「花街の剣の舞姫」第十話

 空を自由に飛び回る鳥が憧れでございました。

 母はしがない商家の末娘。気が弱く、器量の悪い娘でございましたが、顔だけは良かった母を見初めた父が娶り、それなりの貴族の第五夫人となりました。
 第一夫人と第三夫人には子がおらず、第二夫人には息子が三人、第四夫人には息子が二人おりまして、わたくしは末の姫として生まれ、大層可愛がられて育てられました。可愛がるとは言ったものの、着るものは侍女たちが選りすぐり、好みの味も好きな料理も決めつけられ、習い事はお習字、お琴、お裁縫と、どこに出しても恥ずかしくない姫として礼儀礼節を躾けられておりました。

 気が弱い母でございましたので、第一夫人と第三夫人によくいびられておりました。可哀そうとは思いつつも、わたくしが口を出せばさらに虐めが激しくなるのでいつも隠れて見ていることしかできませんでした。

 朝廷ではそれなりに高官の父に連れられて、朝賀の挨拶へ兄上様たちと訪れた際――父の考えていることがようやくわかりました。
 後宮に召し上げられたのです。王の妃となるべく、わたくしは育てられました。
 九嬪の末席として入宮し、それなりに主上が夜渡りへいらっしゃいました。得意のお琴を奏でたり、食事を共にするだけの時もあれば、夜を共にすることもありました。
 主上は氷のように冴えた美貌をしておりますが、接してみれば優しく、気配りのできる男性でございました。いつしか六夫人に空きができ、九嬪の末席であったわたくしが六夫人の位を頂戴いたしましたのでございます。
 決められた恋、定められた愛をささやかながらも育んでおりました。

 わたくしにとって、転機が訪れたのは雨続きの中、晴れ間が覗いたあの日でございます。
 雨が続くと気も滅入ってしまいます。せっかくの天気ですから、外へ散歩に出かけました。けれど晴れ間も一瞬で、花園の散策途中で雨に降られたのです。雨粒を払いながら東屋に駆け込んで、侍女が急いで傘を取りに戻った後ろ姿を眺めながら、ぼうっとしておりました。

『おひとりですか? 随分と顔色が悪い。体も冷え切っているでしょう』

 蒼い官服に身を包んだ、主上とはまた別に顔の整った人でございました。射干玉の髪を雨で濡らし、頬に張り付いた髪を払いながら、わたくしのことを心配してくださる御方。誰だかすぐにわかりました。侍女たちが熱を上げている、主上の次期側近と名高い蒼桃真様。
 懐から取り出した手巾で、濡れた頬を押さえてくれる麗しい美貌の人。
 顔が熱くなるのを感じながら、されるがままに口を噤んでしまいます。

『侍女や付き人はどうされたのですか? 僕で宜しければ、棟までお送りいたしますよ。東南区画までそう遠くもありません。狭い傘で申し訳ありませんが、どうぞ、相傘をしていきましょう』

 肩が触れ合うと、蒼様の体温を感じて心臓が大きく高鳴りました。抑えきれない感情があふれ出て、喉から嗚咽がこぼれていきます。困らせてしまっている自覚はありました。けれど、こぼれ溢れる涙を抑えることなんてできなかったのです。
 右も、左も、敵だらけ。父の元から離れ、少しは楽に呼吸ができるかと思えば、父の息のかかった侍女たちが目を光らせ、背筋を緩ませることもできません。たったひとりの時間だったけれど、それが余計に息を詰まらせました。

『大丈夫ですよ。今は僕しかいません。雨がすべてを流してくれるでしょう』

 後宮に来て初めて、裏表のない優しさに触れたと感じました。侍女が来るまで、そっと側に寄り添ってくださり、わたくしの心はころりと転がり落ちてしまったのです。

 主上に伴って後宮を訪れることもあれば、ひとりで花園を散策している蒼様。初めは遠くから見つめているだけでだったけれど、いつしか溢れた感情のままに声をかけ、触れ合いたいと思ってしまうようになったのです。
 それでも我慢できたのは、蒼様がすべからく平等であったからにございます。
 けれど、あの日――花街から剣の舞姫がやってきてから、蒼様は変わられてしまった。舞姫に、桃花様に贈り物をしては足繁く彼女の元へ通い、見たこともない満開の笑みを花開かせるのです。
 言葉を交わすだけで、同じ空間にいるだけでよかったのに、彼女ばかり贔屓されているのを見てしまっては、平穏を保っていた心が憎悪の炎に焼かれ、羨ましく、妬ましく、嵐に荒れ狂いました。

