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2022年次郎の初夢はママが死ぬ夢だった  ~海老原宏美さんに感謝を込めて~

私と次郎のお正月は、なにも変わらず過ごすことに決めている。お正月気分に触れようものなら、私が次郎に対して「お正月くらいゆっくりさせてよ」なんてセリフが胸の奥からせりあがってくるからだ。

今年は元旦からヘルパーさんに来てもらえて助かった。次郎が子犬のようにしっぽを振って寒空の下出かける後ろ姿に、ホッと一息することが出来た。

私は『次郎との暮らしの何が大変か?』ということを言い表す言葉をあまり持っていない。

これまで私は、次郎との生活をことさらに『幸せだ』とアピールしてきた。だって「大変だ」と言った途端に、『そんなに大変ならば、楽にしてさしあげますよ』と言って来そうな気配があるからだ。実際『津久井やまゆり園障害者殺傷事件』は起こった。だから『今後一切大変そうな顔はすまい』と決意を新にした。”障害者はかわいそう”で”障害者家族は不幸”で”障害者は社会のお荷物”といった価値観が蔓延した社会で、障害児の親をやる際の『幸せアピール』は不可欠のパフォーマンスだ。殺されてはかなわない。

とにかく、私は笑っていようと決めていた。3人の子どものうちひとりが障害児のシングルマザーが、笑って暮らしていることが、誰かの勇気にもなるだろう。だから笑っていようと決めていた。そして笑って死んでやろうと決めていた。いや待てよ、困るのは次郎だ。私が死んだら施設に行くしかない。

すべての施設を否定することはないと言う人は多い。『施設も専門家が居て良くしてくれる』とか、『グループホームも最近はすごくいいよね。』とか。だけど外見がすごくよくなっていたとしても、スタッフさんが優しい人であったとしても、なにしろ次郎が施設もグループホーム(以下、グループホームも施設に含める)も嫌なのだ。

この本人の意志を尊重するという一番大事なことを抜きにしては、一歩も先には進めない。だけど、わりと安易に、『そのうちに慣れるんじゃない?』とか『多少の妥協は必要だ』とか、『施設でも本人の意志の尊重はしてくれる』とか、だんだん論点がずれてゆく。しまいには、私たち親子の『社会性のなさ』とか『協調性のなさ』とか、『わがままだ』とか、『問題があるのはそっち(私たち親子)なんじゃね?』って反応になってくる。

大事なことなのでもう一度言う。次郎は施設は嫌なのだ。

それは次郎がなにもわからないからじゃなくて、骨身に染みて嫌なのだ。よく『障害児は早めに家以外の環境に慣れていたほうがよい』なんて言うし、『在宅の障害児はわがままだ』とかも言われたし、だから私は次郎にいろいろ経験をさせようと施設入所もしたし、私の職場だったグループホームも見せてきた。そこはこの上なく配慮の行き届いたグループホームだった。

にも関わらず、次郎は施設が嫌と言ったら嫌なのだ。ちょっとやそっとで気が変わるものではない。本気で嫌なのだ。

次郎は人が大好きで、近所のス―パ―には買い物友達のおばちゃんたち(おばちゃんたちはどういうわけか、次郎が言葉を話さないのに、おしゃべりが出来る)が居て、『今日のお買い得品はこれ!』とかキャーキャー買い物して、荷物持ってあげて喜ばれて、お買い得コーナーで賞味期限を見つけてあげて喜ばれて、一緒に笑って、そうやって街の中で生きてきた。次郎は引っ越しを4回してきているけれど、何処の街でもすぐに覚えられて、いつも明るい次郎は人気者になる。その次郎が限られた人としか接することのない施設に入ってしまうのは、可哀そう過ぎないだろうか?

たった一度の人生を、自分の思うように生きられないなんて、人権の問題だと思うのだ。もしも、『自分だって自分の人生を自分の思うようには生きてはいない。我慢するのが人生だ』と言う人が居たら、その人の人生も、思うように生きられるようにしたい。

すべての人が幸せに生きるようにすること、それが福祉なのだから。

そうそう、福祉は障害者や高齢者のものなんかじゃなくて、すべての人のしあわせを保障するものだと教えてくれたのは、海老原宏美さん(「まぁ、空気でも吸って<現代書館>海老原宏美・海老原けえ子共著)だ。

海老原さんは次郎の相談支援員さんをしてくださって、私たちは本当に助けられた。実は、私が次郎の人権を守ろうとしていることを理解して、助けてくださった始めての相談支援員さんだった。海老原さんがご著書でも書かれていることだが、障害者が公的支援を受けられるのは、『障害者総合支援法』という法律があるからなのだけれど、これはサービス法であって、障害者の人権を守る法律は実は日本にはないのだ。

