本因坊の歴史②本因坊算悦

皆様こんばんは。
予定外に投稿間隔が空いてしまいました。
原因の1つとして、この本因坊シリーズの書き方について色々と悩んでいました。
お待たせしてしまって申し訳ありませんが、ようやく再開です。


今回の主役は二世本因坊である本因坊算悦です。
算悦について語る前に、まず押さえておかなければならないことがあります。
それは、家元制度や幕府との関係は、最初からきっちり決まっていたわけではないということです。
四家がヨーイドンでスタートしたわけではなく、成立時期はバラバラです。
まず棋士個人が価値を認められ、そこから囲碁界というものが成立する過程の中で家元制度が確立されていったようです。

さて、初代本因坊の算砂(1559~1623)には3人の有力な弟子がいました。
中村道碩(1582~1630)、安井算哲(1590~1652)、本因坊算悦(1611~1658)です。
まず、道碩は算砂が亡くなる直前に名人に任じられています。
名人とは最強者に与えられる称号ですが、地位でもありました。
同時に2人の名人が生まれることはなく、ひとたび名人の位に就けば生涯碁界の頂点に君臨することも可能でした。
家元制度が確立する中で名人の権力も非常に大きくなっていき、名人を輩出することが各家の大きな目標となります。
道碩の頃は地位としてはそれほど明確なものではなかったかもしれませんが、非常に大きな価値を持っていたことは間違いないでしょう。
道碩の残した棋譜は、現代の棋士が見てもレベルが高いと感じます。
史上最強棋士の候補に数えられる本因坊道策(1645~1702)も、道碩から多くを学んだと言われています。
しかし、算砂の遺言により当時13歳の算悦が本因坊の跡目になり、道碩は後見人を務めることになりました。
その後、算悦は正式に本因坊を継いでいます。
また、道碩の弟子の玄覚(1605~1673)は四家の1つである井上家を興し、井上因碩を名乗っています。

また、安井算哲は四家の1つである安井家の始祖となった人物です。
元々安井家は武家ですが、算哲は囲碁により家康から禄を受けるようになりました。
その後、弟子の算知(1617~1703)が家元としての安井家を継ぐことになります。

さて、道碩没後の1644年、幕府の意向により、空位となった名人位を決めることになります(名人詮議)。
徳川家も3代目家光の時代になっており、様々な制度が整備されていく中の動きではないでしょうか。
ちなみに、名人の別称として碁所、あるいは合わせて名人碁所というものがありました。
こちらは名称からして地位を表していることが感じられますね。
名人詮議には各家元や老中などが集まったようですが、難航したそうです。
林家には有力者がおらず、算哲、因碩、算悦の3名が有力とされましたが、因碩と算悦は辞退しました。
また、算哲は就位に積極的だったようですが、認められませんでした。
最終的には算知と算悦の争碁によって決めることになります。

その理由ですが、やはり算哲の年齢でしょうね。
現代のように20代が一番強いという認識はなかったと思いますが、それにしても40代後半では明らかに打ち盛りを過ぎています。
それで弟子の算知が出ることになったのでしょう。
算悦も大先輩である算哲に対する遠慮があったのではないかと思いますが、算知が相手なら話は別というところでしょうか。
争碁がはじまった1645年、算知は28歳、算悦は34歳でした。

この争碁ですが、御城碁が舞台となりました。
御城碁とは将軍の前での対局であり、棋士にとって最高の舞台でした。
しかし、年に一度の御城碁を争碁の舞台にしてしまうとは、現代では考えられませんね。
しかも、局数が決められていなかったというのですから・・・。
結局、1652年までに6局打って3勝3敗となり、争碁は中止となりました。
現代のタイトル戦と違い、名人は碁界で明らかに一番の実力者でなければいけません。
仮にあと2局打って5勝3敗になったとして、その程度では決まりとはならなかったでしょうね。
最低でも10局は必要でしょうし、勝率に大きな差が付かなければ20局、30局ということも十分あり得ます。
それを年に1局のペースでやろうというのですから、そもそも無理な話だったのです。
果たして本当に決める気があったのでしょうか?
不思議に思いますが、各所の様々な思惑があったのでしょうね。
さて、それでは最後となった第6局をご紹介していきたいと思います。
算悦の黒番です。

