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【本町人物名鑑】 EMANONから白河へ。白河から福島へ。 カフェEMANON 青砥和希さん

白河市本町商店街でコミュニティ・カフェEMANONを運営する(一社)未来の準備室室長の青砥和希さん。青砥さんの幼少期の話からEMANON立ち上げまでの経緯、そのときの思いを伺いました。

青砥和希(あおとかずき)
1991年福島県矢祭町生まれ。座右の銘は一石二鳥。「自分も相手も」「地域も高校生も」いい思いをするにはどうすればよいかを考え、誰かが負担するのではなく関わった人全員がHAPPYになる事業をしていくために行動する。

静かにヤンキーに対抗していた小中学校


子供のときは外遊びよりは中遊び、何でもやってみるっていうよりは考えてから動くタイプでした。理論的だったのかな。本を読むのが好きで、シャーロック・ホームズとかハリーポッターとか小さいときから読んでいましたね。
中学の時はソフトテニス部に入りました。ただ部活となると義務感(?)が出てしまって純粋に楽しめなかったです、早く帰りたいなって。
当時って今よりわかりやすくヤンキーがいる時代で、毎日色々と事件が起こってました。でも自分は、「絶対そのカルチャーに馴染むものか」っていう思いがありました。そういうカルチャーって暗黙の了解みたいな明文化しないルールで成り立っていると思っていて、それに従わない人を排除してヒエラルキーをつくっていくのですが、私は「その空気を読まない人」であろうと思っていました。

白河高校から東京都立大学へ


高校は県南地域の進学校ということで白河高校に入ったのですが、みんな真面目で…。中学の時のたくさん事件起こる感じとかそういう刺激がほしくなってしまっていました。その時思ったのは、「あのときのヤンキーは創造性があって、やりたいことを周りに縛られず自分でやっていたな」ということ。高校の同級生に対しては「もっとルールを疑おうよ」と感じるようになりました。非合理的なルールは大嫌いでしたね。他の高校の友達と遊ぶことも多かったのですが、他の高校となるとそれぞれ規範が違くて意識も違うから、そこが面白かったんです。
そんなこんなで高校2年間はあまり勉強してこなくて、読書と遊びばかりでした。今思えば、授業より大切に思うものがあるってある意味いいことだと思うんですけどね。そういう思い・興味を開示して認めてもらえる場所・空気感みたいなものって大事だなと思っていて、今私はそれを目指していますね。あとは、僕の時代にも探求の授業とか欲しかったなあと思います。
3年のときは勉強も頑張りました。高校が自分にあまり合わなかったのは、「進学校」というだけで自分で深く考えずに選んでしまったからだと思っていたので、大学はきちんと考えようと。まず土地的には情報も何もかも日本の中心だったので東京がよくて、学問的には経営学部とかを視野に入れていたのですが、法政大学の地理学の模擬講義を受けたときに心がときめいてしまったんです。他の学部の授業は正直ときめかなかったんだけど(笑)。そこで、地理を学ぼうと決意して、東京都立大(首都大学東京)の都市環境学部の地理環境学科を目指しました。私の高校では文系は地理を選択できなかったので独学で学んだし、3年生のときは結構頑張りましたね。

合格 〜 地理に写真に教職に 〜


そして晴れて合格しました。地理は一番社会に近い感じがするんですよね。地表面に残っている事象を自然環境に関する知識と社会環境に関する知識で考えるというのが、特に面白かったです。
サークルは写真部に入っていました。割と小さいときから写真が好きで、修学旅行の感想文も写真だけバンッて貼って提出したりしていました(笑)。サークルでは、美術館行って写真見てディスカッションしたりして…未知の世界ですごく面白かったです。
ただ教員免許を一応とったりもしていました。親が教師だったので地元に帰るなら教師かなというイメージがあって免許がある方が有利・安心とも思っていたので。

白河に帰ってくることが現実的に


東日本大震災は大学1年のときに経験したのですが、福島の問題の議論を見るたびに、私は高校3年間で福島を何も学んでいないな、学ぶ機会もなかったなと思いました。教育実習で母校に帰ったのですが、「福島はここから変わっていく」とメディアで言われ期待していたほど自分のときからなにも変わっていないことにも衝撃を受けました。これはまず外でモデル・事例をつくる必要があるなと思って、高校生が学べる環境づくりをしたいと思うようになりました。そんなときShirakawaWeekという学生団体に入ったんです。東京に集まっている福島の学生が、大学で学んだことを高校生に伝えるというコンセプトの団体で、何度かシンポジウムを開催していました。そこで白河の議論すごい面白いじゃんと感じたのですが、同時に、団体の活動がガッツリできる夏休み2週間の間で高校生を変え難しさに気がつきました。
ちょうどその年(2015年)に地方創生制作が始まって、市のコミュニティスペース(今のEMANON)の事業を、「青砥くんの団体に」と頼まれました。自分のモヤモヤとも重なったのでよしやろうとなって、大学院2年の年を休学してEMANONを立ち上げました。

EMANON立ち上げ秘話


初期のEMANONは活気がありましたね。古民家を改修するということで「楽しそう!」と思い集まった高校生が10数名いました。取材も多かったので、「僕たちがつくったんだ!」という熱量がすごかったです。
EMANONは、使命感楽しさも両方あって続けられています。まずは居心地のいい空間・「ハコ」・「ハード」をつくることが大切だと思っているので、いいものができたという自信があります。

・福島の物を使う
・福島のものを加工して若者が好きなデザインにする
・専門家の意見も聞きつつ高校生と一緒にやっていく

という3点を意識して作りました。
最初は街全体を俯瞰したときにいいカフェがない・コミュニティがないという問題意識からスタートしたのですが、今は「高校生がやりたいことを実現しよう」、「そこから学ぶことを大事にしよう」と、だんだんに主語が高校生になってきた感じはあります。

これからもっと福島の教育を盛り上げたい


これからも福島だからこその地域探求・地域連携にはこだわりたいなと思っています。分断よりも協働と対話田舎だからじゃなくて福島だから
わかりあえないことを前提になにができるかを考えて、僕が福島の高校と地域をつなげることでそんな未来を実現できたらと思っています。
福島にはいろんな街があっていろんな高校生がいるので、EMANONのような場所を作れなくてもオンラインツールをうまく使ったりすることで、学ぶ機会を提供したいと考えています。それから学校教育(学校の先生)が変われば、福島全体が変わると思っているので、県の教育総合計画会議に出たりしています。
今後も多方面から福島をよりよくすることを考えていきたいです。

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