Orienteの駅1階にあるカフェにて。


2021年11月4日にフィールドノートとしてパソコンに書き殴っていた文章。

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Orienteの駅1階にあるカフェにて。

東京ではよく行っていた、少し広めのチェーンらしいカフェ。とても懐かしい気分になっている。ポルトガルのカフェ、特に自分の住む場所あたりにあるカフェたちは、白い箱に机と椅子とが並び、灰色がかったカウンターが部屋の片側一直線にくっついている、そんなイメージがある。オランダに比べて大きな窓があるわけでもなく、日光もあまり入らない。入ると少し重たい空気が身を伝って感じられ、それは滞在する自分を自由にしない。あまり表情の変えない店主のその表情につられ、思わず強めなポルトガル語が口を出る。カフェの少し上に吊り下げるようにして置かれているテレビで流れるローカルなニュースに目を向け、俺はこのカフェのルールを知ってるんやぞ、と思わず示そうとしてしまう。かと思えばふと何も考えていないかのように背もたれに寄りかかって壁を眺めてみたりもする。否、頭の中はその場の空気に身体を馴染ませようと必死なのである。

スタバを除いてそこに見つけたカフェは、空気の軽いカフェである。壁そのものが窓で埋め尽くされており、朝8時のまだオレンジがかった朝日がそこから鋭くも温かく差し込んでいる。カフェに流れる音楽はアリアナ・グランデであることから、なんとなく察しはつくだろう、よくあるチェーンである。席はざっと4,50席ぐらいはあるだろうか、丸テーブルに3つの椅子、ソファーと椅子が対になっている席、足が地面につかない高さのテーブル席と席のバリエーションも豊富である。全体的に落ち着いた茶色で統一されているが、天井はコンクリートという、とても「今風」なカフェである。

そのカフェを見つけた瞬間、思わず「ここだ!」となった。パソコンを開いていても、本を読んでいても、音楽を聴いて窓のそとをぼーっと眺めていても、きっと誰からも咎められない。いや、きっとその白っぽいカフェでも厳つい店主に咎められる事はおそらくないのであるが、問題は感覚なのである。身を馴染ませないといけない!と考えてしまう事、その感覚そのものが「咎められる」なのである。見渡せばパソコンを既に開いている人が3名、レポートらしきものに向き合っている人が1人、スーツケースを近くにおき携帯をいじっている人がちらほら、もちろんおしゃべりをしている人たちも多くいる。リスボンについてから約2ヶ月、物理的に一人の時間はそれなりにあったけれど、完全に一人になる時間は実はあまりなかったのではないかと思う。頭の中は常に誰かといた、モザンビーク人と、友人と、指導教員と、家族と、フラットメイトと…。この「今風」なカフェは、交差点みたいな場所である。一度だけふらっと立ち寄る人、何度も来る人、そのどちらにもそのカフェは濃く色付けられる事はない。各々が好きなようにカフェを使えばいい、個々人に文脈を委ねたその感じは、受け取り手の解釈に身を任せた現代アートみたいだな、なんて少し思ったりもしている。
「人は、生きるためにはつながり合っていないといけない。でも同時に、繋がるためには紙1枚、切れていないといけなくもある。」とある知人のツイートが頭に浮かぶ。繋がりすぎてていてもいけない、切れすぎていてもいけない。人はその絶妙なバランスの上に立っている。そしてきっとバランスを取れていると完全に感じられる人はいないだろう。常に繋がりすぎていると悩み、そこから脱して自由になれた!と思えば孤独に悲しみ、つながりを求める。ただ、今息を吸って吐いている人たちはきっと、それ自体がその一本の糸の上を歩く大道芸のような、際どいバランスを取り続けてきたという証拠であろうとも思う。喜びとか苦しみとか、そういうものから完全に距離をとって今生きている人たちの生活について語れる人が仮にいるとするならば、そう言うに決まっている。

思えばきっと、自分が大学に入ってから今に至るまでは、ずっとそのバランスに正解があるのだと思い続けて、それを追求し続けて、今ここリスボンにいる。アカデミア、という何か「真実」を探求する文脈に身を置いているのも、それが理由であるように感じる。そして「モザンビーク (がなんたるかは正直わからない)」に今も向き合っているのは、隣の芝は青く見えるのまさにそれ、今まで出会ってきたモザンビーク人が絶妙にそのバランスをとっているように自分の目には写ったからである。繋がっているけれど、独立してもいる。だからこそ、自分の人生に対してアクティブである。

