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みんなが何の漫画読んで何を考えてるのか知りたい。

人気の映画や漫画がどのように人々の価値観に影響を与えたり、逆にどういう価値観を反映した世界観になっているのか気になるって話をだらだらします。

私個人的な文脈としては、最近いろいろな媒体での歴史の伝承の仕方が人々の価値観や姿勢に与える影響を考えてて、そんな中で最近は映画とドラマを見る機会があって、歴史の認識と価値観の共有の仕方として、毎年毎年戦争の映画を上映したり新しく作ったりすることってとっても意味があるよなあと思ったり。映画とかアニメとかポップカルチャーとかエンターテイメントでもフィクションの世界でも、人々の価値観に影響する一端をになってるんじゃないかなあ、(そして逆も)と思ってて、多くの人が見る映画とか漫画ではフィクションの世界を通じてどういう価値観がシェアされてるのかとか最近気になってたところに「桃源暗鬼」(舞台版)を見たのが今日。漫画は5巻くらいまでしか読んでないし舞台は京都までしかやらないので、話がどういうふうに展開するかは私は全然知らないので桃源暗鬼は全然カバーしないし、読むのに桃源暗鬼を知ってる必要は全くないです。

(ここから原作漫画のネタバレは少しします。この大雑把な説明で十分だと思います。ネタバレNGな人は目を閉じてください。)

桃源暗鬼はざっくり言うと、人間と鬼がいて、鬼は昔話の桃太郎に出てくる鬼の子孫、特殊能力を持ってる。人間の中には桃太郎の子孫がかなりたくさんいて、鬼は特殊能力のコントロールを失うと危険だからっていう理論で人間を守るために鬼を狩ってる。桃太郎の子孫たちも特殊能力を持ってる。両陣営とも鬼機関、桃機関っていって縦割りの組織になってる。桃機関の方が人間社会の味方だから戦いやすいし勝ってるっぽい感じ。優劣は多分だけど。鬼たちは桃機関から隠れてこそこそ生きてるっぽい。

主人公は鬼で養父が元桃機関の人なんだけど、鬼桃対立も出自も何も知らずに普通に育てられて、ある日桃機関の人に急に襲われて自分が鬼だということを知らされて同時に養父を亡くして、復讐を誓って鬼機関の養成学校に入るところから物語は始まる。

今の社会情勢もあって、この社会的に同情されない側面がある側が戦いに不利な状況でなこととか、二項対立のそれぞれの陣営が血で繋がってることとか、主人公が愛情を受けて育った養父が敵陣営の人だったり桃機関の人と友達になる兆しがあったり彼が敵にも感情移入やリスペクトをすることがあったりとか、桃機関の人が鬼たちを虫けらとか畜生扱いしたり人権がないと言ったり非人間化してるところとか、ちょっとパレスチナで起きてることを想起してしまって見てて辛かった。もちろんパラレルじゃない部分はたくさんあるからここではこれ以上比較はしないけど。

まあ、そんなわけで二項対立が描かれたフィクションの語りで何が起こってるかが気になった。


ポジティブな側面としては、前述のとおり主人公の養父が敵陣営のアイデンティティを持ってたり、敵と仲良くなりそうな感じがあったり、主人公側の陣営だけではなく、逆サイドの桃機関の人々のストーリーが描かれて、そこで彼ら個人個人の戦う理由が見えてきたりして、二項対立が多くの場合が正義と悪の対立ではなく、両方に両方の守りたいものと戦う理由があるというのは、例えば鬼滅の刃もそうだし、共通認識になっているんだろうな、と思った。これは戦時中にはきっと制限されてた語りで、これが共通認識になっているのは戦争の反省が生かされてるポジティブな側面なのではないかなと思う/思いたい。


逆にモヤっとしたことは、二項対立があって、双方に対立をする理由も戦う理由も、それがそれぞれの主観だとしてもあって、すでにその価値観がestablishされた世界と組織で生活してて、その中でどうやって生きていくかっていうと戦い続けること、より強くなっていくことっていうのが辛い。対立構造が行くところまで行ってしまった時、当事者が暴力という手段をしょうがなく取るのは分かるけど、肯定できるかと言われるとそれはまた別の話というか。そういう状況下のストーリーを語ることに意味がないかと言われるとそんなことはなくて、極限状態ってこんなに辛いということを語ることは危機管理につながり得ると思うし。でも鬼機関の養成所の先生が、生き抜け、そのために強くなれ(必ずしも相手を攻撃する能力を磨けとうわけではないが)っていうたびに、強くなるしかないの!?って思って悲しくなった。逆にいうと戦闘力が弱いと生き抜けないわけで。

