白球の行方をだれもしらない。

 中学校三年生の頃だった。


 夏休みに入っていたが、三年生のみ受験を見据えた夏期講習のために数日通学しなければならない日があった。夏休みだからと少しだけ髪の色が明るくなっている子を茶化したり、高校生のセンパイと付き合ってるらしいと噂の女の子に質問攻めしたりしながら、各々が校門へと歩いていく。


 校門の前には体育教師の権田原がいた。

 絵に描いたような熱血教師で、今では問題になるかもしれないが竹刀でアイノムチをすることもしばしば。恐怖の象徴だった。
 

 そんな権田原が校門に立っている。
 特に何をしたわけでもないが、その場にいる生徒たちは表情が強張る。


「おい!お前ら、バスに乗れ!!」



その場にいた生徒、全員が頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。


「うちの野球部が県大会に出場することが決まったんや!今日は地区予選の決勝やけん、みんなで応援行くぞ!」



 中体連の夏季大会に向けて、地区予選が行われていた。地区予選の上位二位の二校が県大会に駒を進めることができる。県大会で優勝すれば九州大会、更に進めば全国大会に出場できるのだ。


 たしかにおめでたいことだが、今日の夏期講習は応援のためになくなってもいいようなものだったのか?別の日程が組まれるのか?なんだか振り回されてるな……などと頭の堅いわたしは車窓から田園風景を見ながらどうにもならない思いを巡らせ、バスの小気味良い揺れに身体を預けて瞼を閉じた。



「なつみ!はよ降りんね!!」


 権田原の叫び声で目を覚ます。慌ててバスから飛び降りると、そこは球場だった。はじめて球場に入り、こころが躍った。

 野球には疎く、父が巨人ファンだということしか知識がない。あとは───



「西井も出とるけん、応援しちゃれよ」

 そう言って権田原は笑った。


 わたしは西井くんがすきだった。


 ゴルゴ13のような濃い顔の西井くんがすきだった、当時パソコン部だったわたしは西井くんの応援と称して部室のベランダから大声で叫んだり双眼鏡で見守るなどしていた。たまに部活中に部室を抜け出してグラウンドにもいた。マネージャーになりたいです!と野球部顧問に直談判したらパソコン部顧問にめちゃくちゃ怒られた。「あんた部長やろ!部活辞めたら他の子たちが可哀想やろ!」などとパソコン部の顧問は怒っていたけれど、運動部に入りたくなくて唯一の文化部であるパソコン部に仕方なく入ったわたしには知ったこっちゃない。部活中は野球部の、いや西井くんの応援に夢中だった。三年間をそうやってすごしてきた。



 そんなわたしの青春時代の初恋の想いびと、西井くんが試合に出る。


 西井くんはいつも補欠だった、ピッチャーを希望していたけれどあまり野球は上手くないらしいことをうっすら聞いていた。さらに県で一、二を争う名投手と呼ばれていた川谷くんが同じ野球部だったので試合に出ることはなかった。


 そんな西井くんが試合に出る。


 へぇ、すごい!と小さく歓喜した。西井くんをしっかり見守るためにいい場所取らなきゃ!!と席選びに躍起になっていると再び権田原が現れた。




「なつみ!おまえ、ウグイス嬢やれ!」





 え!!!!!!!!!!!!!!!




 青天の霹靂だった。

「お前、放送委員会やろ、こい」

 言い終わる前に権田原はわたしの手を引いて球場の中をズンズンとすすんでいく。


 そう、わたしは放送委員会にも属していた。

 朝の登校時に曲を流し、昼休憩で曲を流し、帰りの会で決まったセリフを読み上げる。ちょっとセクシーな放送を個人的に目指していた時期もあり、セクシーな放送は一部には人気を博した。三日で教師陣にやめろと怒られた。

 ウグイス嬢は当日にこうやって決めるのか!わたしは野球が分からないことを必死に訴えるが、権田原は取り合ってくれない。「俺がこう読めって横で言うてやるけん、大丈夫や」

 いや、権田原がずっと隣にいるのは大丈夫ではない。圧がすごい。ゆりやん!


 有無を言わさず放送器具の整った半分地下のようなところに連れ込まれる。放送席の前には窓があり、グラウンドに半分埋まっていた。キャッチャーの真後ろに当たる場所だった。


「はい、これ読んで」


 選手たちの登板表を渡された。そこには「投手 西井」の文字があった。



 西井くんがピッチャーで試合に出るんだ!!!!!



 嬉しくて声に出してしまった。


「まあこの試合は消化試合やけんね、川谷はこれから大事な試合があるから西井でいいやってことよ。じゃなきゃ西井にピッチャーなんてさせんだろ」



 知らないおじさんはそういうと、鼻で笑った。権田原はおじさんの言葉をうまく飲み込めずカチコチに固まっているわたしにばつが悪そうに一瞥をくれ、そのおじさんに深々と頭を下げる。どうやら相手校のベテラン監督らしい。

 おじさんは続ける。

「大事な川谷の肩が壊れたら困るけん、はよ終わらしましょや!西井は最後まで投げきらんでしょ?どうせ川谷が出ることになるっちゃけん、さっさしましょや!」


 顔が怒りの感情でふつふつと熱くなる。

 すきなひとだから、というだけではない。

 本人のいない場所でひとを貶すなんて、しかもこのひとはわたしよりもずっと大人だ。そんなクソ野郎に権田原はヘコヘコしている、なんなんだこの空間は。気分が悪い!



 怒りにわなわな震えていると、アナウンスを促された。打順、守備位置、名前にくんをつける、背番号を順に読み上げるように教えられる。


 わたしは西井くんの名前を、だれよりもあなたを応援しています。の気持ちを込めて読み上げた。




 試合は大敗だった。


 西井くんの投げるボールは次々に打たれた。



 ボールが打たれる度、西井くんはその白球の行方を追った。



 打たれる回数が十を超えると、西井くんは己を超えていく白球を追うことをやめた。



 放送室内で下卑た笑いをする相手校の監督はこれでもかと西井くんを罵った。弱い、下手、なにやっとるんやー!などと延々と罵り続けた。わたしは耐えた、権田原がわたしの目をみて「抑えろ」とアイコンタクトしていたからだ。

 とうとう川谷くんと交代する場面となった時に相手校の監督はそれ見た事か!と大笑いした。耳をつんざくような馬鹿でかいうるさい下品な笑い声だ。我慢できなかった。



「すいません。さっきからうるさかとですけど」


 わたしは睨みつけながらそう言った。権田原は慌ててわたしの頭をぐいと下げさせる。


「ばかたれ!!すみません、すみません!!私からよく言って聞かせますので!!」


 権田原に後頭部を押さえつけられながら頭を下げさせられている時、ひたすら地面を睨んだ。嫌いだ嫌いだ、こんな大人嫌いだ。




だいっきらいだ。





 帰路、田園風景は何も変わらなかった。

 わたしが何も変わらない皮の中で、ふつふつとたぎる想いを抱えているなんて車内のひとたちはだれも知る由はなかった。

 知らなくてよかった。


 小気味良い揺れに身体だけを預けて、わたしはこころを球場に落として帰っていった。



 白球の行方はだれも知らない。



 知らなくてよかった。



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