1譜(黒1~白16)

黒1、3、5という平行型の布石ですね。
これが基本的な構えと認識している方も多いかと思いますが、江戸時代全体でみるとそれほど打たれていない印象があります。
さて、第1の注目ポイントは白16ですね。
白Aと下がるのはやや足が遅く、実戦のように軽やかに打ちたいところです。
黒Aには白B、黒C、白Dと対応して黒は上下をつなげることができません。
現代でも白16のような手をサッと打てるのは高段者以上かと思いますが、
情報のない当時も棋士は当たり前に打っていたのですね。

2譜(黒17~白26)

軽やかに動いたおかげで、白2と大場に先行できました。
そして白4~6は攻めの定型ですが、黒7、9とはまた軽やかな打ち方ですね。
一方、白10はどっしりした一手です。
黒Aの切りを防いだものですが、足が遅いので白Bの当てを選ぶ人が多そうです。
1図白16に関しては、好みの問題ではなくある程度の必然性があるので、本譜白10にこそ算知の碁の本質が表れていると言って良いでしょう。
足早な算悦、本格派の算知という対称ですね。

3譜(黒27~白36)

黒1とシマリの横にツケましたが、この手も当時からあったのですね。
左辺を割るだけなら黒Aなどでも良いわけですが、この手にはモタレ攻めの気分も感じられます。
しっかりした隅の白にモタれ、白×を狙っているわけですね。
現代碁に比べて、昔の碁は着手に意思がよく表れていると思います。
もちろん現代の棋士の意思が弱くなったわけではなく、情報量によって分かりにくくなっているのです。
常識の範囲が広くなったため、どの着手に個性が反映されているのか分かりにくいということですね。
さて、ここで黒は左辺をどう打つか問われていますが・・・。

4譜(黒37~39)

黒1、3!
派手な手筋が飛び出しました。
この手で真っ先に浮かぶのは黒3、白A、黒1の進行です。
それに飽き足らず、より良い進行を求めたのですね。
白BやCと反撃されて困るか困らないか、ギリギリのラインを攻めています。
これこそまさに意思を感じる打ち回しですね。

5譜(白40~黒47)

結果、白1とへこませることができました。
しかし、黒が7の所に押さえなかったのにはビックリしました。
石の流れからすれば押さえるしかないからです。
しかし、白Aと切られた後が難しいということですね。
場合によっては黒×などを捨てる進行になりますが、それが嫌だったのでしょう。
形は崩れますが、必死に頑張っています。
個人的には賛成しがたい打ち方ですが、強い意思は伝わってきますね。
また、本局が決して形式的な対局ではないことも示していると思います。


6譜(白48~白64)

白3、5の出切りに対して黒6、8と逆から動き、調子で黒10と間を出ていったのは手筋ですね。
ただ逃げるだけでなく、黒Aと地を得する手を残しています。
とは言え、白15と分断されてはいかにも黒が苦しいですね。
コミ無しながら、形勢は既に追い付かれています。

7譜(黒65~黒73)

黒1、3はモタレの手筋ですね。
白が上辺を受けていると、戦力が増えて中央を逃げ出すことができます。
結果、黒×は取られましたが黒9まで安定した姿を得ました。
途中、白8では9のハネも目に付くところですが、黒8のハネがそれ以上の好点で、右下白一団が弱くなってしまいます。
ここは逃せないところですね。

8譜(白74~白80)

この進行は不思議に思いました。
黒1と打っても渡れないところですが、あえて白1と力を溜めたのは右辺黒への攻めを意識していたからでしょう。
であれば、白5では単刀直入に白Aと打ち込むべきだと思います。
黒6でBと守られたら、白1と打った意味が半減してしまうからです。
しかし、実戦は黒6と隅の守りを重視したので、白7と打ち込むことができました。
こうなっては白の好調が持続しています。