だから、障害者が何か言うと、「これだけのことをしてもらっているのに、まだ、要求をするのか?」という反発が出る。障害者にサービス(恩恵)を与えてやってるという考え方だからだ。人としてのあたりまえの人権を守るために必要なこととは、理解されていない。

健常者の一部の人は障害者がなにか言うと叩くけれど、障害者ががんばって要求して設置されたエレベーターにはしれっと乗るだろうし、ホームドアはすべての子どもの命も守っている。一緒になって社会がよりよくなってゆくことに、協力できないものだろうか?なぜ国側とか経営側とかに立って、出来ない理由を先回りして言いながら叩きにくるのだろう?それは自分の人権をも脅かす行為なのに。

私は次郎が街中で普通にケアを受けながら自立生活をすることを模索していた。地方では壁は高かった。東京に引っ越してきたのは、言っても首都東京、ここで出来ないことは日本国中何処でも出来ないだろうと思ったからだ。東京にはどこかに突破口があるはずだ。

けれど、知的障害者の自立生活を実践している事業所にも相談に行ったけれど、次郎がケアを受けながら自立生活をするイメージを描けなかった。制度的にも難しく、事業所的にも人員不足で、人々の理解も追いついていなかった。

私は海老原さんに愚痴のようにそんな話をしたのだと思う。すると海老原さんは、ぼそっと、「出来るか、出来ないかじゃなくて、必要なんだから、やるしかないじゃない?」と言った。

えっ!そんなことが出来るの?いや、やるしかない?でもどうやって?

私と次郎の前のすべての扉が閉まった中で、海老原さんの扉だけが少し開いて光が漏れていた。暗闇で見えるのは、海老原さんの光だけだった。

でも海老原さんは進行性の難病だったから、私たちの悩みをどん!とぶつけることは控えていた。なんとか、海老原さんを煩わさずに、次郎が生きて行く道が開かれないかと試行錯誤もした。

でも、海老原さんじゃなきゃダメだった。例えば私が次郎のことで困っていることがあってそのことを相談したとして、多くの人は、「次郎君、お母さんを困らせちゃダメでしょ」と言ったり、「次郎君、お母さんの言うことを聞かなきゃダメでしょ」と言うだけだった。言われて出来るならケアはいらない。次郎の問題をこじらせるだけでなんの助けにもならない。ところが海老原さんは、次郎にそんなことは言わなかった。私の愚痴のような話を個別支援計画にも盛り込んで、長期的に問題に取り組んでくれた。

ある時は、突然の腰痛になってしまった私を助けてくれた。私の「息をするのも痛くて」という言葉を聞くや否や、”緊急一時預かり”の手はずをすべて整えて(山ほどの書類と、山ほどの関係機関への連絡が必要だったろうに)、次の日には、次郎を預かってもらえたのだ。急に預けられることになった次郎に会いに行ってくれて、次郎の気持ちを落ち着かせてくれたのも海老原さんだった。どれほど助かったか、どれほどありがたかったか。

それから、海老原さんは、単独型ショートステイの準備を着々と進めてくれていた。単独型ショートステイは、施設型のショートステイと違い、普通のアパートやマンションを事業所が借りて、そこでヘルパーさん(海老原さんはアテンダントと呼んだけれど)と一対一で過ごすのだ。食事時間があるわけでもなく、消灯時間があるわけでもない。食事をどうするか?入浴はいつするか?何をして過ごすか?何時に寝るか?すべて自由だ。より普通の生活に近いショートステイだ。次郎は夕食の買い物に行き、ヘルパーさんと食事を作り、一緒に片づけて、お風呂に入って寝るという普通の生活を私なしですることが出来るのだ。

そんな単独型ショートステイの話を次郎の学生時代の友達にしたら、「自分もそんなショートステイがよかったな~施設はいろいろ我慢してた。」と言った。やっぱりそうだよね。いろいろなことを我慢させられている。友達も利用したいと願う単独型ショートステイは事業として採算がとれないから、全国的にも少ない。

2021年11月10日
私が頼んだ自薦ヘルパーさんが登録に来てくれて、海老原さんが立ち会ってくれた。それで11月の半ばから次郎は喜んで単独型ショートステイを利用出来るようになり、私は少し楽になった。これから少しずつショートステイに行く日を増やしていけば、次郎に『ママが居なくても大丈夫』という自信が育っていくことだろう。

