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デマ=悪意ではない。医療デマを先導する人、ついていく人。

医療”デマ”を信じている人たちに対して、反応する医療者の中に、過剰な反応をしている人がいるようで心配している。

契約と医療

医療デマを信じている人たちはどのような人たちなのだろうか。私は、もともと医療に対して不信のある人が、デマを信じてしまうと考えている。

医療はしばしば不信を生む。不信を持つのは、治療がうまくいかなかった人や不本意な治療が行われた人だ。

治療がうまくいかなかった場合に不信を持つのはなぜか。

医師は準委任契約に基づいて治療を行う。これは、患者本人が本来行うべき治療を、委託を受けた医師が代わりに行うという契約様式だ。この場合、医師は患者を完全に治すことを求められているのではなく、最善の医療を提供することを求められている。一般的なビジネスでは、請負契約が普通である。請負契約は、完成品を納品することが目的だから、こちらのものの見方に慣れているからすると、健康になるのを期待して治療を受けたのに、健康にならなかった、ということが、不満を残すかもしれない。究極的には、人はみな死ぬ。だから最善を尽くしたとしても及ばないことは、医療ではありうるが、治療がうまくいかなかった場合に不信を生む下地にはなりうる。また、最善を尽くすということも、完成品を渡すよりもあいまいであり、「本当に最善を尽くしたかどうか」という懸念を払しょくすることは、高度に専門化した医療においては「信じる」以外に方法はない。信じることについては後述する。

不本意な治療とは、例えば精神科の治療である。精神科の患者さんでは、自分が病気でないと考えている中で、周囲の人の勧めから治療につながり、場合によっては強制的に入院となることもあるから、治療を受けることがトラウマになっている場合もある。この場合でも治療がうまくいけば、医療を受けさせた家族をはじめ主治医など周囲の人との信頼関係を構築できるが、治療がうまくいかなければ、不信が溝を深めてしまうだろう。

追認バイアスが不信を加速する

もともと、不信があった人にとっては、医療の欺瞞に対する批判は、わが意を得たように感じるかもしれない。これはいわゆる追認バイアスである。

追認バイアスとは、自らの信念を裏付ける情報を採用し、反証を低く見積もるバイアスだ。なぜデマを信じるかといえば、それは自らの持つ不信に対する追認バイアスがかかるからだ。

重要なのは、バイアスとして「自らの信じたいことを信じること」には、悪意が全くないことだ。デマに追随し、それを広めようとする人の多くは、おそらく悪意はなく、むしろ「隠された真実の情報」を広めるという、善意に基づいた行動なのである。多くの善意の人達の間に、何らかの悪意を持った人たちが入って不安をあおることがある。悪意は、個人的な経済的利益の場合もあるし、意図的な復讐の場合もあるかもしれない。不信から不安を持ち、善意に駆動された多くの人に対して、一滴の悪意がもたらされることによって、不信はデマとして拡散していくのだろう。

悪意を持ってデマを広めようとする人自身が医師である場合など、”権威”を持っている場合には、医療に対する不信は、反医療への確信に変わる。悪意なくデマを信じる人の追認バイアスをますます保証してしまう。

確信を持った人たちは、”信者”と呼びたくなるような結束を持つ。

反医療は、一見科学的な情報を持ち出してきて、医療に反論し、医療は”真に”科学的な裏付けを持って説得しようとする。宗派論争のようになってしまう。そうすると冷静さを失って罵声を浴びせあうことになる(SNS上だけど)。

科学と信仰の違い

ここで科学と信仰の違いについて考える。この記事にも書いた。

科学と宗教の違いは、「科学は疑うことから始まり、宗教は信じることから始まる」という。しかし、多くの市民にとって、両者の違いはさほど大きくない。疑うことから始まる科学も、どこかの段階で信じるしかなくなってしまう。

簡単なことであれば、疑った場合に確認するということを自分の手で行える。たとえば、「鉄に電流が流れる」ということは電池の豆電球と鉄でできたものがあれば可能である。しかし、「電気は電子の流れである」ということは、確認できるだろうか。

「あらゆるモノは原子からできている」というのは科学的には常識である。原子については小学校の理科で教えられている。しかし、物質が原子からできていることを、証明できる人はどのくらいいるだろうか。ある物質が原子からできていることを証明できたとして、それがすべての物質からできていることに拡張することはできるだろうか。
電子顕微鏡を使えば、原子を”見る”ことができるかもしれない。しかし電子顕微鏡を自作して確認できる人は、まずいない。あるいは電子顕微鏡で撮影した画像が、合成されたニセモノに差し替えられたとしても、気が付かないだろう。

科学が高度に発展してしまうと、それを自分自身が確認することはできなくなる。たとえ論文に検証可能な方法が公開されていたり、客観的な再現性が確認されていたとしても、自分で確認ができない・理解できていない場合には、確認したと主張している人を信じるしかなくなる。

言い方は良くないが、素人にとっては”科学的な”客観性や再現性も、”信じるかどうか”、という信仰に帰結するのだ。

では科学と信仰は同じなのか。違う。

それは科学は「疑うことを許す」からだ。

信仰は信じる人を救い信じない人は救わない。疑う人は信仰を持てない。

科学的な事実に対して、もし何か疑いを持ったとすれば、科学はその事実が導き出された道すじを再現できる方法で示す。疑いを持つのであれば、高度な知識と技術を持つことができれば、再現することは可能なはずなのだ。

多くの科学的事実は、素人が一から学んだだけでは、確認することは難しい。専門家であっても分野が少し違うだけで、自分で確認するまでには、大きな労力を必要としたりする。科学を学んでいくどこかの段階で、「信じる」ことが必要になる。それでも科学は疑うことを許す。

科学は常に寛容なのである。

”デマ”がいかに間違っていようとも、デマを信じていることを理由に、デマを信じる人を貶めるのは科学的ではない。医療デマを信じている人は、医療に対して不信を持っている人であり、科学は不信を許す。疑うことを許す。

デマが広がってほしくない時できることは、論破することではなく、不信とその根底にある不安に向き合って、それを和らげていく、ということになるだろう。難しい。

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