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湊さんの問いかけ

海馬川柳句会 第2回(2024 年度)投句は2句まで。兼題は「歯車」。

  爪を塗りよい歯車になる支度     城崎ララ
  歯車の系譜を流す彼岸まで      成瀬悠
  わたしたちの歯車はジャムパンです  竹井紫乙
  デウスだったですよそれはもう紅白な 西脇祥貴 

主催者の湊圭伍さんの“総評”欄で、「川柳木馬」最新号のエッセイを転記する形で「文脈読み」と「そのまま読み」について書かれていた。
以下、太字が抜粋部分。

句の中の言葉を読み込むかどうか、というのが、現在の川柳の読みでは大きな分岐点となっているのではないか。

従来は句のなかに配された言葉はすべて重要なのだから、じっくりと裏の文脈まで、またそこに込められた作者の思いまでしっかりと読みましょう、というのが標準だったのが、そもそもそういう強制(またその裏にあるさまざまな社会的圧力)から逃れる方法もあるのじゃない、という視点も出てきている。

解釈というのが言葉が社会的に担わされている「意味」を読みとることだということは、その「意味」とその背景にある社会的しがらみを、解釈は追認することになる(作者や読者がもつ社会批判意識とは別のレベルで)、そこから逃れるような意識のありようが川柳ジャンルにはあるのでは、というのが、最近「現代川柳」をインターネット経由で興味をもって始めた人たちのひとつの傾向です。

言葉のもつ文脈の無視・拒否というのも、じつを言うと、現在の社会や言葉のありようをあんまりに正直に反映してしまっている気もするんですよね。文脈すべてから逃れようという傾向はきっと意識していないある文脈に、けっこう強いかたちで拘束されている気がする(それは逆説的にとっても分かりやすい「共感」なのでは?)。

でどうなんだってところで、考えられるひとつの行き方としては、上の「文脈読み」と「そのまま読み」を切り替えながら創作し、読み、考えていく、ということですが、これはこれで風見鶏的ともいえる。

ということで、悩み中です~。みなさんはどう思われますか。

私はかなり単純な思考をする人間だからか、湊さんの問いかけの
ここについては→(解釈~最近「現代川柳」をインターネット経由で興味をもって始めた人たちのひとつの傾向です。)社会的しがらみ云々という以前に(もちろんこの指摘に異論はありませんが)携帯電話の普及からのSNSの影響にも一因ありだろうと思っていて、実際の身体行動として文字を読む速度が上がっていることは人間の思考回路に大きな影響があるに違いない、文字を読む行為に対して忍耐性が薄くなっていることが「そのまま読み」に繋がっているのではないか、とまず思った。(こう思った理由はこれまた単純で、私は湊さんが書かれているところの“しがらみ”から完全に逃れることができる場所なんかどこにもないという考えだから、川柳がそんなパラダイスだとは認識していないことに寄ります)
実際には湊さんはもっと深い、面白い問いかけをされているのだけれど、
そしてそれはものすごく真摯な問いかけでもあるのだけれど(だってそうでなければ“風見鶏的”なんて表現は出てこない)湊さんの問いかけはほとんど<生きる姿勢>を問うに等しいものでもあるから、なかなか厳しい。
私自身は“風見鶏的”に他者の書いたものを読んでいけばいいと考えている。
なぜなら書いている人の方法論が各々相違している以上、仕方がないから。
自分が書く行為をする場合には、私なりのやり方を通すわけだし。
ということでゆるいゆるいコメントを談話室に出したところ
「そのまま読み」にもそうした読みを選択する「文脈」が見えてしまって、しんどいなと思う時がありますね。また、「文脈読み」もいろいろな人の読みを見ると多様化していて、それはそれで「破壊行為」に見える方向もあったり・・・。
というお返事が投稿されていて、これは本当にその通りで。
「読み」が破壊行為に見える時、危険を感じるし、かなしくなる。
むなしくなると言ったほうがしっくりくるかもしれない。














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