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天草騒動 「4. 南蛮寺を建立し仏法を弘める事」

 やがて信長公は、宇留岩破天連を召されて、「その方の望みのごとく仏法を広めよ。」と、菅谷九右衛門を通じてお命じになった。宇留岩も通訳を通してお礼を申し上げた。

 菅谷九右衛門を普請奉行とし、京都四条坊に四町四方の土地を賜り、北山から大木大石を引いてきて、金銀をたくさん費やして寺の造営が始まった。築地、石垣その他に贅をつくし、金銀をちりばめ、やがて七堂伽藍に至るまで残らず完成した。寺の名前は、年号に因んで永禄寺と名付けられた。

 宇留岩破天連は、「してやったり」と心の中で喜び、持ってきた金銀を使って善美を尽くして、寺を言葉では言えないほど美しく光り輝かせた。

 ところが、当時、年号は天子の名付けたものであるから延暦寺の他は寺号として用いてはいけないことになっており、永禄寺という寺ができたことを聞いて比叡山の衆徒らが大いに怒り、そのことを延暦寺の座主の明円大僧正に訴えた。

 大僧正は、「先例では、年号を寺号とするのは当山だけである。しかし、そうは言っても末世に至って王法は薄れ法力もやや衰え、仏も社も共に強くはない。信長は今武威が盛んだから、もしも永禄寺という名に当山が異を唱えれば、きっと信長が怒って争いのもとになり、かえって当山の滅亡を招くことにもなろう。」と人々をなだめた。

 しかし、衆徒は座主の下知に従わず、荒法師どもがただちに文殊楼に駆け登って梵鐘を打ち鳴らし始めた。寺内の人々はこれを聞いて何事が起こったのかと大講堂に馳せ集まり、事情を聞いてあれこれと評議を始めた。

 その中でも横川智正院大阿闍梨だいあじゃりは名を教学といい、叡山中にその名が鳴り響いた悪僧であった。そのうえ碩学でも通っていたので、衆徒らに向かって言った。

 「そもそも当山は人皇五十代桓武天皇が皇城の鬼門を守護するために建立された寺であるから、年号をもって寺号とするのは当山の他に無い。また、五十一代平城天皇の御宇大同年中に、大和国片岡山に御建立された寺に大同寺という額を掲げたのを当山が打ち壊した先例もある。いかに信長が今武威を振るうといっても定法を破る法は無い。」

 これを聞いて、血気の荒法師たちは、もっともであると評議一決して、それではこれを朝廷に訴えようということになった。

 衆徒らが大勢、衣の下に鎧を着込んで凛々しい出で立ちで参内し、評議の結果を朝廷に願い立て、「もしもこの願いが叶わなければ天子をお恨み申す。」と言って、帰って行った。

 山に残った衆徒らは、大勢で山王七社の神輿を内裏へかつぎ込む支度をして待っていた。往古より山門の衆徒らが神輿を内裏にかつぎ込んで乱入することがたびたびあったのである。

 さて、山門の訴えを受けて公卿や大臣は対応を評議した。そして、「このことを放っておくと山門の衆徒らがどんなことをしでかすか予想できない。ことによっては京中の騒動にもなろう。内裏に騒動を起こしては恐れ多い。」ということで、安土に勅使を立てて、このたび建立した寺に永禄寺の号をつけるのはやめるようにとおおせつかわされた。

 信長は山門の訴えを憎んだけれども、勅諚ではいたしかたなく、かしこまって勅使を饗応し、永禄寺を南蛮寺と改めた。これによって、山門は望みがかなえられたと言って、騒動はようやく鎮まった。

 南蛮国では、このような大がかりな計画を立てたからには金銀を費やさなければ事は成就すまいと考え、大王が、「南蛮に属する五ヶ国からこのたびの経費を集めよ。」との下知を下した。

 また、日本の動静を宇留岩うるがんが連絡してきたので、大王はまず普留満ふるまん破天連を呼び出して、

「宇留岩が、日本での計画が極めて順調に進んでいると連絡してきた。よって、汝は日本へ渡り、宇留岩と心を合わせ、謀計を施し、日本人を惑わし、よろしく功を立てよ。金銀を惜しむ必要は無い。その用意はしておいた。」と、申し渡した。

 普留満は、
「委細かしこまりましたが、この計画はたやすくは成功しません。それについて考えがございます。この都から南に日越にちえつというところがあります。その山中に不思議な名医がいます。天竺で医道の奥義を修得したので有名です。

 一人は計理悟里伊留岩けいりごりいるがんといい、もう一人は弥理伊須伊留岩やりいすいるがんといいます。どちらも切支丹の宗法を学んでいます(原注:破天連とは教導師という意味らしく、伊留岩とは弟子という意味であるらしい)。この両人を日本へ渡らせ、難病を救って法力と称し、愚民の心を惑わせば、お望みは成就するでしょう。」と、申し上げた。

