松原正毅著 遊牧の世界(上、下) トルコ系遊牧民族ユルックの民族誌から(中公新書) 読書メモ

  • 「カトゥシュ」と友人関係を基盤にした間柄

乳を飲ませない技術  搾乳の率をたかめるためには、子どもに乳をのみつくさせないことが必要だ。牧畜の技術はその点をめぐってさまざまな形でエラボレートされている。乳をのませない技術の基本的な原理は、母子隔離にある。 ユルック*1では、母子隔離の方法としてカトゥシュをおこなっている。カトゥシュは「まぜる、なげいれる」などの意味をもつ動詞カトゥマクの名詞形だが、ふたつのチャドル*2のあいだで子群を交換する方法をさす。夕方放牧からかえってきた群れのなかからオーラク*3をえらびだし、となりのチャドルの群れのなかにおいこむ。そのかわりにとなりのチャドルのオーラク群を自分の群れのなかにうけいれる。この状態を翌日の午後におこなう搾乳時までたもつ。自分の子ども以外にぜったいに搾乳をしない家畜の習性をたくみに利用した方法、といえよう。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P67-68

*1 ユルック トルコ共和国各地で遊牧生活をおくるトルコ系遊牧民族の名称 
ユルックの意味は「あるく人、放浪者」で、動詞ユルメック(あるく)の派生語
*2 チャドル 黒ヤギの毛で織ったテント
*3 オーラク 子ヤギのうち、哺乳に加えて草を食べはじめた段階のもの。哺乳のみのものはキョルぺ、完全に乳離れしたものはチェビチ、と細かく名称がわけられる。

 一九七九年、一九八〇年をつうじて夏営地や秋営地におけるカトゥシュの状況を概観すると、友人関係を基盤にするものがもっともおおい。そのほか、妻方の父親と娘婿のチャドル間、兄弟のチャドル間などのカトゥシュが少数例みられる。一九五〇年以前、ユルックの遊牧活動の集団規模のおおかった時点では、姻族および親族関係をもつチャドル間でのカトゥシュの率はもうすこしあがるようだ。ただ、カトゥシュをおこなうチャドル間で、相互的な助成をおこなう以上には特別な社会関係をむすびあうことはない。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P69

著者が調査のため長期間にわたって同行したチョシル・ユルックの一員であるムスタファは、十数年にわたって移動グループをおなじくしてきた親友どうしであるベキルのヤギ群とのあいだでカトゥシュを行なっている。(両者の年齢はほぼ同じで、親族関係はなく、ベキルの父がムスタファの長姉と一年間だけ結婚生活をおくった後離婚している、というくらいの関係)

この友達関係を主にした、ゆるい関係のシステムがあるのが面白いと思う。カトゥシュ以外にも子ヤギや子ヒツジの哺乳を妨げる方法は、母の乳房に牛糞を塗りつける(子はその臭いを嫌がる)などがあるみたいだけど、カトゥシュはその手間を省いて母群と子群を交換してしまうためだけの単純な方法であり、間柄。木地師の個人の移住史の観察を行なった(「氏子かり帳」に記録される木地師の時空間 江戸時代における木地師の所在地とその変遷の空間的分析.P52-)時にも、どうやら兄弟でも親子でもない間柄で集団を形成している人々がいるらしい、ということが分かったけれど、トルコの遊牧民にもそういう親族以外の関係があったらしい。世界中に存在した、こういうゆるい関係をもっと知りたいし、集めてみたい。

ただ、こういうカトゥシュのような集団未満の間柄は、木地師の集団と違って資料としてリストアップされることがないように思える。夏営地、秋営地、冬営地の登録に伴って集団(例えばこの「チョシル・ユルック」)のメンバーや代表者が周辺の村人・行政などの定住者によって記録されることがあっても、カトゥシュのような名もない関係性(ユルックではカトゥシュを行う関係性に名称がない。似たシステムがハルハ・モンゴルにあるが、そちらでは関係性に名前があり、サアハルト・アイルと呼ばれる。互いのグループのなかで婚姻を結ぶ慣習があるなど、ユルックにはないより緊密なつきあいなどの特徴がある)が記録に残る機会はなかなかなさそう。
そう考えると、この著者の調査の記録は余計に素晴らしいな、と思う。