と、気楽な第三者からとしてはこのように解説しますが、大一番の対局者は必死ですからね。
白は思わぬ好調から、この白番で勝つチャンスはなんとしてもものにしたい、という気持ちでつい固くなってしまったのでしょう。
一方、黒はおとなしく打っているようでは危ない、ということで黒6と隅を頑張ったのでしょう。

さて、白7と打ち込まれ、平凡に黒Aと逃げるのでは白Bと飛ばれ、白が楽な戦いです。
黒は何か工夫したいところですが・・・。

9譜(黒81~黒83)

実戦は黒1、3!
主に白×と黒×の位置関係により生じる手筋ですね。
2つの白を切り離しつつ、形を崩そうとしています。
次に白Aと打つのは空き三角になりますし、白BやCには黒Aと切ろうというわけですね。
私がこの手筋を習得したのは、プロに2子以内の棋力になってからだったと思います。
シンプルながらもレベルの高い手筋ですが、この時代にも使われていたのですね。

10譜(白84~白88)

空き三角に打つわけにはいかないので、実戦は白1、3でした。
黒2では3と打つ手も有力だったようです。
それはともかくとして、黒4と切れば白5のツケは当然の捌きの手筋です。
ここで黒はAかBか、あるいは黒Cもあるかというところですが・・・。

11譜(黒89~黒97)

なんと実戦は黒1の当てから黒3のハネ出しでした。
黒×を捨てて捌こうというわけで、これも手筋ではあります。
ただ、一方的に屈服している印象は拭えません。
この打ち方だけは賛成できませんね。

12譜(白98~白108)

しかし、本譜の白の打ち方も堅すぎますね。
白×を捨てて上辺の黒地を制限しようというものですが、いわゆる最低限の打ち方です。
白Aなどと踏み込んでみたいところでした。

こうしてみると、やはり両者十分に力を発揮できているとは言い難い気がします。
俗に「大勝負に名局なし」などと言われることがあります。
そんなことはないとは思いますが、大勝負のプレッシャーからミスが多くなってしまうのは現代のタイトル戦でもよくあることです。
では終身制の名人を決める対局ではどうかと言えば、推して知るべしですね。


13譜(黒109~黒119)

結局、細かい勝負になっています。
白6のハネ出しから黒4子を切り離しましたが、これは元々あった手です。
黒は他の方が価値が高いとみて放置していました。
さて、ここで黒Aの滑りなら平凡ですが、黒11のノゾキまで踏み込みました。
果たしてこの手は成立するのでしょうか?

14譜(白120~白126)

実戦は白1と退路を断ち、丸取りにいきました!
黒4には白5という鋭い踏み込みを用意しています。
白7の後、黒Aなら白Bで1眼しかできず、黒Bなら白Cでやはり黒がいけません。
黒が困っているようですが・・・。

15譜(黒127)

じっと黒△の下がり!
これが歴史に残る妙手でした。
もっとも、算知のレベルを考えれば、歴史に残るうっかりとも言えるでしょう。
これに対して白Aと傷を守るのでは、黒Bとスペースを広げられ、白C、黒Dと進んで生き形です。

16譜(白128~黒141)

ということで、白7と眼を取りにいきましたが、黒8から12、14の切りが成立します。
この後白Aと打ってコウですが、苦しい戦いです。
結果は黒6目勝ちとなりました。
ただ、ここの手順には色々と疑問が多いですね。
どうせコウなら黒10は不要だったと思いますし、コウに至るまでの手順もよく分かりません。
棋譜の間違いを疑っていますが、どうなのでしょうか・・・。

ともあれ、改めて棋譜を調べてみると昔と全く印象が違いました。
棋譜そのものだけでなく背景も考えることで、色々と見えてくるものがありますね。
両者にとって傑作とは言い難いとしても、この棋譜が残ったのは素晴らしいことだと思います。
算悦は名人にはなれなかったものの、二世本因坊として立派に務めを果たしました。


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