 それを聞いて大王はおおいにお喜びになり、さっそく使者を遣わしてその両人を呼び寄せた。

 両人とも召しに応じて南蛮国に来たので、大王は、

「このたびその方達両人を日本に遣わし、かの国で法を行い、日本人を惑わしてかの国を幕下におさめようと思う。先に、宇留岩という者を日本に渡しておいた。その方どもは宇留岩と心を合わせて計画を執り行ってほしい。」と、お頼みになった。

 両人が承知したので、さまざまな宝物を賜り、また、貢ぎ物を持たせて、普留満と一緒にはるばる日本に渡らせた。

 両人は宇留岩からの指図があったので、まず肥前長崎に着船し、そこから壱岐国に着船した。

 壱岐の領主、そう対馬守義重が怪しんで、多くの兵船を出して船中をあらためたが、通訳が言うには、「織田信長公のお召しによって南蛮国から渡って来た者です。」ということだったので、「それならば強いて検査するにもおよぶまい」と、そのままにしておいた。この頃は信長の勢威が強かったので、信長を恐れて彼らを通したのである。

 異人はそこから若狭国に船を廻し、小浜の港から上陸して京都に到着し、南蛮寺に来て宇留岩と対面した。普留満は計理悟里と弥理伊須の両人を宇留岩に引き合わせ、四五日休息がてらいろいろと相談をめぐらし、それから、来着の旨を安土に申し上げた。

 信長公が対面をお許しになったので、皆で安土に来て直ちに御殿に召された。

   貢物目録
 一.瑠璃るりの鉢 十枚
 一.二丈四方の革 一枚
 一.瑪瑙めのうの机 一脚
 一.五色の羅錦らきん 五十巻
 一.薬種 三十品
 
 このようなものを御前に並べ、長谷川某がこれを披露した。

 信長公は上段の間に着座し、その他の諸将はその前に列座していた。普留満の身の丈は八尺あまり、顔の色は鼠色で、髪は黄色だった。計理悟里と弥理伊須の両人も同様の大男で、衣服は以前の宇留岩と同じであった。

 対面が済んで、「望みどおりに汝らの法を広めるように」とのお言葉をいただいて南蛮寺に帰った。

 ここにおいて四人の異人はさまざまに相談し、
「今、日本国は仏法が盛んだから、尋常のことではわれわれの法をひろめることはできまい。希有の法を執り行って見せねば帰服しそうにない。まず医術を使って諸人を助け、貧民を救おう。」と申し合わせた。

 安土に、「このたび広めようと思っている切支丹宗門は、来世は言うに及ばず、現世で貧民を救い、病苦を助けることを宗旨の中心としているので、薬種を植える土地を拝領したい。」と願い出たところ、信長公はもっともなことと思し召し、「山城、近江の地で適当なところを選べ」とおおせになった。

 そこで近江の伊吹山に五十町四方を拝領し、薬草園を拓き、薬木・薬草を本国から取り寄せて三四十種類を植えた。二年の間に薬種がたくさんになり、多くの病人を救うことができた。その薬種のうちで今に残っているのが伊吹山のもぐさというものである。

 このように異人は外科を得意としていて、その治療を受けると不思議と速やかになおるのであった。

 南蛮寺には本尊が無く、ただ四方に瓔珞ようらくを提げ、錦の幡天蓋はたてんがいを立ててあり、名香を燻いていた。その香が門前まで薫って、往来の者がそれを嗅いで尊く思い、寺内に入って見れば たいまいの障子、水晶のみす、その他見馴れない珍しい品々が寺の中に満ち溢れ、浄土とはこのようなものかと思われ、洛中洛外その噂でもちきりになった。毎日人々が集まって尋常でないありさまだった。やがて遠国の人々まで伝え聞いて上洛して来たほどだった。

 寺内に本尊が見あたらないので、本尊はどこかと尋ねた人があったが、宗門に入らなければ拝むことはできないとのことであった。

 宇留満破天連はいろいろな場所に人を出し、橋の下や河原などに臥している乞食や世間から見捨てられた難病の者を寺に連れてきて、普留満らに病状を見せてそれぞれに治療し、手早く全快させた。

 また、いたって貧しい者には金銀を恵み、無宿者等は寺で養い、よい衣服を与えたり風呂にいれたりしてやった。昨日までは破れたものをまとい菰をかぶっていた者も、現在では殿上人にでもなったような心地がして、これ以上ない喜びようであった。

 そのほか、盲人や腰の抜けた者を治し、三度の食事もうまいものをあたえたので、餓鬼のように痩せた者もたちまち肉付きがよくなってたいへんな喜びようであった。

 健康な者もこれを見て羨んだということである。


→  島左近難病をわずらう事

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