 あの時のわたくしは平常ではなかったと言っても過言ではありません。いいえ、これは言い訳でございます。父の戯言に耳を傾け、兇者を手引きする手助けをしてしまいました。裏門の、小さな扉の栓を抜き、桜妃様の侍女を買収して香炉を置かせました。
 出世に、野心を抑えきれなかった父は、投獄されることでしょう。死罪にならなかっただけ、幸というものです。

 不思議と、心は晴れやかでございました。桃花様への醜い嫉妬がなくなったかと言われれば嘘になりますが、蒼様にとって、わたくしはそこらへんの雑草と一緒なのだと実感してしまったのです。だって、あんなにも桃花様のことを恋しいと、愛おしいという目で見ているのを見てしまえば、諦めがつくというものでございます。
 父は十年の求刑とされ、投獄されます。わたくしは目をかけられ。お咎めなしで後宮を去ります。

「挨拶くらい、していくものかと思っておりましたのに」
「葵妃様」
「御機嫌よう。門出にぴったりのよいお天気ね。まったく、貴女ってばもう少し役に立ってくださるかと思っていたのに、わたしの買いかぶりだったのかしら」

 夜の闇を垂らした黒髪を広げ、艶やかな紅色の姫君は扇で口元を隠しながらひとり佇んでおられます。侍女も連れず、出不精の彼女にしては珍しいと目を瞬かせれば、不満そうに鼻で笑われてしまいました。

「せっかく、舞姫さんが手に入ると思ったのに、残念だわぁ。貴女、厄介に引っ掻き回してしまうんだもの……。まぁ、貴女ひとりいなくなったところで後宮は変わり映えなんてしないのだけれど」

 台無しだわ、と憤る彼女に息が詰まります。わたくしひとりの力では、門の栓を抜くことも、桜妃様の侍女を買収することもできなかったでしょう。
 深い紅色の裳を翻して、踵を返した彼女は「お気を付けていってらっしゃいな。ご健勝をお祈りしているわ。さようなら」と告げて去っていきます。遠くなる背中を見つめながら、止めていた息を吐き出しました。
 主上が、蒼様がこのことに気づくかどうかわかりません。葵妃様はお上手な御方でございますから。

「さぁ、行きましょう。これから忙しくなりますわ」

 空を、高く遠い空を鳥が飛んでいます。羽を大きく広げて、自由に空を飛ぶ鳥がわたくしは羨ましかったのです。

 * * *

「桜妃殺害未遂で十年の実刑とは、少々軽すぎるのではありませんか?」
「殺人未遂の求刑の相場は七年以下だ。桜妃に手をかけようとしたとして十年にしたのだ。あれでも一応、碧家の傍系、下手に長引かせれば上申状が届くだろう。むしろ十年で留めたのだから、感謝されてもおかしくはなかろう」
「……はぁ、そうですか。近々、碧家から謝罪の品でも届くんじゃないですか」

 くつくつと喉を震わせて低く笑う桜に、相手をするのが面倒になった桃真は手元の紙に視線を落とした。
 世羅姫――もとい彼女の父である中書省の官吏・草悦然ソウエツネンは出世欲に溢れているのを除けば、とても良い能吏であった。頭も良く回り、中書省の侍郎に推されているくらいだったのに、非常に残念なことだ。
 紙面には草悦然の経歴や系譜が事細かく書かれており、女癖と酒癖が悪く、過去に何度かいざこざを起こしていたらしい。それでいて、仕事の面ではやり手の官吏であり、なぜ今回桜妃暗殺を企てたのか疑問である。
 懲罰房に入れられた草悦然はだんまりを決め込んで、頑なに口を割ろうとしない。六夫人である娘の世羅姫を四妃のひとりに据え、権力を強めたかったと述べているが、それが真実すべてだとは考えづらかった。

 事件はたった三日で片が付いた。
 世羅姫に買収され、宮内に香炉を置いた桜妃の侍女が自白したのだ。罪悪感に苛まれ、夜も眠れず、目の下の黒い隈を白粉で隠した侍女は、身の内に抱えきれず耐えられなくなり泣きながら桜妃に告白をした。
 世羅姫に指示をされてやったことだ、と。
 そこからは芋づる式に父親の草悦然が引きずり出され、近く兇者と思われる男と接触していたことも裏付けが取れた。
 兇者の男は、街の外れで死んでいるのが発見されている。顔は悦然に確認済みであり、死因は出血多量だが、その犯人はいまだ見つかっていない。