  • 夏営地の所有権をめぐる争いと、ピンチにおける強み

一九七〇年、一九七一年の二年にわたって、サチカラル・ユルックとサル・イドリス村とのあいだで夏営地の所有権をめぐって武力衝突があった。この夏営地は、ふるくからサチカラルがつかっていたものである。ただ、村境の区画からいうと、サル・イドリス村の村域内になっていた。村境の区画は一九五〇年代のはじめに行われている。…この後、夏営地をめぐる村とユルックのあらそいは裁判にもちこまれた。ながいあいだ係争されたが、一九七九年に最終判決がでた。夏営地は法的にサチカラル・ユルックの所有とみとめられる。一九三〇年代後半に、サチカラル・ユルックの九十人の名義で土地の登記をしていたのと、ちかくにある墓に二〇〇年以上まえからのかれらの祖先がほうむられていた証拠のあったのが、勝訴の有力な要因となった。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P116-118

土地に関する権利のあらそいが裁判に持ちこまれ、移住生活者側の資料が証拠による優位が証明されている。木地師においても、あらそいが生まれた際に木地師側が百年以上にわたって残してきた資料が優位となって、裁判に勝った記録がある。木地師の場合は、管理者たる小椋庄の人々による、全国に散在する木地師たちからの定期的な金銭の徴収が、その際に残した百年以上にわたる記録によってその正当性を証明されるに至ったけれど、このユルックの場合は、それが土地の登記に加えて、先祖代々の墓が役立っている。

ユルックのような遊牧民は土地を不規則に漂泊しているのではなく、夏営地・冬営地などの決まった場所を季節ごとに使い分けて暮らしている。だから、墓も決まった場所にまとまってある。(木地師の場合はそうとは限らず、移住生活の中での最終地点、つまり死んだ時にいた場所に墓が建てられ、生き残った子孫たちはその墓を離れてまた移住していくことが多かった)そうすると、このサチカラル・ユルックの場合には二〇〇年以上の蓄積が生まれて、それは生活と空間に関する権利においての有力な主張となりうる。

一箇所に定住しない生活においての、固定され、蓄積される何か、というのが木地師においても遊牧民においても、ピンチにおける強みに繋がっている気がしている。それは「何年何月何日、どこにいて、いくら支払った」という紙媒体の記録なのかもしれないし、「同じ場所に先祖を葬り続けること」なのかもしれない。というより、他のいろいろな可能性を犠牲にしてでもその強みを最大化しているのが定住生活なのか、と思わされた。

  • 遊牧民と漂泊民

遊牧民ユルックとこうしたチンゲネ*1、タフタジ*2などのあいだにはほとんど交渉がない。ユルックにいわせると、われわれは遊牧民であって、かれらは漂泊民だ、ということになる。遊牧民は、けっしてあてもなくさまよっているのではない、というわけだ。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P131

*1 チンゲネ ジプシーのこと
*2 タフタジ 山林の伐採に従事する人々のこと

渡辺久雄は著書『木地師の世界-個人と集団の谷間』(1977)で「日本の「あるき筋」の大きな流れは、まず里近くを流浪する者と、里を離れて山中を漂白する一団に区別することができよう。もちろん両者に跨る仲間もある。芸能・遊芸を生業とする者が里近くを流浪し、手工芸で暮らす一団が山中へ入りこみ、宗教に類する行為で生活する仲間が山と里とに跨って移動を続けたようである」と述べている。

非定住者(このくくりの素敵な名称が欲しい)というカテゴリーは確かに必要だけど、ユルックのいうように遊牧民と漂泊民は、定住と非定住とが異なるように、かなり違った存在だ。そして、漂泊の中でも、渡辺久雄が述べているように、里との距離感などによってさらに分類される。非定住者としての木地師の話をすると、「遊牧民みたいな?」という反応をよくされるけど、遊牧民の多くはおそらく(詳しくない)多拠点間生活者という感じで、季節ごとに決まった先祖代々の場所を行ったりきたりしているのだから、そうですとは言えない。ただ、木地師の中にも、里(山間の村)に主な住居を設けて、冬には全員そこで暮らし、夏になると山に小屋掛をして一部の人間(男たち)はそこで木地づくりに専念する、という生活形態があったので、こちらは遊牧民の多拠点生活に近かったと思う。非定住者に関して学ぶ・考える・議論する場合は、こんな感じで非定住者とは言っても様々だ、ということを念頭におくことが大事だな、と改めて思う。

