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殺すな!~相模原津久井やまゆり園障がい者殺傷事件から5年~

タイトルの写真は、うちの子たちが小さい頃の写真だ。子どもたちは寝る前に絵本を読むのを楽しみにしていたので、私を待っているところだ。こんなかわいい顔で待っていたから、毎日が幸せでたまらなかった。

しかし、この写真を見て『3人の子どものうち一人は、将来殺されるかもしれない』などと言ったらびっくりするだろうか。右側に写る次郎は、5年前の今日、神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」にショートステイ(短期入所)していれば、殺されていたのだ。

事件から5年が経つ。私は疲れた顔をしないように努め、ことさら幸せだとアピールをし続けてきた。次郎をやたらと人前に出し「あの日殺されていたかもしれないのは、こういう子どもなんです。」とも言ってきた。あの日、名前も顔も公表されることなく葬られた人々の、ひとりひとりの顔や人生、幸せや喜び、生きて来た証しを私たちの中に見てほしくて、前に前に出て来た。

その副作用のように、障がい者へのヘイトコメントは時々届く。事件の被害者の名前が公表されなかったのは、まさにヘイトの対象とされるからだ。弱い人をわざわざ踏みつけに来る人が居るのだ。そのコメントは、障がいのある人や家族の心を刺す矢だ。しかも以外とその矢は深く刺さり、なかなか抜けなくなったりする。私はヘイトコメントは速やかに運営に通報して、障がいのある人の目に触れる前に削除する。私はヘイトコメントに、最も弱い人を攻撃するしかない悲しい人物を見る。学歴社会の落ちこぼれだとわかる。おそらく、自分が言われてきたことを最も弱い、反撃することの出来ない障がい者にぶつけるのだろう。


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次郎は普通学校に小学校5年生まで通った。3年生までは同級生が3人しか居ない小さな学校だった。3人とも保育園から一緒だったから仲良しだった。4年生で吸収合併されて20人くらいのクラスへ。そこでも子犬(次郎は戌年だし)が舞い込んできたみたいに、みんなに可愛がられた。迎えに行くと、子どもたちが話しかけてきて「次郎ちゃん、超人気者なんだよ」と言ったりした。5年生まで普通の学校に居た。

けれど次第に、5分休みに着替えて体育とか、2階の音楽室に移動とか、無理になってきた。それまでは、他の子との違いに気づかなかった次郎も、そろそろ「ボクってみんなと違う?」と思い始めたのを機に、支援学校へ転校することにした。

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(転校する最後の日。先生が作ってくれた『ありがとう』の垂れ幕を見せる次郎。先生がめちゃくちゃ泣いてくれていた)

支援学校に転校してみれば、ひとりひとりの能力に合ったカリキュラムが組まれ、出来なくて当たり前、出来ればめちゃめちゃ褒めてもらえるという嬉しい環境になった。普通の学校は、皆同じカリキュラムをこなさなければならず、出来て当たり前、出来なければ指導される世界だ。そして、それまで時間的にも追い立てられるようだったのに、充分時間をとってもらえた。

笑顔で先生が待っていてくれるのが嬉しくて、次郎は大喜びで支援学校に通うことが出来た。支援学校には、隣接して障がい児の入所施設(私は小さい頃から家を離れなければならない施設での支援に否定的だ。家族と暮らせるよう支援すべきと思うからだ)があった。小さい時から入所している子どももたくさん居た。そのひとりが6年生で転校した次郎のことを聞いてきた。「次郎って今まで普通の学校に行ってたの?」私は答えた「そうだよ。」するとその子は不思議そうな顔をして「じゃ、次郎は去年まで話せたの?」と言った。私はにわかにその言葉の意味がわからなかったけれど「ううん。次郎はずっと生まれた時から、今まで話せたことはないよ」と答えた。その子は「ふーーん」とますます腑に落ちないような顔をした。

しばらくして、私は気づいた。あ、そっか!あの子は、普通の学校には普通の子どもしか行っちゃだめだと思っているんだ。次郎みたいな話せない子どもは普通の学校に居ないと思ってるんだ。たぶん彼は『あなたは普通の学校には行けない』と大人に説明を受けただろうから、自分よりも何も出来ない次郎が普通の学校に居たなんて、信じられなかったのだろう。彼のように支援学校には、普通の学校に様々な理由で行けなくなった子どももいた。なんの障がいがあるのか、全くわからなかった。私は支援学校が普通の学校から振り落とされる子どもの受け皿になっているように感じた。

そんな中、次郎はなぜか、障がいの最も重いとされる子どもと一緒にいるのが好きだった。障がいの重い子は、決して次郎をいじめなかったからなのだと思う。いじめるにも、いじめる能力が必要なのだ。だから、いじめる能力のない重い障がいのある子の傍に居ると安心なのだ。次郎はいじめる子から逃げて、いつも重い障害のある子と一緒に居た。

その安らぎを私も少しわかる。介助の仕事をしている時に、最も安らぐのが、最も重い障がいのある方々だった。人の介助を受け入れるというのは、究極の寛容さなのだと思う。もしも私が体が動かなくなって介助を受ける立場になっても、すべてを受け入れるなんて出来なくて、文句ばかり言ってそうだ。

だから、よくヘイトをする人が、『健常者が世話をしてやって、生かしてやっている』なんて言うが、実際は逆で、障がい者が、健常者を寛容に受け入れているのだ。私もよく思ったものだった。私のような未熟な介助者を、よくぞ怒りもせずに受け入れて、傍に居させてくれるものだと。

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この写真は、次郎が高校生の時初めて『台風』の意味を知った瞬間だ。それまでも、「台風だから休校になります」ということは毎年のようにあったけれど、次郎にとってはそう言われた時点ではお天気もいいし、なんで学校がお休みになるのか謎だった。この時初めてテレビから流れる台風情報を見て、『これが学校が休みになる台風ってやつなのか?!』と見入っているところだ。地図はフェリーなどに乗る時に、「今ここを走ってるよ」と見せたりしていたから、地図上を移動してくる台風がやっと想像出来たようだった。


重度の知的障がいのある次郎の成長を少しお伝えさせてもらった。成長の速さも、能力も違う、出来ないこともたくさんある。でも、喜びも悲しみも、楽しみも幸せも、もしかしたら、普通以上に感じて生きていることを知っていただけたら幸いだ。


相模原津久井やまゆり園障がい者殺傷事件5年目の夜に誓う。

これからも、私は書き続けようと思う。

すべては次郎、そして次郎たちが、殺されない社会にするために。

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