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ヒトを人たらしむるものはなにか? 私たちはどのように人と出会うのか?

私たちは、人が人であることを忘れやすい

それはなぜか。人を「モノ」として扱うから。

どのようなとき、人は「モノ」になるのか。人をカテゴリーで分類するとき。 何らかのより大きな枠組みに、誰かを入れるとき、その人の個別性が失われていく。分類するラベルを張れば張るほど、個別性が失われていく。多くのラベルが張られた「モノ」には、良く説明されて詳しくわかるような気がしてしまうが、それは、人から離れていくことだ。

前後即因果の”誤謬”

前後即因果の誤謬という、有名な誤謬推理がある。前後関係のあるものに、因果関係を見出してしまうことが良くあって、それは間違いであるというものだ。これは、いわゆる自然科学的な論理構築の基本となるもので、例えば相関関係があることが因果関係を示さないことなどとも関連があるかもしれない。

自然科学的な推定において、対象となる事象は「繰り返し」「再現される」ことが前提になっている。数学的な公式は、誰がやっても同じになることが前提だし、物理的現象は条件が同じ時に繰り返し観察される必要がある。生物学的な分類は、同じ特徴を持った複数、繰り返し観察されるときに「種」になる。

一方で、私たちの人生は一度きりで決して繰り返されるものではない。

 例えば、「5年生存率80%のがん」という告知をどうとらえるか。 医学的には同じ状態のがん患者さんを5年間観察したとき、おおむね80%の人が生き残るという意味である。これは、予後としては比較的良いと考えられるかもしれない。しかし言われた方の患者さんにとっては命は一つ。一人の人が80%生きていて20%死んでいる状態にはならない。生きるか死ぬか二つに一つという意味で、5年生存率80%は決して高い数値ではない。

このとき、医療側では、ある患者さんの状態を再現可能なものととらえている。同じ状態が複数あるという見方。これに対して、一人の患者さんにとってのその状態は一度きりしかないのである。

つまり、私たちのあり方を、再現されうる事象の1回とらえるか、一度きりのものとらえるかによって、数値の見え方が異なってくる。一度きりしか施行できないのであれば、前後関係を因果関係ととらえるしかないし、前後関係に因果を見出すことのほうが適応的かもしれない。

理系と文系

端的に言えば、理系と文系の、自然科学と人文社会学の考え方の違いといえるかもしれない。理系では現象を再現可能、繰り返し可能な同じものとみなす。文系では、一度きりの事象をどのように考えるかが重要になる。

例えば、文学では、同じテーマを同じ切り口で語った小説に価値は薄い。ややもすれば盗作である。「歴史は繰り返す」が同じ条件を整えて、恣意的に同じ歴史を繰り返させることはできない。結果的に、歴史的な史実が同じようなもととして分類されるかもしれないが、それは比喩的表現の域を出ないかもしれない。

つまり、ヒトを、繰り返される現象として対象化し、分類し、 カテゴリーとしてとらえるとき、人はその個別性を失っていく。自然科学的なとらえ方、繰り返される事象として分類し、統計して、因果関係を”科学的”にとらえようとするとき、ヒトは人でなくなって、生物学的現象になる。

なぜカテゴリーで分類してしまうのか?言語の機能そのものが、差異を見出すものだから。

言葉の差異、固有名

”言語には差異しかない”。ある言葉は、AとBは違うということしか示さない。言葉として意味されるもののの本質を表すのではなく、意味するものとしての差異は恣意的な違いに過ぎない。差異を示すことによって、意味するものを共有するとき、同じものとみなされる。言語とは多くの場合分類、集合を示している。

分類や集合として、とらえられないものの代表が、固有名だ。固有名は、確定記述の束に還元されない。

クリプキの例に倣って、アリストテレスという固有名を考える。「アリストテレスは、1.プラトンの弟子で、2.アレクサンダー大王の教師で、3.スタゲイラ出身の、4.男性である」と説明したとする。このうちいくつかの記述が事実でなかったことが判明したとき、私たちの考えているアリストテレスは、別人を示すだろうか。ある固有名詞をもつ人を、特定の属性をもつ記述の束として、認識したとして、その記述の束をすべて否定したとしてもその人は別人にはならない。固有名詞は確定記述の束に還元されない。

つまり私たちは、人を、分類のためのラベルによって認識しているのではない。分類のラベルをいくつ重ねたとしても、その人にたどり着くことはできない。言葉で誰かを語ろうとするとき、その人に出会うことができない。

分類された言葉で、語ることができないのなら、私たちはどのように、人と出会うのか。

人と、どのようにで出会うか

一つは分類をやめることだ。ただし、あらゆる言葉は分類の機能を持ってしまう。誰かのと話すとき、常に私たちはラベルを張ろうとしてしまう。まずは、あらゆるラベルを前提として持ち込まないことが必要だ。

二つ目は、誰かを語ることができないなら、自ら語るのを聞くことだ。あるいはすでに固有名として認識している人に語ってもらうことだ。自らの語りであっても分類とは無縁ではないが、誰かが自分を語るとき、そこには物語が生じると思う。誰かに出会うためには物語が必要だ。

Brunerは幼児の言語獲得研究から、「論理-科学的様式(logicoscientific mode)」と「物語様式(narrative mode)」の二つの思考様式を指摘し、それらは相補的であるとした。私たちの思考様式には物語がある。物語はたいてい、前後関係を因果関係として認識することで成り立つが、ある人の人生にとってそれは決して誤謬ではないのだ。

誰かが語る物語をあらゆる前提を、ラベルを取り去って、その声を聴く。言葉の内容ではなく、語られる体験として聴く。その時に初めて、その人が生き生きとした人として立ち現れてくる。それは、言葉の連なりによって表される現象ではなく、話し手と聞き手が共有する、ただ一つの体験になる。

前提を取り払ったオープンクエスチョンと、傾聴は、ありきたりの技法であって、その実、人と出会うための高度な技法かもしれない。

人間というのは複雑なものだ。繰り返される生物としての現象であると同時に、一度きりの物語としての固有名詞でもある。野生に対立する理性であることもあれば、機械化された産業社会における非合理的な情緒でもある。

医学が単なる生物学でないのはなぜか。

生物学が人を見るとき、それは、上空から俯瞰する視点である。一つ一つの顔は見えず、おなじ”ような”ものとして、人が集団として語られる。このとき人の命は重さは平等である。一方で同じ地平立つとき、見える人の数は少なく、近くにあるものは大きく遠くは小さい。人の命は平等でなく、身近な人は重く遠くは軽い。しかし重みをもった人があるからこそ、遠くの人にも、思いをはせることができる。

医療が診断あてゲームになるとき、私たちはそこにいる人が見えなくなってしまう。一方で個別的な物語だけを見るとき、科学の恩恵を失う。両方の視点をバランスよくもつこと、対話すること。

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