  • 移動中の死と墓

 ムスタファの父親は、ユカル・ギョク・デレ村から少し東南にいったアシャウ・ギョク・デレ村のちかくの露営ちで死亡した、という。一九五一年のことだ。ムスタファは、一九五〇年からアンカラで兵役に服していたので、この年の移動にはくわわっていない。移動中のことなので、路傍に浅い墓穴をほり、うえにちいさな目印をのせるくらいがせい一杯だった。一日だけ露営地にとどまり、『コーラン』をよめる男にたのんでとむらいの句をよんでもらった。翌日は、移動をつづけた、という。
 移動路ぞいのあちこちには、自然石をひとつ、ふたつおいただけの粗末な墓ずいぶんたくさんあった。墓域をしめすために、楕円形に石をならべた墓もみかけた。何ヶ所かは、おびただしい数の石があつまった墓地もあった。そうした墓地にちかい場所で死んだときには、ロバやラクダに死体をつんでそこまではこぶ。そうでないばあいには、湯灌をして白い布につつみ、路傍の適当な場所にうめるのだ、という。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P137

先に書いたメモ「夏営地の所有権をめぐる争いと、ピンチにおける強み」では、夏営地の近くにある先祖の墓について触れられていたが、移動中に誰かが死亡した
場合には、その死亡した地点で簡易に葬られるようだ。ということは、夏営地や冬営地に墓を意識的に設けてきたのではなく、死亡した地点でその都度葬ってきた結果、長く滞在する場所には墓が多く集まり、通り過ぎるだけの移動ルートではまばらに点在する、という具合なのだろうか。そうすると、これも偶然の資料として、ある人物の死の記録だけではなく、彼らの生活形態の領域をも記録していることになるかもしれない。道しるべとして小石を落としながら歩くように、ユルックたちは代々自分が歩いていた道の上の、死した場所に目印をつけていくことで、彼らの領域、移動と生活のリズムを大地に刻み込んでいるように思えた。

・環境を着替えるように移動すること

 約六〇キロメートル平方の丘陵地帯にある冬営地のなかに、各チャドルは相互にかなり距離をおきながら点在する。もっともちかいチャドルでも一キロメートル以上ははなれている。もっともとおいチャドル間の距離は六キロメートル以上あるだろう。
 冬営地では、なぜ各チャドル間の距離をあけるのだろうか。ユルックのあげた理由のなかで、おもなものは三つあった。ひとつは、夏営地とちがって、冬営地ではカトゥシュ(子群の相互交換)などに代表れるチャドル間の相互的な協力を必要とする作業がない。だから、チャドルを近接してはらなくてよい。ふたつ目の理由は、冬営地滞在中は家畜の周産期にあたるので各蓄群のいりまじりをふせぐためチャドル相互間の距離をとる必要がある、ということだ。三つ目の理由は、冬営地における放牧地が夏営地のばあいとちがってはるかに狭小なため、できるだけ分散して有効利用をはかるのだ、ということだった。

松原正毅.遊牧の世界(上).中公新書.1983.P187

冬営地に滞在しているあいだ、ほとんどのチャドルは幕営地をなんどかうつす。冬営地に到着してから夏営地へ移動するまでのあいだ、一度も幕営地をとりかえないという例はまずない。もっとも例数の多いのが、クシュ・ユルドゥ(冬の幕営地)、バハル・ユルドゥ(春の幕営地)、ヤズ・ユルドゥ(夏の幕営地)と三度にわたって幕営地をとりかえるケースである。ついで二度という例がおおい。まれには四度、五度と幕営地をかえる例もある。いずれにしても、夏営地への移動の直前にチャドルをはった幕営地がヤズ・ユルドゥとよばれ、移動の準備をおこなうギョチ・ユルドゥ(移動のための幕営地)となる。

