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神様にもらった弟


<その1>

私には、自慢の三人の子どもがいる。花子、太郎、次郎だ。誰にも覚えてもらえるように、誰からも愛されるように、昔話に出てくるような、一度聞いたら忘れられない名前にしようと決めていた。
花子が生まれたのは1990年8月のこと。生まれてみたら、かわいくて、かわいくて、びっくりしてしまった。こんなかわいいものが、私のところにやってきてくれたことが、しあわせで仕方なかった。無我夢中でかわいがった。あんまりかわいいから、「子どもは何人欲しい」と問われれば、「山ほど欲しい」と答えて、聞いた人を唖然とさせていたものだ。
そんなわけで、太郎はすぐにやって来た。1992年の8月の予定日きっかりに生まれた律儀な男の子だ。またこれが、かわいくて、かわいくて、しかたがなかった。私は、かわいい二人の子どもに恵まれて幸せだった。子どもを育てることは、大変でも、それ以上の幸せを花子と太郎は私にくれた。
そうなると、次郎の登場も近いのだけれど、その頃には、少し状況が変わってきていた。私が、子どもに夢中になるあまり、子らの父のことを、置き去りにしていたようなのだ。しかも、子どものことに必死になっている自分は正しくて、そのことをわからない子らの父を、ひどく頼りなく思っていたのだ。頼りにならないと決め付けて、なんでも1人でやり、1人で疲れ果てていた。
そんな私のお腹の中で、次郎は必死に頑張っていた。私が無理をすれば、次郎に無理がいくとわかっていながら、そうすることしか出来なかった。
そんな私を支えてくれたのは、やはり花子と太郎だった。「赤ちゃんが生まれるのよ」というと、目を輝かせて二人は喜んだ。今でも、その笑顔をはっきり覚えている。私は、この二人のために頑張ろうと思った。

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<その2>


1994年の6月、次郎はとてもゆっくり、やさしく生まれてきた。超が付くほど安産だった。花子と太郎がお腹を突き破らんばかりに生まれてきたのに対して、次郎の出産は、やさしいものだった。お陰で、私はとても体が楽だった。
その喜びが不安になっていくのに、時間はかからなかった。おっぱいの飲みがよくない。いつも寝ていて、起こして無理やりおっぱいを押し込まなくてはならなかった。しかし、花子と太郎が三千グラムを超えて生まれたのに対して、次郎は二千八百グラムで生まれたのだから、少し元気がないのだろう、くらいに思い込もうとしていた。
しかし、はっきりおかしいと感じたのは、出産三日目。看護師さんが、「時間ごとの授乳はお母さんも赤ちゃんも大変だから、赤ちゃんがお腹がすいて泣いて起きた時に、お母さんを起こしますね。」と、やさしい言葉をかけてくれた夜だった。なんと、次郎は朝まで泣かなかったのだ。
翌日、小児科医に、不安を打ち明けた。おっぱいに吸い付いてくれないし、寝てばかりいるし、泣かないし、体重も減っていっている、と。小児科医は黄疸が引かないことを心配していた。
四日目には、保育器の中で光線療法が始まった。光線が目に入らないように次郎の目には覆いがされた。母乳性黄疸の疑いもあるので、人工栄養に切り替えられた。私は、抱くことも、おっぱいをあげることも出来なくなった。ただガラスに張り付いて、見ていることしか出来ない。おっぱいをあげることが出来なくなって、初めておっぱいの出ないお母さんも居ることに思いいたった。
なんの悩みもなく、いくらでも出るおっぱいを持っていた私は、随分思いやりのないお母さんだった。出ない、あげられない辛さなど、想像もしたことがなかった。おっぱいは、とても繊細で、ちょっと吸われないだけでも出なくなるし、出そうと思って出るものでもないのだ。
そして、心細い気持ちで病室にいると、幸せいっぱいのお母さんたちの中で、消え入りそうになるのだ。出産とはおめでたいことで、その幸せの中で、不安な暗い顔をしている自分など、居ないほうがいいのだと思う。
「今日ね、うちの旦那さん、赤ちゃんに会いに来る前に、シャワーしてきたんだって」「いいわねー」などと、楽しそうな会話を、恨めしく思う自分は惨めだった。


<その3>

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しかし、そんな惨めな私のところに、花子と太郎は賑やかにやってくる。花子はガラスの向こうの次郎に「がんばれ、がんばれ、ばんがれーあれっ、ひっくりかえっちゃた」と笑う。太郎が「赤ちゃん、赤ちゃん」と声をかける。自分がまだ赤ちゃんのようなのに、次郎に会いに来る。そうすると、ガラスの向こうで、目に覆いをして寝かされている次郎の口元が、少し笑うのだ。
お腹の中で毎日聞いていた花子と太郎の声がわかるのだ。「がんばれ」という声が届いているのだ。たぶん、次郎は、この二人のために頑張ったのだと思う。がりがりに痩せていったけれど、呼吸が止まることもあったけど、けっして死ななかった。
幼い姉と兄の応援は、狂わんばかりに心配している私の心にも届いていた。力強い応援だった。強い力で支えてくれた。
もちろん、小児科の先生や看護師さんの必死の治療のお陰で、次郎は一命を取りとめ、一ヶ月後には退院がかなった。しかし、とても不安な退院だった。


