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2011.3.11 あれから10年 2021.3.11忘れない忘れたくない 語り継ぐ事の大切さ

世界的にコロナが大流行な中、私は前厄を迎え、
2021年、本厄真っ最中である。

もはや私が厄年なのか、
世界的なものなのか、区別が出来ない。
恐らく今後、抜け出せたと思える日はなかなか来ないかもしれない。
そんな覚悟さえある。

あの10年前、
誰が今の世の中を想像できただろうか。

地震大国日本ではあるが、
地震の衝撃がかなりの広範囲であったこと
あの津波、原発の事…
日本のみならず、世界も衝撃を受けた
あの東日本大震災とそれに関する様々な出来事。
毎日の不安、未来への不安、
ただただ復興を祈るばかりだった。

当時私は大学3年生の春休みで、
4月から上京してくる妹と一緒に住むため
引っ越しを控えていた。
あの日は、恐らく前の日に飲み会で、
バイトが17時からだったため、
ゆっくり起床しシャワーを浴び、一息ついたタイミングだった。
当時東京の端っこのアパートの2階に住んでいたが、
今まで感じた事のない揺れが起こった。
最初は、「あー、地震か。」程度だったが、
気がついた時にはグラスのお茶が大きく揺れ、
押さえても無駄なほど溢れた。
他の家具なども揺れたはずだが、グラスのことを
なぜだがよく覚えている。

普段ほとんどテレビを見ない生活をしていたので、
当時はお飾り程度だったテレビで、地震の状況をすぐに確認した。
震源地は宮城、福島…
実家の青森はどうだろうか。
東京でこれだけ揺れたのだから被害はあるだろう。
当時ガラケーだったのかスマホだったのかもわからないが、
とにかくひとまず自分の無事を知らせないと
あと実家の無事を確認をしたかった。
電話が繋がらない。メールを入れよう。
その後、大学のみんなと連絡を取り合った。
特に一人暮らしの子たちは1人にならないように。
電車も止まってしまい、バイトに行けなくなった。
無論、バイトどころではなかった。
もちろん大学にいた子は帰れなくなったので、
近隣の1人暮らしの子の家へ避難してきた。

みんなとやりとりしている中で、衝撃的な映像が目に入ってきた。
津波だ。
当時、津波の映像が早かったのが八戸だったと思う。
地元、青森県の中でも大きな港町。
あの濁流が流れ込む状況が、本当に起こっている事なのか、
私はふわふわした様な感情で見ていた。
でもそれから、段々と、三陸など、
東北の沿岸部がどんどん津波にのまれていった映像は
忘れられない。

それからは、身の回りの状況を確認し、
友人たちの無事を確認し
私は同じく1人暮らしだった友人と私の家で一晩明かした気がする。
この辺からは、全てあまり覚えていない。
恐らく、大丈夫と実家からメールがあったが、
それきり3日ほど連絡が取れなった記憶がある。
青森は停電で、電話が繋がらなかったし
携帯の回線もパンクしていた。
そんな状況であったが、
実家ではカセットコンロで料理ができたし
寒かったら布団にくるまっていればよかったから、
大丈夫だったわよ。なんて、母は言っていた。

当時私には彼がおり、私の1人暮らしを心配してくれ、
実家にしばらく置いてくれようとした。
本当にありがたい申し出だった。
が、この辺は色々割愛する。
この辺の思いはまた別なものなので、また今度にする。

5日後くらいだったろうか。
私は同じく上京してきていた高校の同級生と、飛行機で青森へ帰った。
新幹線がダメだったので、飛行機なら、
手配できそうだと声をかけてもらった。

そこで、ようやく、緊張の糸が切れたのか、
本当に何も思い出せない。
思い出せるのは、春から大学1年生になる妹との暮らしのため
必死だったこと。恐らくこれから引っ越しは大変になる。
だから、不安だろうけど、予定通り引っ越すしかない、と
業者に言われたことは鮮明に覚えている。
それから、恐らく1週間ほどは実家にいたので
その後すぐに引っ越し準備をして、
約2年半過ごした1人暮らしの部屋を後にした。
怒涛の3月だった。

それからは、新しい生活に慣れる事、
大学4年生は研究
大学5年生は実習
大学6年生は国試の勉強
怒涛のように過ぎ去った。

そんな中でも気がかりは沢山あった。
2歳あたりから6歳まで、
私は福島県南相馬市に住んでいたのだ。
当時は原町市。
6歳なので覚えている事・覚えている人もいる。
母が連絡の取れない友人がいると言っていた。
私もよく遊んでいた家族だ。
他の方は仙台に避難したなど、連絡がついていたものの
しばらく会っていない人であっても
自分の記憶にある人にもし何かあったら…と
考えるだけでも心がざわざわして仕方なかった。
当時の映像をみるだけでもつらかった。
そこまでの当事者でもない私が、泣いてしまうのだ。
それは、被災者にとって大変失礼なのではないかと思っていた。
だから、東北の復興を願いつつも、
遠くからの応援で精一杯であった。