「草官吏ともあろう人が、何を事急いたんでしょうね」
「さぁな。しかし、よかったじゃないか。愛しの舞姫殿とひとつ屋根の下だったんだ。少しくらい進んだんだろう?」
「……たった三日で何が進むというんだろうね!」

 その声は珍しく不貞腐れていた。
 進むかと、桃真だって思っていたさ。けれど思いのほか桃花が奥手で初心で、いけないことをしているような気持に駆られるのだ。進むなら、一歩どころか二歩三歩とどんどん進みたい。
 熱に浮かされた蒼い瞳を見ていると、かき抱いて唇を合わせ、しなやかな肢体に手を滑らせたいと劣情に乱される。

 あの蒼桃真が、ここまで気持ちを乱されているのを見ているのはとても面白い。所詮他人事だから娯楽感覚、野次馬根性である。神と等しく貴い王は俗世に興味津々だった。
 そういえば、後宮の花たちで事足りるので花街に足を向けたことがなかったなぁ、と今度桃真を伴て訪れる計画を頭の隅で立てた。

 舞姫にご執心なのは何も桃真だけではない。武闘会で、花見の席で舞姫の美しく可憐な舞を目にした一部の若い官吏や武官たちが密かに思い馳せているのは巷の噂である。妻子がいる者まで虜になっているのは少々厄介だが、それだけの魅力が舞姫にはあったのだ。
 なにより、深い海を映した蒼い瞳が目に焼き付いて離れない。――けれど、古い狐狸たちは知っているだろう。狂わせの蒼い天女の話を。

「紅家の隠し子らしいじゃないか」
「……どこからその話を」
「お前がコソコソと調べていることなどお見通しだ。どこまでわかっている? 紅家当主に蒼目の妻がいたことは?」

 にやにやと人の悪い笑みを浮かべる鳳黎に苦虫を噛み潰した。
 ユウはすでに紅家から撤退させたため、情報は行き詰っていた。きっとこの男は自分以上に情報を持っているのだろう。本当に、嫌気が差す。いつもいつも、何をするにしても人より上を行くのだ、この男は。

「知ってる、当主殿は随分とご執心だったらしいじゃないか。……すでに亡くなっているらしいがね」
「そう。今のお前みたいに、蒼目の女人にご執心だったんだ」
「……あの男と一緒にしないでもらいたい」
「――ところで、天女の話は知っているか?」

 人の話を聞いているのかいないのか。
 話を区切った鳳黎に「御伽噺の? それとも楽曲の?」と尋ねた。

「どっちもだ。寝物語の天女と、舞姫殿が舞った悲花天女物語の天女は同一である」
「はぁ、なるほど」
「このふたつの元になった天女物語そ掘り下げると、とある文献に辿り着くんだ。天女とはこのよのものとは思えぬ美しい相貌をしている。白い花の面に、黒い絹の髪、紅要らずの唇――そして総じて、蒼い目をしているそうだ」

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
 鳳黎が上げた容姿と、桃花の容姿がぴったりと当てはまった。

「紅家の蒼目の女人は不可思議な術を使ったそうだ。吐息は花を咲かせ、涙は傷を癒した」
「桃花が、天女だと?」
「もしかしたらの話だ。しかし、もしそれが本当なら諍いの原因となるだろうな」
「――関係ないさ、そんなこと」

 敬語の外れた桃真に目を眇める。
 あくまでも仮定の話。しかし限りなく事実に近い話だ。

「関係ない。彼女が天女だろうとなかろうと、僕が桃花のことを想っているのに違いはないのだから。ねぇ、鳳黎、僕は桃花を絶対に手に入れるよ」

 あのふわふわお坊ちゃんとは思えない、意志の強さに笑いが堪えきれなかった。これ以上は野暮だってわけだ。
 来るもの拒まず去るもの追わずだったあの桃真が、ひとりの少女に熱中しているだなんてこれ以上ない面白い話だ。ここにもうひとりの悪友がいたなら、酒の肴に困らなかっただろう。

 桃花を文字通り手に入れるのなら、蒼家の力くぉ使えばすぐだ。彼女の雇先である光雅楼に金を積めばいいだけなのだから。
 花を売らず、芸を売る彼女は光雅楼にとって重宝する存在だろう。現に、最高級遊女と夜を共にするために必要な金を、七日に一度の舞台で稼ぐというじゃないか。
 本人に身請けされる気もなく、店側も簡単に手放すとは思えない。口だけはうまい男だから、きっとうまくやるんだろう。
 ――これだから、人というのは面白いんだ。