松原正毅.遊牧の世界(下).中公新書.1983.P29

冬営地の滞在中に幕営地をなんどもうつすのには、さまざまな理由がある。ムスタファのチャドルのばあい、クシュ・ユルドゥからバハル・ユルドゥへうつった第一の理由は、うまれた子ヒツジや子ヤギを収容するじゅうぶんな空間がなかったことだ。それなら、はじめからバハル・ユルドゥのようなひらけた場所に幕営地をもうけたらよさそうなものだが、そうもいかないという。厳冬期をすごすには、幕営地はたとえせまくても樹林にかこまれたほうがのぞましい。さらに、一ヶ所に必要以上に長期滞在すると、畜群にダニがわいて病気の発生をさせやすい。

松原正毅.遊牧の世界(下).中公新書.1983.P30

バハル・ユルドゥからヤズ・ユルドゥへの移動にあたっては、ヘビの出没のほかに搾乳のための空間の有無もかかわっていた。五月初旬からはじまったヤギの搾乳のさいには、ある程度の空間を確保しておく必要がある。

松原正毅.遊牧の世界(下).中公新書.1983


気温が高い季節には、より涼しくひらけた低地に暮らし、気温が低い季節には、木々に囲まれた場所で風を防ぎながら暮らす。家畜の数が出産によって増えたり、生まれた家畜の赤ちゃんが成長したりするに連れて、より大きなスペースを求めて幕営地を移す。暑くなったら薄い服に着替えて、寒くなったら重ね着をして、体のサイズが変わったら服を新調する、、環境を着替えるとでもいうかのように、家畜にとって最適な環境を求めて移動している。ダニがわかないように定期的に移動するのは、汚れてきた服を新調するか、洗濯してるみたいだ。

・人間の生活の場を限定するもの 決定権

日本で大多数が依存しているのは米で、江戸時代までは土地の広さや、徴税の単位となった程の存在なので、今でも多くの人が米(ジャポニカ米)の栽培に適した環境を生活環境としている。一方、江戸時代においても、トチ・ブナ・クリなどの木々を加工して物々交換をするか、貨幣に変えて生活を営んでいた木地師たちは、そういった材料となりうる木々が生育する落葉広葉樹林帯のうち、物流の観点から平地から離れすぎていない高度を生活環境としていた。依存している植物に生活する場所を決められているわけだ。一方、ユルックたちはヤギ・ヒツジ・ウマ・ウシ・ラクダなどの家畜に依存している。それらは根を張った植物ではなく、哺乳類であるし、野生であったときには、暑くなれば涼しい場所を求め、寒くなれば暖かい場所を求めて移動して生きていたのだと思う。オスヤギは野生である場合、繁殖期には夜な夜な何十キロも歩いて、交尾相手を探す習性を持っているので、家畜化されていてもユルックは繁殖期になると、夜間放牧にヤギを連れて行くのだそうだ。生活における依存対象が季節に合わせて移動する生き物であるから、自分たちも、季節ごとの生き物に最適な環境を求めて、複数の生活の拠点を使い分けるべく、行き来しているのだろう。

根をはった植物が依存対象である場合、生活の場の標高は、米ならば夏場に気温が高く、平らであればあるほど良く、日本の場合0-200m(割と適当)程度になり、木地師であれば300-1200m程度に分布することになるが、家畜が依存対象の場合は季節ごとの生活拠点が200-2000mという広範囲(垂直、水平方向の両方に)に広がる。が、その内のどこに、いついるかについては、人間の都合ではなく家畜の繁殖や成長の都合による。

木地師の場合、木材自体を流通させてしまうことでどこに住んでいても製作が可能になったが、遊牧生活の場合、定住化においての工夫はなんだったのだろうか。ダニを殺す薬剤や、家畜を全ておさめられるような巨大な建物だろうか。えさは、木地師と一緒で物流の発達で解決されてしまうとと思う。ただこの場合、定住化=生活地の自己決定だと言えるのだろうか?木地師の場合は、生活地の決定権を、マジョリティの依存先であるコメに渡してしまっているので、自己決定権を得たとは言えない。遊牧民の場合は、一応家を立てて定住し、夏場はより広範囲に放牧のために出かけていく(ときに放牧用の限定的な生活拠点をもつ)、という生活形態をとっていた場合、半分マジョリティに属しつつ、半分は家畜に合わせるという具合だろうか。そう思うと、トルコのマジョリティの依存先については知らないものの、コメやムギなどの穀物の支配権というのはすごいものだな、と感心した。

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