見出し画像

終わりと始まり。

1か月近くnoteを更新していなかった。こんなに長く更新しなかったのは久しぶりで。この期間、twitterでつぶやくこともほとんど無かった。

もっと色々なことを新鮮な目で見れるようになるかと思ったけれど、大して変わらなかった。「やっぱり」とも思うけれど、公開しなくても文章は書いていた。紙のノートや、パソコンのWord、スマホのメモ機能に。

何度も「あのことについて書こうかな。いや、こっちの方がいいか。」とか思った。大体の構成を頭の中で練り、noteやtwitterを開き、タイムラインをスクロールしてそこで勢いが止まってしまった。そんな感じだった。

今回は、読書会の主催をやめたことについて、書く。

はじめて読書会を主催したのは、約3年前。2018年の12月だった。ライターの仕事終わりに、コワーキングオフィスに残って好きな本についての話をした。noteにも何度か、読書会について書いている。

それでも、そのことについて書けなかった。「なんで?」と聞かれると、うまく答えられなかった。どうして読書会を急に止めたのか、よくわからない。たくさん理由があるようにも、どの理由を持ち出してもピントが外れてようにも感じた。

ネタ切れだから、締め切りに追われるようにして読むのは楽しくないから、少し休んでエネルギーを充電したいから、ちょっと仕切り直しをしたいから。

しゃべればしゃべるほど、自分の言葉がつるつると滑って本音から遠いところへ勝手に行ってしまう。ノルウェイの森で直子が、言葉を追いかけても捕まえられないと言っていたことを思い出す。柱を挟んでぐるぐると追いかけっこしているみたいなの。そんなシーンがあった。

本当は、「いきなり、終わりがやって来たので。」が一番私の感覚に近い。「あ、もう終わりなんだ。」と感じる瞬間があった。空から降ってきた、くらい唐突だった。

一時の気の迷いかもしれないと疑って、少しの期間は寝かせたけれど、消えて無くなるどころか、どんどん揺らがなくなっていった。どっしりと根を下ろしていて、私の意志なんかでは動かせそうになかった。

いつだって、そうだ。私は終わりも始まりも、選べない。どれだけ「これはどう考えても前途多難だから、やりたくないです。」と頭でNOを唱えたところで、始まりがやって来たら段取りを整えるしかない。

「もう、しんどいよう。止めたい。」と弱音を吐いたところで、時が満ちていなければ足を動かし続けるしかない。

「一番大変なところは過ぎたんじゃないの?このままでもいいじゃないか。嫌な時だけじゃなくて、いい時もあるし。慣れているんだから。」と説得を試みても、上手くいった試しがない。きっと、論理の世界じゃない。

そんなわけで、読書会にも終わりがやって来てしまった。無責任な言い方をしているなぁと自分でも思う。書かない方がいい。誰も得をしない。頭は正しいことを言い過ぎる。このことについて書かないでいると、何も言えなくなってしまった。

自分で終わりを選んだはずなのに、誰よりも私が戸惑っている。自由時間の過ごし方に困っている。

これまでの安定したルーティーンが崩れてしまった。休日の朝にゆっくり起きて、洗濯をして遅めの朝ごはんを食べて掃除をする。午前に、Zoomの読書会が入ることもあった。

午後には、図書館や本屋さんで読書会の本を探したり、喫茶店で読書したりして、少し遠回りをして歩いて帰る。夕方はスーパーに寄って、料理をする。夜には、noteを書く。

生活を回していくための家事以外、私の自由時間はほとんど読むことと、書くことで埋まっていた。それが、ポッカリと空く。そこには、空洞だけが残される。

空いた時間に自分が何をするのかの想像もつかなかった。どう感じて、何を望むのかわからなかった。それを知りたかった。見てみたかった。

他の人に相談するときに、何度か「リセット」という言葉を使った。まっさらになって、やり直したい。どんなに強く願ったところで、地続きでしかないのに。

ずっと走り続けてきたように感じているからこそ、立ち止まってみたかった。読むことも、書くことも、習慣になっていた。

そこからは、終わらせるための準備だった。これがかなりエネルギーを使う行程だった。走り続けているものを止めるには、徐々に減速していかないといけない。

言葉選び一つをとっても、誤解を招く表現は避けようとか考えていたら、何も言えなくなってしまった。まあ、読書会のためだけでは全くないけれど、それでnoteの更新も止まった。

一つ、ピースがズレたことをきっかけに、言葉との関係性がギクシャクしてしまった。喉元でつっかえて、出てこない。イガイガしているように感じて、咳払いが増えた。

一回、落ち着くまで待とうと思った。私の心の中は、泥が舞っているようで何もクリアに見えなかった。時間が経てば、大事なものだけ残るはず。

一から始めるときも大変だったけれど、未来があった。上手く回り始めるまで、加速させていく過程もエネルギーが要る。何でも始めるときはそうだし、これからを想像するだけでワクワクできた。何もかも新鮮に見えるから、想定外のことも頑張れる。

3年近く続けてきた習慣を止めていくのも想像以上にパワーを持っていかれた。しかも、その輪を作っているのは自分だけじゃないのだ。長く関わり続けてくれた人達がいた。だからこそ、色々なことを考えて、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

自分だけなら、始めるのも終わらせるのも簡単だ。他の人もいると、そう単純にはいかない。何を言いたいかよりも、どんな言葉を望まれているんだろうと、いくら想像力を働かせたところで分からないことを延々と考え続けた。

続けるためじゃなくて、終わりのためだと、虚しくなる。今まで進んできた道を戻って、走っている間に落としてしまった物を拾っているような日々だった。

無事に、最後の読書会を1月11日行い、終わらせることができた。いつもとは、ちょっとちがう。最後、を意識している人の多い会だった。

今は、お祭りが終わった後みたいな心境だ。走り続けてきた名残があって、これまでと同じような生活を続けようとしてソワソワしてしまう。

まだ見えない。何のための終わりだったんだろう。これから、どうなっていくんだろう。

読んでくださり、ありがとうございます。みなさんのスキに支えられています。サポートもうれしいです! twitter→https://twitter.com/morimoto_shiori