でも何か、何かしたいと漠然考えるのであった。

そんな私は大学卒業後、入社した会社の配属地が仙台になった。
震災から3年後であった。
それから徐々に仙台で知り合った方々から、当時の話を聞いたり
自分で宮城県の被災地へと伺うこともあった。
普段の自分の生活圏では、復興が進んでいると思っていたが、
沿岸部は、私が思っているよりも進んでいないこともあった。
5年経つのに、まだ、と思ってしまうこともあった。
心が震えて、写真に収めることもできないこともあった。
それから、あっという間に震災から10年を迎えた。

こんなコロナ禍の状況も相まってか、
会社の取り組みで、被災地の語り部さんのことを知った。
私が中心で、オンラインセミナーやってみないか?
と声をかけてもらった。
漠然と何かしたいと思っていた私は、
「あ、これか。」と思った。
ぜひ、と引き受けた。

遡ること、1995年1月。
阪神・淡路大震災。
私は小学1年生であった。
青森から遠い場所で起った大地震だったが、
私がよく覚えているのには理由があった。
小学校の用務員さんが、阪神・淡路大震災の
ボランティアに行った時のことを、子供たちに語ってくれたのだ。
おそらく30歳前後であったと思うが、
当時7歳の私からしたら大の大人のお兄さんだ。
そんな大人が、涙ながらにどんなに大変なことなのか
教えてくれたのだ。

私の中で、「これか。」と思った理由は、
この経験だった。
今思い返して、1995年ということに衝撃を受けた。
当時7歳の私が鮮明に記憶していることに驚いた。
でもそれほど深く刻まれるということは、
被災者や関係者から話を聞いた方が絶対に良い、
聞くべきだと思ったのだ。

31歳になった私が、2020年コロナ禍において、強く思った。
多くの人に聞いてほしいと思った。
震災を風化させない、というが、ニュースなどで見るだけではなく
実際に生の声を聞かなくては、という思いに駆られたのだ。

2021.3.11
東日本大震災より10年。
サンドイッチマンの伊達さんが、
「ただ、10年経っただけ」と言っていた。
その通りなのだ。ただ、10年が経っただけなのだ。
富澤さんは、
「震災を語れる人は、前をむけている人。本当はまだまだ語れない人もいる。」
そう言っていた。時が経って解決してくれる問題ではないのだ。
無理に語る必要もないのだ。

ただ、私の個人的な考えとしては節目節目で振り返るタイミングだと思う。
特に個人としてではなく、国や県や町、大きな単位で。
10年でこれだけのことができた。
でも10年あってもこれができていない。
検証のタイミングでもあるのだと思っている。

その後、3.13
語り部さんのお話を聞くセミナーを実施した。
わかっていても、心が震え、涙が出てしまった。
リモートで良かったとさえ思ってしまった。
1番辛いであろうご本人を前に、泣いていただろうから。
ご自分が大変な思いをされたにも関わらず、
話すことで思い出してしまうこともたくさんあるだろうに、
私たちにたくさん刻むように教えてくれた。
今、書きながら言葉を思い出しながらも、
涙が出てしまう。
その方は、最後に仰っていた。
「生きている限り、この話は伝え続ける」
先人の経験は絶対に後世に残すべきだと
力強く仰っていた。

セミナー後、
私の「これか。」という思いは間違っていないかった。
と思えた。
語り継ぐことで後世への災害の警鐘となるのだ。

何かしたい、と、漠然と考えていた10年。
7歳の頃の自分に気付かされた、語り継ぐことの大切さ。

未だに心が震えてしまうが、
私は震える自分自身に向き合うことにする。
涙が出てもいいじゃないか。
自分の記憶している町じゃなくてもいいじゃないか。
まずは訪れることから始めよう。
私の幼少期を過ごした、福島県南相馬市原町区。
そして、今いる宮城県を。

まだまだ私の中での復興は道半ばだ。

そして、3.11という日は
日本人にとって忘れられない日であることは間違いない。
だが、この日がまた違う意味で大切な日である人も多くいる。
誕生日、結婚記念日、初めて〇〇な日…
たくさん嬉しい日かもしれない。
その方々には全力を尽くして、「おめでとう!」と
言わせてほしい。

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