1994年6月14日のこと
2020年6月15日は次郎の26歳の誕生日だ。26年前の今日もよく晴れた夏のような日だった。
だけど、私は誕生日の事よりも、誕生日の前日の事をよく覚えている。
その日は、梅雨の晴れ間が広がるいいお天気だった。子らの父の仕事がお休みで、上の二人の子どもを連れて公園に遊びに行った。私はお腹が重く、これからは、ますます公園に連れて来ることが難しくなるから、貴重なチャンスだと思った。
私は元パートナーを子らの父と呼ぶ。私の人生のパートナーとしては、関係を解消していたので、せめて子どもたちの世話の一端を担ってほしいと思っていた。そんな私の期待を知る由もなく。。。。
子らの父は、公園に着くと、ベンチに腰掛け、子どもたちの遊ぶ姿を幸せそうに眺めながら、、、、寝てしまった。
真夏日の公園で、私は大きなお腹を抱え、3歳10か月の長女と、1歳10か月の長男の安全を見守り、砂場で遊んだ手を洗い、ジャングルジムに上りたいと言えば抱え上げ、支え、受け止め、抱っこして、そして、一緒に遊んだ。
子らの父の寝る姿を恨めしく見ながら。
おそらくお疲れなのだろう。子らを養うために頑張っていたのも事実だ。だから、『そのベンチに座って休みたいのは私だ』という一言を言えなかった。
その頃、私は、腰痛頭痛はあたりまえ。そこに歯痛が加わり、薬を飲めない妊娠中は、ずっと痛みに堪える日々だった。さらに、妊娠もいよいよ後期にさしかかり、お腹が重くなった頃、肋骨が折れたのではないか?というほどの痛みに苦しんだ。息をするのさえ痛いのだ。整形外科に行くと、レントゲンを撮れない今は、肋骨の様子は確かめられないから、妊娠に影響の少ない痛み止めを飲むことを勧められた。レントゲンは出産後に撮ることにして。
だから、私はおそるおそる耐えられない痛みには、痛み止めを飲むこともあった。もしも、子らの父が上の二人の子どもの世話を換わってくれるのなら、痛み止めを飲まずに、休みたいと思っていた。けれど、私の痛みは理解されなかった。ある日のこと起き上がれないほどの痛みに、「手を引っ張って起こして欲しい」と頼んだ時には、ちょっと嫌そうな顔をされた。『甘えるな』と思ったのか『大げさだ』と思ったのか、単にめんどくさかったのかは知らないが、そのちょっと嫌そうな顔に、『もう二度と頼むものか』と思ったものだった。
その頃の私は、人にものを頼むのが下手で、なんでも一人でやって、一人で我慢していた。ストレスも疲労も、不満もマックスにたまった状態で、体中がギシギシと痛んだ。
そんな私を応援してくれたのは、上の二人の子どもの笑顔だった。いつも「赤ちゃん、元気?」と労わってくれた。私はこの二人の為なら、頑張れると思った。
その日もそんな体調だったし、夕方になり、疲れて「そろそろ帰ろう」と、子どもたちに声をかけた。長女は、聞き分けの出来る年だったから、納得したけれど、長男はなにしろ1歳10か月だったから、まだまだ「遊びたい」と私の言うことを聞かなかった。「帰ってご飯食べよう」と言っても、「遅いから」と言っても遊んでいる。そんな長男の手を引っ張り、無理やりに砂場から引き離そうとする。長男は長男で、1歳10か月の精一杯の力で、砂場に座り込む。そうなった時の子どもの重さときたら、鉛でも抱え込んでいるのかと思うほどだ。
この時、私は助けてほしかった。子らの父が抱っこしてくれたら、その場から離れられる。けれど、そうしてくれないことの苛立ちを、子どもに向けてしまった。「帰るよ!」と言って、長男を叩いて、その場から引き離し、引きずって連れて帰った。
心の底で『子どもにこんな怒りかたをしたいはずがない。どうして助けてくれないのだ。どうしてやさいいお母さんでいさせてくれないのだ』と子らの父に対する恨みが渦巻いていた。
その後は、子らの父に頼りたいと思った自分にも腹が立ち、怒りに任せて、夕飯を作り食べさせ、お風呂に入れて、子らを寝かしつけた。優しくしていては乗り切れない時がある。怒りのアドレナリンが放出されている間は、その勢いで動けるということがある。なけなしの力を振り絞って、その日一日をなんとか乗り切った。
片づけを終え、「どっこいしょ」と縁側に座った時だった。口から「ごめんね」と言葉が漏れてきた。それはお腹の子どもに向けた言葉だった。「ごめんね、お母さん、しんどい。もう限界。。。。もしかしたら、もうあなたのこと、お腹に居させてあげられないかもしれない。」そう言って泣いた。
そうは言っても、出産予定日まで、まだ一か月ほどあった。あと一か月を大きなお腹で、痛む身体で家事をし、子どもの世話をする自信を、すっかり失って途方にくれて眠りについた。
陣痛が来たのは、次の日の朝だった。
昨夜の私の声を聞いていたのだと思った。
お腹も下がってきていなかったし、上の二人の時のような、激しい陣痛ではなかった。
けれど、じわじわと、ゆっくり生まれてきてくれた。
まるで、私の身体を労わるような、出産だった。
出産してから、私はさっそくレントゲンを撮った。骨に異常はなく診断は肋間神経痛ということだった。私は身体が軽くなり、肋間神経痛も和らいでいった。
私の身体が楽になったのと対照的に、生まれた子どもは、元気がなかった。次郎と名付けたその子は、それから、1か月の入院をして、生死をさ迷ったりしながらも、なんとか生きていてくれた。
それから、まだまだ大変なことは続き、現在に至る。
だから、この日のことも、忘れがちだ。
でも、この子が、私が「しんどい」と言った言葉を聞いて、私を楽にしてくれようとして、早く生まれてきてくれたことを、覚えておこうと思う。
生まれた日、私は思った。
「なんて優しいい子どもなんだろう」と。
それは、26年経った今も、変わらない。
PS:次郎は今日、通所している「生活介護事業所」で、誕生日を祝ってもらったらしい。ありがとうございます。私は、お陰で、頭の奥にしまい込んでいた記憶を引っ張り出し、思い返す時間をいただきました。なによりの誕生日プレゼントでした。ちょっと優しい気持ちで、26歳の次郎を迎えられそうです。
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