<その4>


毎日病院に来ては看護師さんに、「次郎ちゃんを抱っこしていい?」と聞いては断られていた花子は、退院した次郎のそばを一日離れなかった。

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太郎はそばに行って転んだりしたらいけないと思ってか、けっして次郎のそばに来ないのに、気づけばそっとやわらかいおもちゃを次郎の枕元に置いていた。

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三人はしっかり兄弟の生活を始めていた。問題は私だ。自分を責める気持ちが押さえられないのだ。花子と太郎に元気な弟を生んであげられなかったと後悔しては、沈んでいた。花子も太郎も今のままの次郎を、弟として迎え入れているのにもかかわらず。
私は、どんな子どもでも、私の子どもとして迎える準備はある・・・つもりだった。
なのに、ぐったり眠る次郎の寝顔に、「ごめんね、ごめんね」と謝るばかりなのだった。私が無理をしたから、私が人を頼ることができなかったから、私がお腹の次郎を大切にしなかったから、次郎が苦しんでいる。そうとしか思えなかった。

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<その5>


もしも、私が私の友人なら、「元気がない子どもでもいいじゃない。生まれてくれたんだから、元気を出して育てようよ」と言うだろう。「障がい児の生まれる確率は一定程度自然にあることで、あなたのせいじゃないのよ」と言うだろう。「子どもは生きようと頑張っているのに、落ち込んでいる暇はないわよ」と言うだろう。
でも、でも、私と次郎は一体だったのだ。私の細胞から次郎の体が出来て、私の栄養をおくり、私の体の中で育ったのだ。次郎になにかあるとすれば、すべて私のせいなのだ。すべて私のせいなのだ。
私のせいで、次郎は黄色い顔をして、今日も、ぐったり眠っている。連れ歩くことは難しく、花子と太郎を公園にすら連れて行ってあげられない。公園どころか、夕食の買い物すら出来なくて、満足な夕食すら作ってあげられない。
昼間はなんとか、子どもたちの世話と家事で、休む暇さえないけれど、子どもたちが寝静まった夜、寝顔を見ては涙が止まらなかった。私の体調は最悪だった。腰は折れそうに痛く、アトピーは悪化しじくじくしていた。
ひどい蕁麻疹で病院に駆け込んだものこの頃だった。皮膚科には、気の毒な患者さんがたくさんいた。ところが、鏡に映った自分はもっとも気の毒な患者だった。
ゾンビのようになっていた。

IMG生まれてくれてありがとう

<その6>


離婚をした。一緒にいると 蕁麻疹が出るのだ。
さあ、大変だ。三人の子どもの居る母子家庭で、しかも、一人は障がい児なのだから。毎月の通院がすぐにやってくる。ベビーカーに0歳児を乗せて、2歳と4歳の子どもを連れて、バスに乗るのは大変すぎる。病院は少し遠かったけれど歩いて通った。2歳になったばかりの太郎の足には、とても遠い距離なのに、太郎は抱っこも、おんぶも言わなかった。ただ黙って歩いてくれた。
この通院は苦痛だった。同時期に生まれた子どもたちが、どんどん大きくなっていくのに、次郎は相変わらず、寝てばかりだ。大きな音にびっくりして、力なく泣くくらいで、ちっとも成長しないのだ。三ヶ月検診は、なんとか大きさが違うくらい。四ヶ月、皆しっかりしてきた、手足をバタバタさせて、かわいらしい。次郎ときたら、相変わらず、ぐったりというか、ふにゃりというか、力なく寝ている。
次第に、病院に行くことが出来なくなった。もう皆、寝返りしている頃だろう。お座りや、はいはいもしているかもしれない。「うちの子ったら、いたずらして困るのよ」なんて、お母さんたちは言っているかもしれない。そのすべてを恨めしく思うだろう私は、とうとう、病院に行くことが出来なくなった。

<その7>


次郎には、何処にも悪いところはなく、ただ発達が遅れているということだった。受けられるだけの検査はすべて受けた。もう病院に行ってもしかたがない。人に聞かれれば、「この子は病院が嫌いなんです。入院していたときに、毎日採血をしていたから、白い建物を見ただけで、泣くんです。」と答えていた。
しかし、少しも大きくならないようでいて、次郎は次郎なりに成長をしていた。ベビーカーでのお出かけも得意になった。私がベビーカーを右手で押しながら、左手で太郎と手を繋ぐ。花子は、反対側からベビーカーをつかんで、さあ頑張るぞ。車は来るしバイクはすり抜ける、信号はすぐに変わる。
そうして出かけている途中、耳元で「りっぱです」と言って通り過ぎた人が居た。高齢の紳士だった。私たちが頑張っていることを見ていてくれる人が居る。認めてくれる人が居る。りっぱと褒めてくれる人が居る。見も知らない私たちに、声をかけてくださった方に、どれだけはげまされたことか。
私は少しづつ、元気を取り戻していった。

