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先日祖母が亡くなりました。慢性心不全ということで、10年くらい入退院を繰り返した末で、葬儀では長寿銭を出すほどの大往生でした。
普段、人の死をコンテンツの糧にすることは避けているのですが、身内ですし、孫のネタにされることを嫌がる人でもないので、祖母の死と葬送の過程で感じたことを書き留めておきたいと思います。

10年前までは家事も畑仕事もし、ゲートボールやグランドゴルフで県大会を勝ち進み、旅行も毎年行って、だいぶ元気なばあさんでした。もともと運動が得意で、若い頃に卓球で国体行ったとか行かなかったとか?日本舞踊や社交ダンスや群馬名物八木節も踊ったりしてたらしいです。
大きな商家?農家?の出で、編み物や裁縫は当たり前にできて半纏やニット帽を作ってもらって使っていました。当時、群馬の女はうどんを打てなければお嫁にいけなかったそうで、うどんを打ったり、蒟蒻芋から蒟蒻を作ったり、お味噌もお漬物ももちろん自分で作っていました。お漬物は畑で取れた野菜や近所の人がお裾分けしてくれたものでつくるので、めちゃ大量に漬けられてました。納屋の樽をみたときは、冷蔵冷凍技術の発達した現代でも、この量は漬物でもなければ保存無理だわ、と子供心に得心いきました。

寝付いたきっかけは脳出血で、それ自体は幸い治療により回復したのですが、造影剤が腎臓にダメージを与えてしまいました。腎臓が弱ると心臓も傷むので、晩年はペースメーカーを入れていました。もともと血管系の疾患もあったので、なんというか、きっちり身体を使い切って死んだんだなと思います。なお入退院を繰り返しても、退院時には散歩に行ったり自分で身の回りのことはしていました。

最後の入院時には、透析をすれば生きられるという状態ではありましたが、本人が透析を拒否。透析後はしばらく体の調子が悪くなるので、したいことが自分でできなくなるなら生きていたくないという考えのようでした。家族で相談し、私の母の強い意向もあって、在宅で看取るべく容態が少し安定したところで祖母と叔母家族で住んでいる家に引き取ってきました。私は遠方なので休みごとにお見舞いに行くだけでしたが、在宅で面倒を見た母、叔母、叔母の娘(いとこ)は大変だったと思います。訪問看護サービスの手を借りつつですが、祖母は退院後はほぼ寝たきりだったので、それから亡くなるまでの半月、24時間誰かが見続けたわけです。

祖母の血縁や友人は多くが故人になっていましたが、残る妹や、祖母の亡夫の縁者、その他つきあいのある人がお見舞いにきて、知らせた人とはほぼ全員話ができたようです。コロナで病院では見舞いは制限が厳しく、かつ皆さん高齢なので、病院での最後であれば実現しなかったことだと思います。
私は半月の間4回ですが祖母の見舞いに行くことができました。行くたびに状態が悪くなる祖母を見て、ああもうすぐこの人はこの世からいなくなるんだと感じました。1回目のときは、喋りづらそうではありましたが会話もでき、辞去するときには絞り出すような声で「ありがとうね。気をつけて帰るんだよ」と言ってくれました。もう私も小さい子供ではなく三十なので気をつけても何もというか、気をつけるのはばあちゃんのほうだよ、と思い、いつまでも孫は孫なんだなと思ってすこし泣けてしまいました。
3回目に行った時、土曜日だったのですが、もう数日だと感じました。人と会う約束もあったのでその夜は一度神奈川の自宅に帰り、泊まり荷物を持って日曜の朝にまた家を出ました。昼に着くと、呼びかけにもほとんど反応はなく、血圧が下がり始めていて、足先が冷え切ってすこしチアノーゼも出ていたので、今日か夜中だろうと思いました。月曜日からの仕事は全部休みにさせてもらって、祖母の家で寝泊まりしようと思っていたところ、夕方に祖母が息を引き取りました。

日曜は、祖母にとっての、妹も、娘2人も、娘婿2人も、孫4人も、全員祖母と会っていて、家族に囲まれての最後でした。
それまではっきり音と口や胸の動きで確認できた呼吸動作がとまり、口に手を近づけても呼気を感じられず、手首の脈が次第に取れなくなるという経過を、まさに祖母に触れながら私は感じとりました。その場の誰もが祖母の死を理解しました。生から死への移行というものは、とても視覚的に理解しやすいもので、呼吸が止まり、続いて心臓が止まるので、息絶える、息を引き取る、という言葉は本当なんだなと思いました。
見る間に顔色も土気色に変わっていき、少しずつ体も冷えていくように感じました。私の父が、昼に来た時に、足があまりに冷たくてかわいそうだと言って布団に入れた湯たんぽがまだあたたかく、なんだか変な感じがしました。

その数日前から水もほとんど飲めなくなっていて、最後が近づいても、錯乱したり、騒いだりすることはなく、ただ静かに眠る時間が長くなり、そして当日を迎えたようです。私との最後に交わした会話が前述の「気をつけて帰るんだよ」と私の「ありがとう、また来るね」でした。

訪問看護の看護士と医師が死亡を確認して、エンゼルケアをしてくれました。死化粧をした祖母は、顔色が良くなって、さっきまでより生き生きして見えました。湯に浸したタオルで体を拭いてあげると、記憶よりずいぶん痩せてしまったなあと思いつつ、太ももの筋肉は筋肉の走り方がわかる程度残っていて、最後まで足腰の強い人だったなあとも思いました。

