見出し画像

スペースノットブランク「言葉とシェイクスピアの鳥」を観た。これが「意味」というものへの抵抗でなかったら申し訳ないけど私は140分かけて何も受け取れなかったというしかないと思う。

「言葉とシェイクスピアの鳥」は舞台の約束事をことごとく破る(明らかに恣意性があることをするのにそれが何にも繋がらない)ことによる「意味」への抵抗のように感じた。

まず最初に気づく違和感は客席がすごく無視されていること。ただ無視されているわけではなく、無視されていることが際立つくらい過剰に無視される。序盤に舞台に関する言及があるし、構成や舞台の使い方も舞台の上に全く違う虚構の世界を作るのではなく、舞台という今この場所にパフォーマンスが存在しているというある種メタな使い方をしているのに分厚い第四の壁だけが不自然に立ち現れる。観客の反応を求めてないのに客電がついてる。客電がついているとは言わないまでも客席がちょっと明るくなったりすごく明るくなったりするのに、そこに意味がない。途中照明が下手なのかと疑いすらするけど、最後はちゃんと暗転が効いた暗転があったのに劇中の暗転らしきところは中途半端に灯りが漏れていたから、全てわざと「気持ち悪い」照明になっているのだということは確信に変わった。衣装も然りで、ずっと黒だったのに、途中でダンサー見てる人が色があるジャケット羽織ってたり、赤いネクタイが出てきたり、絶対恣意的な大きな変化があったらそこに意味があると観客が思うことが自然なのにやはりその意味が見えない。美術も挑戦的で、美術 カミイケタクヤって書いてあったらみんな(観客)美術カミイケさんなんだーって思って行くのに舞台はミニマリストもいいとこで舞台美術って普通足し算から始まると思うのにマイナス方向へいくくらいのコンセプチュアルさで、恣意性を撹乱するのに一役買っている。

これが演劇の約束に抗うことによって意味や恣意性というものキャンセレーションでなかったら申し訳ないけど私は140分かけて何も受け取れなかったというしかないと思う。
演劇の約束事をことごとく破っていく手法は、演劇人やすごく演劇を観に行く人にしか分からないくらいハイコンテクストで、演劇史とかに興味のない人の方向は向いていない作品だと思った。
象徴の集合体であるナチュラリズム演劇とか今までの記号のコミュニケーションを壊したはいいけど、壊した後に何も作られていない感じがして、一見意味のないもののレジスタンスとかにはなっていないように見えた。(あまり悪い意味ではなく)

140分という上演時間が長かったかというと、観劇体験として、1幕の前半はつまらないなあと思いながら見てて、1幕後半あたりから作品について考え始めて、2幕前半で考えがまとまって、2幕後半は何も起こらなさに感覚が麻痺してきてちょっとでも違うことが起こると楽しいってゾーンに入ってきて、このある種のハイみたいな状態を体験させたかったのであれば140分は長くないと思う。良い意味での気持ち悪い観劇体験をしたという点ではこの観劇体験は私の軸では楽しかったと言って良いのだと思う。

体験の種類としてはちょっとSimon McBurneyの「The Encounter」に似てると思った(the encounterは舞台上には音響機材ばかりが置いてある一人芝居で、観客は音が立体的に聞こえるヘッドホンをつけて鑑賞する。舞台上の役者はループペダルとかを駆使してめちゃくちゃすごいサウンドエフェクトを作りながらアマゾンで大冒険を語る。音は映画みたいなアマゾンの大冒険なんだけど、舞台上に見えるのは音響機材ばかりの全然違う舞台裏なので、視覚情報と聴覚情報の差に混乱する。その強烈な体験が物事の認知に対する疑問を投げかけていて、認識って外界から記号を受け取って自分の頭の中でそれが像を結んでいるだけだなあ、と思ったりもする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?