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「みんなこれまでホントに色々ありがとう。とっても楽しい人生でした。じゃあまたいつか会いましょうね。さようなら」純子より(FBの言葉)

「じゅん子のじゅんは、不純の純なの。よく純粋の純って説明する人居るけど、純粋の純は不純の純でもあるよね~アハハ」・・・と明るく笑う純ちゃんの漢字を、それ以降一度も間違えたことはない。

タイトル写真は、2016年9月20日に一時帰国した純ちゃんが、娘の働いていた美容院に寄ってくれて、カットした時のものだ。写真真ん中でほほ笑む純ちゃんは、カットしている間中、娘に「アイルランドに来て美容院開いて欲しいな~」とずっと言っていた。「アイルランドでは、東洋人の髪の毛は硬いからって、嫌がられることも多いんだよね」と。

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純ちゃん家族が2006年にアイルランドに移住してから、まさに10年ぶりの再会だったというのに、私たちは、昨日別れたみたいに、止めどなくたわいもない話をした。10年前は純ちゃんは福岡県で私は大分県に住んでいた。

出会ったのは2000年頃。当時パソコンが普及しつつあり、貧乏な私の家にも中古のパソコンが来た。これがあれば、世界に繋がれる!と、私は興奮気味にメーリングリストなどに参加している中で、意気投合したのが純ちゃんだった。

その頃、純ちゃんはジュビリー2000※という活動をしていた。
実は純ちゃん、2冊の翻訳を残している。一冊は「世界の貧困をなくすための50の質問ー途上国債務と私たち」

もう一冊は「世界銀行~その隠されたアジェンダ~」

世界の仕組みをなにもわからなかった私に、貧困問題は仕組みの問題なのだということを教えてくれた本でもある。貧しい国々は、貧しくさせられた国だということを、丁寧に教えてくれるので、ぜひ、機会があったら、手に取ってほしい。(※ジュビリー2000を理解する上でも有効)

私は、この地球上で、お腹を空かせた子どもがいることを、なんとか出来ないかと思いながら、どうしてこんなことになっているのかがわからないままだったから、純ちゃんから教えてもらうことは、目から鱗だった。

一方私は、能天気に大分の山の中で『アフリカ祭り』というイベントをやり始めた頃だった。内戦や貧困で語られがちなアフリカを、音楽や文化から理解してもらおうという試みだった。寝食を共にし、どっぷりアフリカの文化に触れてもらうことで、人生が変わる程の祭りがしたいと思っていた。

そこに純ちゃんが「なんか、面白そうなことをやってるじゃん」と、子ども3人とパートナーのエンリーさんと来てくれたのが、2001年だった。

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まあ、純ちゃんちの子どもたちが、面白いこと、楽しいこと、子どもらしいこと!私たちはすぐに大好きになった。

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この写真には、私の3人の子どものうち真ん中の子どもは写っていないけれど、末っ子(写真右)が重度の知的障害があったこともあり、うちの子の上2人はヤングケアラー気味だった。末っ子がケガをしないように注意することを、私が姉(写真左)と兄に要求したからだ。だから、私たちは、純ちゃんちの子どもたちの天真爛漫な姿が、とても好きだった。

例えば、小銭を手に持っていて、エンリ―さんに「手に持ってると落としますよ~」と注意されても聞かずに持っていてやっぱり落として、それをエンリ―さんが「いい経験をしましたね~」と慰める、とか。例えば「走ったらころびますよ~」と言われても聞かずに走って転んで、またエンリ―さんが「いい経験をしましたね~」と慰める、とか。

そんなエンリ―さんの優しい言葉が大好きで、我が家でも、なにか失敗をする度に、「いい経験をしましたね~」と言い合うのが流行ったものだった。

純ちゃんはうちの子どもたちを、「出来のいい子どもたち」と言ってくれたけど、私は、純ちゃんの子どもたちが、「子どもらしい子ども時代を保障されて、素晴らしいと思う」と伝えていた。

2001年から2006年の間、私が福岡に行ったり、純ちゃんが大分に来てくれたりと、子ども3人を連れて、行き来した。

ある時、純ちゃんは仕事に行って、エンリ―さんと私と子ども6人とで海に行ったことがある。エンリ―さんは仕事に行った純ちゃんを「えらいねー」と褒め、子どもたちの水着の入った荷物を見ては「純ちゃんが準備してくれてる。すごいねー。忙しいのに」と褒めた。そして、海に着いて、しばし、海にはしゃぐ子どもたちを眺めながら「大変な仕事でした。でも幸せな仕事でした。」と感慨深く言った。私も子どもたちを眺めて「大変だったけど、幸せだったな~」と感慨に浸った。けれど、あっと言う間に幸せな時間は終わりを告げ、クラゲに刺されて大騒ぎの結末を迎えることになった。けれどあの海で広がっていた幸せな光景を忘れることはない。その場に居なかった純ちゃんも、エンリ―の感謝とともにそこに存在していた。

そんな素敵過ぎるお二人なのに、純ちゃんに言わせると「破れ鍋にとじ蓋」なんて言うから可笑しい。純ちゃんの話は続く。「どっちが破れ鍋か、どっちがとじ蓋かはわからないけどね」なんて、どこまでも愉快だ。

その純ちゃんが旅立ってしまった。2020年7月の癌発症後に書き残してくれたブログを、純ちゃんに会いたくなったら覗きにこよう。

どんな時にも、ユーモアにあふれ、優しさを失わなかった純ちゃん。大好きだった。今は、痛みの無い世界で、くつろいでいることと思う。

最後に、純ちゃんが最後まで支援を続けたアフリカのケニアの子どもたちを紹介したい。純ちゃんが見ている先には、いつも子どもたちの笑顔があった。

純ちゃんと出会った時から、私たちの共通の夢は子どもたちの幸せだった。子どもたちが餓えないこと。子どもたちが安心して眠れる家があること。病気になったら手当してもらえること。勉強したい時に学校に行けること。

純ちゃんの撒いた種は、芽を出し育っている。


PS:純ちゃんの子どもたちへ。日本に来ることがあったら連絡ください。うちで良かったら泊まってね。純ちゃんの日本のお家だと思ってね。それから、エンリ―さん、どうかお元気でいてください。


ごめんなさい、赦してください、ありがとう、愛してます。ホ・オポノポノの言葉です(純ちゃんのブログを真似てみた。これいいね。)


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