 * * *

「桜妃の暗殺を企てていたのは、世羅姫の父親だったよ」
「父親? 娘を四妃に持ち上げて、自身の権力を確固たるものにしようとしたかったとか、そんなもの?」
「だいせーかい。桃花は頭が良いねぇ。御褒美にお菓子をあげよう」

 ころん、と零れ落ちたまぁるい飴玉を手のひらで受け止め、胡乱げな目で男を見る。にこにこと笑みを浮かべた桃真は事も無げに「後宮の侍女からもらった媚薬効果付きだよ」と、思わず振りかぶって、ふと思いとどまった。
 せっかくもらった菓子をぶん投げるなんてもったいない。しかし媚薬効果。
 頭を巡らせて、店に帰ったら遊女の誰かにあげよう。桃真――美貌の若様から頂いたと言えば喜んで貰い手が見つかるはずだ。半月あたりの遊女たちがきゃあきゃあ
黄色い声を上げていたので取り合いになるかもしれない。

「……受け取るんだ」
「えぇ、まぁ。今後の参考に」
「今後の参考……? 僕としては今食べてくれても構わないけど」
「結構です。これは有意義に使わせてもらいます。

 困惑に首を傾げる桃真をよそに、いそいそと懐にしまいこむ。

 たった三日だったけれど、お世話になった蒼邸の使用人たちに挨拶をして回っている最中だった。桃真に呼び止められて、客間の一室で茶を飲みながら事の顛末を聞いていた。
 なんとなく、そうだろうな、と思っていたので特に驚きはなかった。世羅姫は後宮を去り、父親は職を追われて牢獄に入れられた。世羅姫が罪に問われなかったのは恩情だろうか。それなりに主上も棟に通っていたようだし、その分父親の罪が重くなったのかもしれない。

 解決したのであれば、桃花はそれでよかったし、詳細には興味がなかった。桃真も深く語るつもりはないようで、一度言葉を区切り、お茶を啜った。
 静かな沈黙が流れる。

「……以前、紅家についてそれとなく調べてみると言っただろう」
「そういえば、すっかり忘れてました」
「だろうね。がっつり葵妃と関わっているものな。それで、桃花に聞きたいことがあるのだけれど、君の吐息は花を咲かせることができる? 涙は、傷を癒すことができる?」
「――……は?」

 何言ってんだコイツ。
 桃真自身も何を言っているんだろう自分は、という気持ちだった。
 人は吐息で花を咲かすことなんてできないし、ましてや涙で傷を癒すこともできない。眉唾物の寝物語だ。鳳黎の話では、血肉を食べれば不老不死に、なんてことも言っていた。

「いや、……は?」
「だよねぇ、わかってる、その反応はわかってたさ! まず前提に、天女が存在していたという話から始まる」
「とうとう頭が沸いてしまったの?」
「とにかく、話を聞いてくれ」

 疲れたように目頭を親指で揉み、溜め息を吐く。口を噤んだ桃花に、聞いた天女の話を教えた。胡乱げで、訝しげに目を眇める桃花だったが、ある一点で「あ」と小さく声を漏らした。

「関係しているのかわからないけど……わたしは人よりも傷の治りが早いんだ。たとえば、軽い切り傷なら半日で治ったし、打撲とかなら一日か二日で跡形もなく治ってしまう。その、天女の癒しの力が作用しているなら、わたしの母が天女だった、とかに繋がるの?」
「本当に、冴えているね。ここで紅家が出てくるわけさ」

 本当かどうかもわからない、身籠った女の話を聞いて嫌悪に眉を顰めた。
 聞いた限り、望んで身籠ったようには思えなかった。無理やりの末、できた子が自分なのかもしれないと思うと、嫌悪で全身に鳥肌が走るのを止められなかった。母も、父もわからぬこの身であるが知らなくてよかったことだと心底思う。

 茶総大将は、おそらく紅家の蒼目の奥方と面識があり、当主が狂っていく様を知っていたのだろう。
 蒼目の女への執着心は、妻を失ってなお燻り続け、だかろこそ桃花に気を付けろと言ったのだ。養い子や使用人に色変わりの目の女人を囲い、当主に見つかってしまえば最後、何が何でも囲われてしまう。

