土問題で揉めたダルマツィア地方に手勢を率いた上陸作戦を計画していたが資金難で失敗、今度こそは列強各国とイタリア政府を敵に回す博打に打って出ることにした。

1919年九月十三日(春吉はそう言っているが、十一日としている史書もある)、ダンヌンツィオは仲間たちと深紅のフィアットのオープンカーで進軍を開始、政府を完全に無視したフィウメの占領作戦を実行し始めたのである。

日本への飛行計画の準備で日参していた春吉は、「フィーメ決死隊に入って一番乱暴な中隊で知られた黒紐隊の第一小隊第一分隊ダヌンチオ軍曹の率いる其一番初めの兵隊」(「ファッショ運動」民友社・大正14年)となったと述べている。

ダンヌンツィオは軍の不満分子や民間の義勇兵を加えながら、1000人ほどで国境警備のイタリア軍を強引に突破し、夜半にはフィウメに突入する。不意を付かれて浮き足立つ列強各国の守備隊を直ぐに駆逐し、フィウメは完全に支配してまうのである。

「イギリスなんか呑気なものでノソリノソリと逃げ出した、鷹揚な国民ですね。一番敏捷に逃げたのはアメリカでした。(中略)多少の抵抗を最後まで試みたのは、フランスの陸戦隊でした。そのために、彼等が入っていた共同倉庫では、無益な殺傷をせねばならなかった。」(前述「下位春吉氏 熱血熱涙の大演説」より)

英仏米は強烈な圧力を講和会議で加えてきたため、イタリア政府は陸海軍を使ってフィウメを包囲し、事態の収拾を図ろうとした。しかし、国民的人気のダンヌンツィオを敵に回し、国内強硬派が一触即発の状態では、下手な攻撃は出来ない。そこで政府は包囲を続ける持久戦を選択し、司令官にはバドリオ将軍(後のイタリア首相)を指名したのである。

一方、イタリア国内では、ロシア革命で勢いづく社会主義勢力に対抗するファッショが台頭し、フィウメ占領に対して温度差はあるものの支持(大部分は熱狂的でるが)を表明。ダンヌンツィオは、彼らを通じて政府に圧力をかけ始める。

そこで、軍隊に包囲されたフィウメとファッショ勢力をつなぐ役を担ったのが、春吉であった。東洋人である彼ならば、比較的楽に包囲をすり抜けることが可能であるからと判断と、義勇兵であったという経歴も信用されたのだろう。

しかし、元々強引な行動が長続きする訳もなく、1920年十二月三十一日、ついに降伏協定が成立。ダンヌンツィオはフュウメを去り、ガルダ河畔の別荘に隠遁することになる。この後もムッソリーニの対抗馬として、政治の舞台に上がりそうになるが、カリスマではあっても泥臭い政治に向かず、忠実な仲間のみと会うだけの日々を送った。春吉は忠実な友人と見なされていたらしく、隠遁後もダンヌンツィオと会っていたようである。

1922年、ムッソリーニがローマ進軍を行い、39歳の若さで総理大臣となり、世界から注目される人物となった。春吉はこの同年代の政治家とも、気兼ねなく付き合った様である。

ムッソリーニの新聞である「ポポロ・ディタリア」には、しばしば日本の政治の状況を記した社説が載ったが、こうした日本の知識は春吉のものであろう。

春吉は一度、大正14年に日本へ帰るが、ファシズムとムッソリーニを紹介する著作を幾冊か出版し、口演童話で鍛えた演説でフッァショ政治とイタリアへの理解を聴衆に繰り返した。内容ははっきり言って、イタリアの立場を主張したプロパガンダ的なものである。幾つかの著作には「伊国最高顧問 下位春吉」となっており、イタリア大使館との共同作業も多く行っている。

そのため、「フッショの直輸入商、イタリーの盲拝家」という批判も受けた様だが、彼のイタリアに対する姿勢が変わった様子はない。

その後も何度か、彼はイタリアを訪れている。昭和7年にはイタリアを訪れた松岡洋右に、ムッソリーニとの会見直前に会い、関係の地ならしをした形跡がある。

ご存知のように、その後「日独伊」は枢軸国として同盟するが、ムッソリーニはこの同盟をあっさり飲んだのだが、これは春吉の影響が多少はあったのではないだろうか。また、日本の中国問題に肯定的な態度を示したり、インドの独立主義者ボースを日本に逃がす圧力を加えたりと、イギリスとの関係悪化の一因には「日本贔屓」があったと言われている。

ムッソリーニは個人的には常に親日家であり、日本に対しては良いイメージを持っていたことは事実である。1928年には会津若松の白虎隊の話に感動した彼が、ローマ時代の柱を墓のある飯井盛山に寄贈するなどの例でも、それは分かる。

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