私は私の人生を取り戻し、今までやれなかったことをやるのだ!こんな希望に満ちた日が来るなんて、海老原さんのお陰だ。なんてお礼を言おう。どれだけ助けられたか、なんと言えばいいだろう。そうそう海老原さんのお手伝いをすることでこの恩を返してゆこう。

そう思っていた矢先だった。

2021年12月24日海老原宏美さんは、入院先の病院で力尽きて帰らぬ人になってしまった。

前日23日に海老原さんは私に「応援しまーす」ってメッセージくれたのに。

今度は私がお返しする番だったのに。

25日に悲報を聞いてから、私はちょっとしたことで「これからだれに相談したらいいの?」って泣きだして、次郎を困惑させ続けた。考えれば、私も海老原さんの命を削ったんじゃない?と自分を責めたりもした。
だけど、海老原さんの本を読んだりしているうちに、海老原さんの爽やかさや、軽やかさや、明るさを思いだして、海老原さんが命を削って守ろうとした障害者の人権を、今度は私が守ろうと思った。海老原さんの残した言葉や、実現させようとした夢を私は引き受けてゆこう。なんて決意を新たにしたお正月だった。

そして、次郎の初夢だ。

夢を見ながら次郎がオイオイ泣いていた。「次郎どうしたの?」と声をかけると、「ママ」「ダン」(死んだ)と言う。「ママが死んだ夢を見たの?」と聞くと、「うん」と次郎。なおも泣く次郎に、「ママは死んでないよ。生きているから泣かないで」と言う。それでもしばらく泣いていた次郎だったけれど、「ママは死なないから。ママはずっと次郎と一緒に居るから。ママは絶対死なないから。」そう言い続けていると、泣き止んでまた寝たようだった。

あーそうだ。次郎も海老原さんが亡くなって辛かったんだ。頼りにしていた海老原さんが亡くなって不安だったのに、ママだけが泣いて困らせるから、次郎は辛いまま過ごしていたんだと気づいた。

次郎が一番わかっていたよね。次郎の人権を守ってくれていたのは海老原さんだったこと。次郎の言うことを、一生懸命聞いてくれたよね。大抵の大人はいい加減なところで妥協させようとするんだよね。とことん聞いてくれて、妥協しないでやる人。そんな人なかなか居ないんだよね。

コロナが終わったら、またいっぱい楽しいことしたかったよね。次郎はコロナの間、事務所だって入らずに表で待ってたよね。海老原さんがコロナになったら大変だって思って、気遣っていたよね。

思い出すよね。始めて海老原さんのお家にお邪魔した時、海老原さんはいろいろ用意して待っててくれて、「次郎は何が好き?」って何度も聞いてくれて、御馳走してもらったよね。そしたら、食事が終わるころ、次郎が『ちょっと買い物行ってくる』って行きがけにチェックしてたお店にデザート買いに行ったよね。それが、ちょっとだけ甘いもの欲しい時にちょうどいい感じのスイーツで、海老原さんも「次郎、やるじゃん」って喜んでくれたよね。

そんな気の利く次郎のことをわかってくれて、次郎の当たり前の暮らしを作る一歩を踏み出させてくれて、次郎はどれだけ信頼していたことだろうね。悲しいね。

海老原さんの生き様はあっぱれと思うし、生き切ったと思う。さすがと思う。

でも、と思う。だけど、と思う。

障害者が命を削って人権を主張しなければ、あたりまえの人権もない今の社会って何?

行政の仕事は、人々がしあわせに生きるためにあるのだから、最小の労力で最大の効果を出すような仕事をしてほしい。行政の方から「困っている人はいませんか?」って探し出して助けてほしい。

「助けて」ってやっと声を出した人の手を振り払うのが仕事じゃないはず。

私はこれから、海老原さんの言ってたこと、実現させてゆこうと思う。
私は進行性の老化(笑)を抱えてはいるけど、次郎にも死なない約束したことだし、死ぬまでがんばる。なんなら、あの世から遠隔操作してくれないかな?あ、ダメだ。海老原さんがセミナーで『当事者というのは、課題や問題に気づいた人』って言ってた。主体的にやれ!ってことだ。時々は乗り移ってくれていいから、同じ方向をむいて、海老原さんが目指した”どんな人も安心して生きられる社会”を作っていくことを約束する。

それから、次郎が泣くから、私ももう泣かないことにする(この約束は守れる自信はない)。


海老原宏美さん、今まで本当にありがとうございました!!

書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。