 桃花の瞳は何よりも澄んだ、深い海を閉じ込めた宝石だ。じぃっと見つめていると魅了され、彼女の虜になってしまう。そんなところも、徒人とは違うように思えた。

 紅家当主が囲っている色変わりの瞳は何も蒼だけじゃない。赤や緑、多岐にわたっているが、やはり一番求めているのは蒼色だ。数多くの色変わりの瞳がいながら、純に蒼と呼べる瞳は片手で数えられるほど。大事に大事にしまわれて、囲われて、寵愛を受けているようだ。
 ――もし、桃花が見つかってしまえば、抗う術などないに等しい。一介の遊女が、大貴族の当主様に逆らえるはずがない。囲われてしまえば最後、籠の鳥だ。ゾッとした。蒼い瞳に別の女の影を重ねられて愛されるだなんて、気持ちが悪かった。
 おそらく、葵妃から父である当主に話が行っていることだろう。見つかるのも、時間の問題だった。

「ねぇ、桃花、僕は君のことが好きだよ」
「そ、れは、今言うことですか?」
「今だから言うのさ」

 涼やかな瞳が桃花を見つめ、一心に熱を注いでいる。恋と言うには熱く、愛と呼ぶには歪んだ劣情に、ドキリと心臓が大きく脈打つ。腹の奥が熱くなって、手のひらがじんわりと汗ばんだ。

「本当は、君を花街に帰したくない。ずっと、この邸にいてほしい」
「そんなの、無理だよ……。わたしは、光雅楼に返しきれない恩がある。あなたの気持ちには答えられない」
「けれど、このまま花街にいて、紅家が来たらどうする? ただの遊郭の店主が、四大彩家をおさえることができるとでも? 逆に店に迷惑をかけることになるだろうね」

 うっそりと、笑んだ桃真に言葉が詰まり、息が止まる。考えなかったわけじゃない。けれど、それならどうすればいいと言うのだ。
 唇を噛みしめ、黙ってしまった桃花を、立ち上がり優しく抱き寄せる。

「僕なら、君を、桃花を守ることができる」
「……桃真様」
「蒼家は紅家に引けを取らない、むしろ互角と言ってもいいくらいだ。僕なら君を守ることができる。僕に、君を守らせてほしい。君のあどけない笑みが好きだ。舞っている妖艶な姿が好きだ。手を繋ぎたい、唇を合わせたい。僕の贈った簪を身に着けて欲しい。君の好きなところを上げたらきりがない。君を想うと、心臓が熱を持って、恋しくて愛おしくて仕方がないんだ」

 するりと、手のひらが持ち上げられ、指先が絡み合う。桃真の手は、桃花よりもずっと大きくて、節くれだった男の人の手だった。手のひらに豆があり、桃花の手のひらにある剣ダコとよく似ていた。親指がするすると指の付け根を撫でて、きゅっと手首を握られる。
 いくら桃真が柔和で花のような美貌をしていようと男性であることに変わりなく、体格差を自覚してしまった桃花はカァッと顔を真っ赤にして、抱きしめられた体を放そうと腕を突っ張った。彼の焚いている香の匂いに包まれて、全身が熱くなる。

 闇を垂らした黒絹の髪に指を通したい。海を閉じ込めた蒼玉は食べてしまいたい。白玉の艶やかな肌に手のひらを這わせたい。剣ダコのある手指を絡めたい。頭の天辺から、足のつま先まで、愛でて愛したい。
 耳元で囁かれる、砂糖菓子よりも甘い睦言に沸騰してしまう。
 頑張ってる君が好き。ぶっきらぼうなところはいじらしい。君の小さな赤い唇から、僕の名前を呼ばれるのがひどく嬉しいのだ、と。恥ずかしげもなく言葉を積み重ねる桃真に、桃花は耐えられなかった。恥ずかしいのと、嬉しいのと、戸惑いでいっぱいいっぱいになり、ろくに言葉も紡げない。

「好きだよ、桃花」

 飾り気のない、とても簡素であっさりとした恋の言葉に、今までで一番大きく胸が高鳴った。

「ぁ、あっ、わ、わたしっ」

 ドクドクと胸の鼓動が耳のすぐそばで聞こえて、心臓が口から飛び出してきそう。

「返事は、今すぐじゃなくていい。桃花が花街に帰るまでに、ゆっくり考えて欲しい」

 顔が近づいてきて、口づけをされるのかと思ってきゅっと目を瞑った。

「っ、ふふ、ねぇ、そんな可愛い顔してたら食べちゃうよ」

 喉を転がして笑い、耳たぶを柔く食んで、離された。
 急速に遠のいていく体温に、目を瞬かせて、自身の早とちりにキッと桃真を睨みつける。勢いよく左手を振り上げた。

「あははっ、ほんと、可愛いなぁ」
「ばかッ!!」

 手首を絡めとられて、抱きすくめられる。甘く爽やかな香りに、頭がくらくらした。


第十一話


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