翌朝には葬儀屋さんが来てくれて、祭壇がつくられました。祭壇をつくるためにベッドを撤去したり祖母を少し部屋の隅に移動したりしました。私は部屋の隅でばあちゃんの横に座って、埃っぽいねー、大丈夫ー?などと声をかけながら作業を見守っていました。祭壇ができると、あるべき場所に安置された祖母の顔には布が被せられ、なんというか、急に仏様っぽさが出ました。祖母が息を引き取った時も、ああ死んだんだと思いましたが、祀られた祖母を見て、改めて死んだんだと思いました。祖母の布団にはドライアイスが入れられていて、初冬の上州で、祖母の体は氷のような冷たさでした。

弔問客は朝から何組も来てくれました。私はほとんど知らない人でしたが、祖母の顔を見て、綺麗だねえとみなさん言ってくれるのが何となく嬉しく思いました。家には身内が6人ほど詰めていて、応対には母か叔母が出ていたので、私は弔問客が立ち入る範囲の片付けをしたりしつつ、関係性がわからないので全員に挨拶はしていました。そしたら血族揃って背が高くプレイボーイだったという祖母の亡夫側の血筋のおじいさんに「この綺麗なお嬢さんはどこの子だい?」などと声をかけられたりして、お嬢さんって歳じゃないですけどと思いながら、人間はいくつになっても変わらないんだなとなんだか愉快でした。

大往生なので、悲しいというよりは寂しいという感じで、皆さん口を揃えて「こればっかりは順番だからねえ」と言っていました。この言葉はその後の葬儀まで何度も聞かれました。

順番。順番だなあと思うと、親の世代のことや、自分のときのことを考えます。親が死ぬ時、親が祖母にしていたような慈しみを自分が持つことができるだろうか。自分が死ぬ時、誰か送ってくれる人はいるだろうか。そして祖母は自分が数日で死ぬことを知っていて、怖くなかったんだろうか。
祖母は死の数日前に、早くになくなった祖父がそこまで迎えに来ていると言っていたといいます。自分が死ぬときも、死んだらどうなるのかは知らないけど、先に行っている親しい人が迎えてくれると思えたらいいなと思いました。私は信心深くないですし、死後の世界とかは信じてなくて、というか死んでみないとわからないのでわからないというスタンスなのですが、まだ生きている死を目前にした時間に、先に行った人たちが待ってるとなんとなく感じることができるならそれはいいことだと思いました。
なので、祖母の葬送はできるだけのことはやろうと思いましたし、死体に話しかけて何か意味があるのかと言われるとわからないのですが、祖母が安置されている部屋には時間を見つけては立ち入って祖母に触れたり、話しかけたり、なにもせずそばにいたりしました。そうでなくとも、祖母は私に色々なことをしてくれたので、死んだ祖母に届いてるかどうかは別として、姿があるうちにできるだけそばにいたいと思いました。

祖母の体は寝かされている間にも少しずつ変わっていき、皮膚の乾燥が進んで表情も少し変わって見えたりしました。それを見て、いつまでもこのまま家にいて欲しいけど、それはできないんだなというのも自然と了解しました。

葬儀は、親類縁者も友人も多くが先立っている高齢者の式で、かつコロナのさなかであるというのに、思った以上に多くの人が来てくれました。参列者から、祖母がよく様子を見に来てくれたとか、遊びに来てくれたとか、祖母の生前の付き合いの様子を聞きました。地域社会に生きた人だったんだなあと思います。

式ののち、お供えの花を何本かもらって、祖父の墓にお参りし、神奈川の自宅に帰りました。自宅で花を活け、毎日切り戻しをして水を変える度に手を合わせています。
初七日は繰り上げで葬儀と共に済ませており、七日ごとの法要は四十九日以外は行けなさそうなので、忌中はこの花に手を合わせて微力ながら追善供養とし、祖母の冥土と輪廻転生への道行きに助力できればと思っています。
宗教的な儀式は、信じる信じないとかとは違う次元で、自分たちがどれだけ故人を大事に思い、大事に扱っているかを示すために、しておきたいと思いました。それをすることで、順番で繋がる自分たちの連続性というか、生きてても死んでてもただステータスが違うだけでたいした差はないのだと、遅かれ早かれ自分も親も死者と同じように死ぬし、それはたいしたことではないんだと、今現世で会える人と一時会えなくなって、一時会えなくなっていた人とあっちでまた会えるというような、まとまらないのですがそんなことを体で理解するためにすごく意味があるように思うのです。あの世があるかどうかはわからないのですが。私の得たこの感覚は仏教的輪廻の考え方ともまた違うと思うのですが、祖母の死と葬送の過程を通じて、なんとなくそんな観念を体得しました。

祖母が息を引き取った日の翌日、いとこが推しのライブの予定があり、祖母の葬儀の翌日、私が浜省のコンサートの予定がありました。どちらも葬儀に重なるならキャンセルするつもりでしたが、土地柄通夜をしない風習があるということと、式場の都合などから、ちょうどどちらも行けるような葬儀日程になりました。いつも周りの世話ばかりしていて自分が世話をかけるのを嫌う祖母でしたから、よしなに日を選んで逝ったのかなと思います。
それもあり、ことさらに喪に服すつもりはありませんが、できることはしようということで、自宅にお花を飾っています。

ちょうど、葬儀の時にもらってきたお花がそろそろ終わりそうなので、昨日またユリと菊を買ってきました。忌中のうちはなんとなく仏花ぽい花を選んで飾って、水換えのときに手を合わせようかなと思います。

ばあちゃん冥土の旅頑張ってねー。

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