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小散歩記〜湯島聖堂〜ー学ぶということー

“之れを知る者は之れを好む者に如(し)かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如(し)かず。“

何事も最終的に自分が「好き」「楽しい」「もっと探究したい」と思って取り組んでいる人には敵わない。
この言葉は、この世のひとつの真理であるのだろう。

灼熱地獄と見間違うほどの7月の某日、所用があって御茶ノ水の地に降りた。
「何もこんなに暑い日に、早朝から外出させなくてもいいじゃないか」等という文句ばかりが浮かんでくるが、とりあえずで目的地へと足を運ぶ。
用事はほんの些細な事で、瞬きをする程の時間で終了させることが出来た。

しかしながら、これは同時に困った問題を引き起こしてくれた。
用事を済ませて、時刻は午前9時、、、。
「せっかく御茶ノ水に来たのだから」と寄り道しようにも、世間はまだ寝起きなのである。
どうしたものか、と頭を悩ませていると、道中にこんな文字列が見えた。
「湯島聖堂まで200m」
この文字列が、私を聖橋へと引き寄せたのである。

湯島聖堂、それは徳川綱吉の時代に建てられた日本朱子学の聖地と読んでも過言でない場所である。
教科書上の知識としては知ってはいたが、訪れたことは無かった。
「こんなところにあったのか」
そんな感動を胸に足を運ばせて行った。

朝方とはいえど、御茶ノ水は人通りが多く、賑やかだ。しかし、この場所は一味違った。
敷地内に足を踏み入れた瞬間、静寂の訪れを感じた。
私は、この喧騒が静寂に変わる瞬間が好きだ。
人間で溢れたこの街で、心地の良い静寂を味わえる場所は少ない。
だからこそ、その数少ない場所を発見できたことにまた感動したのだ。

敷地内に入ると、昼の市街地とは思えない静寂が訪れた

そんなことを思いながら歩いていると、本堂が見えてきた。
本堂への門を目の前にして、私はその荘厳さに圧倒される。
この敷地内には、ほとんど人はいない。
賑やかさもあるわけでは無い。
にも関わらず感じるこの威圧感は、学問の歴史が積み重ねてきたものなのだろうか。
そんなことを考えながら階段へと足を運ばせた。
きっと多くの人間がこの階段を上り、学んだのだろう。
そんな歴史の重みを一段一段感じながら、階段を歩み進めた。

本堂へと続く門と階段は、どこか歴史を感じさせてくれた

階段を登りきり、本堂へと足を踏み入れると、また違った威圧感に驚かされた。
それは、建物としての豪華さでもなく、史跡としての知名度でもなく、積み重ねてきた歴史なのだろう。
「教科書で見たことがあるから行ってみよう」
そんな軽い動機で足を運んだ私を、目の前に現れた建築物は一気に自分の土俵に引き込んだのだ。

本堂の様子
ここが御茶ノ水だということを忘れてしまう風景である

そんな空気に飲み込まれたせいだろうか。
本堂前にして、自身が歩んできた学問の道を振り返ってみる。
義務教育が終わり、高等教育が終わり、そして大学教育が終わっていく。
そんな岐路が迫っているからだろうか、最近よく学ぶとは何だろうかと考えることがある。

語弊の無いようにに先述しておくが、私は学ぶということは、全ての分野において何かの役に立つという点で、無駄になることは無いと考えている。
例えば、義務教育や高等教育、大学の必修授業等で刷り込んだ知識は、一般教養として生活の中で役に立つこともあれば、文学や旅の舞台において、その舞台をより楽しむために役立つこともある。
しかしながら、その一方で、強制された学び、自発的でない学びから得た知識は、時間の経過ともに記憶から薄れていってしまうのも確かであろう。

私は、ライフステージとして用意された教育機会で、何を学べたのであろうか。
結論から言うと、ほんの少ししか学び取れなかったと言えるだろう。
そこには、自身の教育に対する受動的体制と、圧倒的勉強時間不足があるのだろう。
次のステージに進むための学び、ゼミや卒業論文に間に合わせるための学び。
そんな、自発性と貪欲さの無い学びの姿勢がこの結果を生み出したのだろう。
結局、現在私の元に残った学びの結晶は、ほんのひと握りのものなのだ。

だが、この結果を世の中の大半がそうであるからと、受け入れることにも疑問を持っている。
確かに、この世の中を生きるにあたって、教育機関で得た知識が役立つ機会はそれほど多くない。
ましてや、持ち合わせていなくともどうにかなる機会がほとんどだ。

おそらく、大半の人間にとって教育機関での学びは、その内容よりも、そこに対する取り組み方から得た学びが重要であるのだろう。
計画性や要領の良さ、社交性等々、そういった経験から得た学びから来る人間形成、それが何より大事なのだろう。

そうとは理解していつつも、それは学問の本質とはズレているのではないかと、どこか思えてしまうのだ。
孔子の言葉を借りると
“之れを知る者は之れを好む者に如(し)かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如(し)かず。“
と言ったように、学問の本質は、学びを何か活かすことではなく、自身の知的好奇心、自発的到達目標を満たし続けることにあるのだ、と私は考える。
結論、学問の本質は、何を学び取るべきかではなく、何を知りたいのか、何をやってみたいのか、といった部分にあるのだと私は考える。

学生という身分の終焉が近づき、強制される学びが減っていく中、より充実した生き方をするべきにはどうするべきか。
そういったことを考える中で、学びに対する姿勢といったこともまた需要となるのだろう。
そんなことを考えながら、本堂の周辺を歩き回ったのであった。

思考を巡らせた1周が終わる頃、時刻は午前10時を指していた。
太陽は朝礼を終えたのか、本格的な業務を開始して、気温は33℃を示していた。
これ以上ここにいては、隣接する東京医科歯科大学附属病院のお世話になってしまう。
そう感じた私は、足早に湯島聖堂を後にして、丸ノ内線の改札へ向かうのであった。

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