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聞いてもいない感想を言われた時の対処法

最近のnoteの投稿で、気になるものがいくつかありました。

白饅頭さんのnote。ラーメン評論家を出入り禁止にした女性ラーメン店主の件について、評論という形でしかコミュニケーションが取る術を持たない人がいる、ということを論じていました。

こちらは「Bar Bossa」の主人にして作家の林伸次さんのnote。
マズイ、と評することについて、マズイだけだとそこで終わってしまう、なぜ自分の好みと合わなかったのかと言葉にするともっと広がったのでは、ということでした。

これらは、自分の意見なりを表明するにあたって、単に意見を不躾にぶつけると、時に炎上することがある、という最近の状況の踏まえてのエントリだと思います。

話は変わりますが、普段生活していて、自分の態度とか何かの好みとか、または世間で流行っていることなどに対して、自分の好みというか感想というか、そういうことを言いたがりな方って結構いるな、という印象を持っています。
言い方としては、「俺は○○はこう思うな〜/○○は好きじゃないな〜」とか、「俺だったらこうするな」というような言い方です。


自分が好きなものとか、世間で普通に流行っていて自分も別にいいじゃん、と思っているものに、こういう言い方で反応されると、なんか自分にケチをつけられているような感じがして、結構不快に思うことが多いです。言っている方は、自分の思いを単純に吐露しているだけにも関わらず。

そこで、私は普段、こういうふうな場面に遭遇したり、ネット上で目にした場合は、このように思うようにしています。なんというか、自分で辿り着いた原則ですね。

自分から聞いてもいないのに述べられている感想は、基本全部無視してOK

本当に自分で聞きたいことであれば、「これってどうかな?」と、その人に尋ねて聞くことができるので聞く価値はありますが、勝手な感想を言っているだけだと、「すごい。聞いてないのに感想言ってる」と状況を把握だけするようにしています。(たまに聞く価値あるものは、うまいことピックアップしますが)
その原則にたどり着くまでは、色々あったように思いますが、そう思った背景としては以下の通りです。

なぜ、そのような原則を持つに至ったのか?

特に自分は求めていない感想なので、基本有用じゃない

まあ、自分が言いたいから言う感想なので、別に聞く人のことを考えていってくれる場合がほとんどないわけです。
そして、言いたい気持ちが先走るあまり、人に伝えるための言語化の解像度も低く、気持ち先行のため論理も飛躍しがちになります。大体「そう思うんだ〜」だけで終わってしまいますね。

言うこと自体が好きな人の感想なので、実際に行動・実践していない場合が多い

先の白饅頭さんのnoteにありましたが、趣味で(というか本人は本気でしょうが)ラーメン評論をする人、ということで、別にラーメン店を経営されていたり、自分でも試行錯誤してラーメンを調理してみる、という方はほとんどいないように思います。
個人的には、音楽が好きで、楽器弾いたり音楽制作もしたりもしますが、自分で音楽をやらずに音楽評論をする人が言うことで、「なんであんな音楽をやるかわからない」「あの曲は失敗作だ」みたいなのを目にすることがありましたが、「じゃあ自分で曲作ればいいじゃん」「今すぐ音出してみせてよ」などと思ってしまいます。
実践して結果を出すには、地道な取り組みを継続し続ける必要があるものがほとんどだと思います。それをすっ飛ばして、安易な批評をしてしまう。その場合、その批評には厚みがなく、ほんとうに感想で終わってしまうように思います。

その感想自体、妥当じゃないものがほとんど

身も蓋もありませんが、前述の通り、意味あることであれば、聞かれてない感想でも、聞く価値はあるかと思いますが、そういう場合は多くありません。
前に述べたことにも関連しますが、まずは自分が言いたいことを誰に聞いてほしい、自分が努力して実践はしないけど意見は言いたい、ということが動機だと、他人に納得感を与えるには、やはり相当ハードルが高いことかと思います。

価値あることを言える人の感想であれば、もちろん聞く価値はあるが、大体の人はそうではない

評論なんて特にそうですが、本当のプロの意見は洞察に優れて納得できますが、素人評論家の場合はそうではありません。マーケティング用語でCGM(Consumer Generated Media)と言うのがありますが、インターネットの普及により、いろんな方の意見が出せるようになったのは、インターネットの利点かと思います。ただ、逆にボリュームが増えた分玉石混合になった、と言う現実もあるように思います。

以前読んだ本の中にこんな場面がありました。

ウィントンはコントロール・フリークであるばかりでなく、いささか口数の多い人間でもある。<中略>1984年のグラミー賞の授賞式のあいさつで、現在(当時)のジャズが直面している「哀しむべき」状況について、彼は壇上で滔々と自説を開陳し、多くの人のひんしゅくを買うことになった。
そのテレビ中継を見ていたマイルズ・ディビスは"Who's asking him a question?"とつぶやいたと伝えられている。要するに、「誰もお前にそんなこと聞いてねえだろうが」ということだ。
-ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?-意味はなければスイングはない 村上春樹

村上春樹さん著作の「意味がなければスイングはない」の中の、ジャズトランペッター、ウィントン・マルサリスさんのエピソードです。
補足すると、マスサリスさんは当時若手で新進気鋭のトランペッター、マイルズ・ディビスさんは、この40年ほど前から活躍してきた伝説のトランペッターで重鎮、というポジションですね。
マルサリスさんは、特に歴史を継承してきた立場でないのに、現状を深く憂いてその自説を述べたんですが、他の人からみると、今まで何を担うでもない若者が突然出てきて、過去の歴史を踏まえずに感想を述べてみんなから顰蹙を買った、という話です。聞いてもない感想を思いっきり述べちゃっている例として、いつもこの話を思い出します。マルサリスさん自体はプレイヤーなので実践している人ではあるものの、それでも好き勝手に感想を述べちゃうとちゃんと受け入れられない、ということが教訓です。

直近で起こったいろいろなことを踏まえて、自分なりに編み出した原則について考えてみました。今後もその原則は踏まえつつ、自分もそうならないように自戒していきたいと思います。


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