049 - コピー

<その8>


次郎は1歳でお座りが出来るようになった。この頃から写真が残っている。これ以前は、写真を撮る余裕さえなかった。やっとぷくぷくとしてきた。1歳半ではいはいをするようになる。はいはいをするようになると、花子と太郎の後ばかりを追いかけるようになった。二人のことが大好きなのだ。
次郎が2歳になるころ、私たちは、私の生まれ育った田舎に帰ることにした。花子6歳、太郎4歳、次郎2歳の夏だった。

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田舎での生活は、とても静かだ。鳥の鳴き声や、風の音しか聞こえない。次郎はとても耳がよく、都会で暮らしていたときには、バイクの音や突然やってくる新聞の勧誘の声や、遠く空を飛ぶ飛行機の音でさえ、びっくりして泣いていた。それから、人見知りがひどく、人の顔を見るたびに泣いた。
ところが、田舎で暮らし始めると、人恋しいほどの静かな環境のお蔭か、人が訪ねてくると、はいはいして真っ先に出てゆく。郵便屋さんの単車の音が遠くからするだけで、玄関で待っているようになった。
保健士さんが訪ねてくれたときも、私が生まれてからのこと、人見知りな性格のことを話している横で、保健士さんに遊んでもらおうとおもちゃをもってきて、ニコニコしている。人見知りなんて、私が思い込んでいるだけで、知らない間に、随分人なつこく成長していた。

 次郎は4歳で立ち、5歳で歩き始めた。そのことを、近所の人はとても喜んでくれた。
つかまり立ちをし始めた次郎がいつもつかまっていたのは、太郎だったし、次郎にぶつかりそうな子が居れば「ここに次郎が居るのが見えないの、気をつけてよ」と飛んでいくのは花子だった。次郎は、そんな二人が大好きで、自分がおやつをもらったら「食べなさい」といわれても食べないで、姉ちゃんと兄ちゃんに持って帰って、一緒に食べていた。

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<その9>


次郎はかわいいだけでなく、いつまでも手のかかる子どもで、おむつがとれたのは、小学校に上がってからのことだった。トイレの練習をしているとき、よく廊下でおしっこをしてしまうことがあった。そんなとき、花子も太郎もなにもなかったように、雑巾でふいて片付けてくれた。私がおしっこのことで、次郎をしかったりすると、太郎がやってきて、「おしっこのことやなんか、いっちゃダメだよ」と言った。そうだ、おしっこを失敗して一番傷ついているのは本人なのだから、言っちゃだめなのだ。
 小さな子どもの居る生活は、楽しくも大変で、私にとっては、散らかることが、一番苦手なことだった。散らかった部屋をみると、つい怒りたくなる。そんなとき、ぼおっと目の前に立っているのは太郎だった。怒り出したらあれもこれも、導火線に火がつくように止まらなくなるから、子どもはたまったものじゃない。すると怒られている太郎の横に次郎が立って頭をしなだれている。しっかり太郎の手をにぎり、一緒に怒られている。「次郎を怒ってるんじゃないよ」と言うのに、まるで自分が怒られているかのような次郎のしぐさが可笑しくて、笑ってしまう。
あるときは、私が例によって散らかった部屋を見渡して、今にも怒りそうな空気を感じたのだろう。私が、「花子、太郎」と振り向いた時、目に入ったのは、次郎が花子と太郎と手に手をとって、逃げてゆく後ろ姿だった。怒る気は一瞬にうせて、ほのぼのとした、温かいものが、心いっぱいに広がった。なんて、かわいい子どもたち。

IMG次郎2歳の誕生日

<その10>


「楽しいことは小さい順」「いやなことは大きい順」と決めていた。絵本を抱えて小さい順にならんでいる姿。美味しいものは、次郎からわけてあげる姉ちゃんと兄ちゃん。夕飯の準備で、次郎の相手が出来なくなると、太郎が必ず「次郎ちゃん、こっちで遊ぼう」と呼んでくれた。
私は、そんな子どもたちとの時間を今でも、宝もののように大事に思っている。その宝物は、次郎の中に、今でも生きているようだ。次郎はとても穏やかで、やさしいとよく言われるけれど、それは、姉ちゃんが花子で、兄ちゃんが太郎だったお蔭かもしれない。次郎がいたから姉ちゃんと兄ちゃんが優しくなったのか、姉ちゃんと兄ちゃんが優しかったから次郎が優しくなったのかはわからないけれど。


あるとき、私は、花子と太郎に聞いてみた。「次郎が普通の子だったらよかったと思わない。」と。

すると、花子は「ううん、次郎は次郎のままでいいよ。だってかわいいんだもん」と言った。

太郎は「なんでそんなこと聞くの。次郎ちゃんは神様からもらったんでしょ」と言った。



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