2018年、モザンビーク。3年も前のことだから、出来事としての記憶は正直うろ覚えである。何度も何度もその頃の記憶、〜写真としての記憶でもあり、感情としての記憶でもある〜をこの3年の間繰り返してきた。「人は、生きる上で自分だけの想像上の逃げ場を作るもんだ」というとあるドラマの言葉を借りるのであれば、その頃の記憶を自分はこの3年を生き延びる上で頼りにしていたのであろうと思う。その結果、「モザンビーク人は人生にアクティブである。そしてそれはきっと同時につながっているからでもあるような気がする」と今でも言い続け、それを“リサーチ”したいと今、言い続けているという事は、自分がその点において苦しんでいる、という感覚を持ち続けているということに他ならないのだろう。今のリサーチのモチベーションは、「2018年にみた、モザンビーク人とはなんだったのかを知りたい」その一点なのである。自分の研究に対して、外側の理由をつけようとすればするほど、自分のやりたい事はわからなくなっていった。だからあえて、アカデミックな言葉を無理に見つけようとする事は一旦諦め、自分の言葉で綴ろうと思い至ったのである。

どうすればあの頃のモザンビーク人に近づけるのか。あくまで私は、彼らからみた、「彼ら」に近づいてみたい。自分の言葉でしか始まっていない自分のその印象を、彼らの言葉で再構築したい。そうする事でしか、あの頃のモザンビーク人には近づく事はできないだろう、そう信じている自分がいる。そのせいもあってか、全くリサーチクエスチョンをクリアにすることができなかった。「アクティブなモザン人/ それへの憧れ」という自分の感覚を一番率直に表しているその言葉から、はじめたかった。アイデンティティや帰属の感覚という抽象的な言葉は、そもそも自分の勝手なイメージづけから始まっているこの調査に、また自分が勝手に憶測を重ねてリサーチを進めている、言い換えれば、自分の頭の中でフィールドを作ってその上でしか戦わないような、そんな感じがしてしまうのである。それでは自分の関心ごとにアプローチできない上に、彼らに対してとても無礼であるように感じてしまった。脱植民地主義に関して、このフィールドワークを始める前、何度も何度も授業で考えてきたが、自分が一番印象に残っている言葉は、「アフリカは、自分たちが自分たちを表現するスペースを奪い取られ続けてきた」という言葉であった。この過ちを犯さないためには、リサーチクエスチョンそのものが、彼らの言葉で紡がれていなければならないと感じている。そうでなければ、またヨーロッパの側が、というより「外者」が勝手に作り出したイメージの中で、物事を考え、勝手にそれを「アフリカ」として表象してしまう、そんな気がするのである。

とはいえ、ならば「外者」である自分の役割が完全に消えてしまうという事はないと感じている。それは、「外者」である自分が感じたその感覚は現実であり、それは「モザンビーク 人」と自分の差異から生じたものであるはずだからである。そして、「2018年のモザンビーク人」を理解しようとする過程で、自分は自分の言葉でそれを説明しようと試みるだろう。それは自動的な営みだと思う。何かを理解したい、と思う時、自分は自分の思考枠組みで、持ち合わせた言語の中でそれを説明しようとするからである。その中で紡がれる言葉は、否が応でも、自分の育ってきた環境や教育を受けてきた中で使われてきた思考枠組みが使われているはずである。問題なのは、その言葉が「アフリカ」を覆ってしまう事である。彼らの言葉が仮に研究に組み入れられていたとしても、最終的に「外者」の言葉で締めくくられていたら、そしてその「外者」の言葉が彼らの手の届かないところで語られていたとしたら、植民地の問題は永遠に続くと思う。

これが解決されるには、「外者」としての言葉と、彼らの言葉が常に行き来していないといけないと思う。「2018年のモザンビーク人」に対して、自分はなぜ憧れているのか、それがどのようなものであったのか、を「外者」の言葉を用いて彼らに説明し、その言葉を受けて意識したものをまた自分が集めて考え、また「外者」の言葉を用いて彼らに説明し、彼らの言葉で確認や訂正、思うところを言ってもらい…の繰り返しをしていきたい。そうやって、「外者」と彼らの世界をどちらも使いながら、「2018年のモザンビーク人」がなんだったのかを手繰り寄せたいのである。


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