最近だとチェンソーマンとか鬼滅の刃とかもいつも戦ってて、強くなり続けないと生き抜けないっていう世界。

人々がアクセスしやすいところにある語りがそういう語りばっかりだとそれはそれで、守りたいものを守るためには暴力しかないっていう他の方法を探らない脳になっちゃいそうっていう危機感を覚えた。

大河ドラマだって戦のシーンが多いほど視聴率上がるらしいし、少年漫画なんだからなおさらしょうがない?

少年漫画だって頭脳系で課題解決をするやつとか(例えばコナンとか。バクマン。もそういう側面あるし)、戦うは戦うでもスポ根とかは相手と戦うけど目的としては相手を痛めつけることではなく自分の技術を磨いてその腕試しとして相手と一戦交える、コートの外では互いにリスペクトする、みたいなとこあるし。でも最近の漫画とかアニメとかって極限状況でめっちゃ戦ってしかも結構グロいしあんまり救いがないの多い気がする。もしかして完結してないからまだ救いがないだけ!?余談だけど宮台真司が初期ギリシア的思考/セム族的思考の価値観の変遷の話をしてて少し面白かった。(宮台真司の鬼滅の刃評前編後編)

話を戻すと、戦う、強くなるしか生き抜く術がない的な語りばかりが語られることと、昨今の世論が防衛費増額に肯定的で、日本が既に持ってる関係性や影響力を使っての外交の姿勢に改善の余地があることにあまり目は向いてないのとかがつながってるんじゃないかなと思ったり。あと昨今のアカデミックに対するアカデミックは特権階級だから敵、みたうな冷たさとかも。

あ、Dr Stoneは見てないけど最近の作品でかつ頭脳系?もしかして2.5次元の原作ばっかり勉強してるから戦闘ばかりなの??最近のコンテンツで戦う、強くなる以外の問題解決の仕方が描かれてる作品おすすめあったら教えてください。

(あ、そう!思い出した!進撃の巨人って好きな漫画/アニメの一つなんだけど、去年の初めにこれもまた舞台で見た時に、進撃って名言的な台詞がたくさんあるけど、その軍隊的な価値観を普段の生活に持ち込まれたら辛すぎると思った)

そういえば、桃源暗鬼で言いたいことが一つ。漫画の女性キャラクターの体の描き方が悪い意味で少年漫画っぽくてあんまり好きじゃない、、、、male gazeって感じで。それが読み続けなかった要因の一つになってしまった。


ちょっと違う話なのだけど、今日、ドイツでイスラエル批判ができない問題に対して、ドイツの人々はイスラエル批判とユダヤ差別が近いと思ってるから、イスラエル批判へのアレルギー反応は、ホロコーストの反省がしっかり教育として行われてることの現れでもあるんだろうね(それに賛成するという意味ではなく、副作用としてそういう側面がある。アレルギー反応が先に出てしまうことはネガティブな側面、という話だったと思う。)って言ってるのを聞いて、差別の解消の仕方について考えた。

私はaffirmative action大賛成派だけど、affirmative actionってある意味暴力的な方法での差別の是正の過程で、その過程で個人としては直接差別をしたわけではないのに不利益を被る人がいる(もちろん差別の歴史があった中で気づかないうちに特権を享受してきたという面もあるけれど、だし同時にaffermative actionがない側面での弱者かもしれない)。ただそれでも私はaffermative actionには賛成だし、言論も自由だけが全てではなく、ヘイトスピーチは法によって禁止されるべきだと思う。その理由は、(代議制)民主主義がとても良いシステムだとは思ってないけどコスパとか考えると今のところ民主主義をできるだけ健全な形で保っとくのがベストだと思うのと同じで、熟議と個人個人の納得の上で差別が是正されるのがベストだけどaffermative actionは結構有力な差別の是正の方法だから賛成ということ。そこの均衡に綺麗な正解はないから常に議論し続けるべきだし現状に合わせてアップデートし続けるべきだと思うし、affermative actionの暴力性をちゃんと認識して、そこで不利益を被る人をないことにはしてはいけないし、声を聞き続けてその人たちの不利益がコストとして見合っているのかを考え続けるべきだと思った。

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