「下級国民性」と見下しの物語/映画『JOKER』

※大学院の授業で提出したレポートをそのまま掲載しています。


 日本を含む66か国で公開された映画『ジョーカー(2019)』は、公開から約一か月の時点でR指定映画の興行収入の記録を三年ぶりに塗り替えた(1)。 映画公開にあたって米国では、一部劇場での手荷物検査、コスチューム装着の禁止、警察官の増員など、過剰ともとれる対策がとられた。これは2012年にアメリカ、コロラド州で起きた「オーロラ銃乱射事件」を受けてのものである。プレミア上映が行われていた映画館が襲撃され、12人が死亡、58人が負傷した無差別テロ事件であるが、そのとき公開されていた映画は本作の主人公、ジョーカーが悪役として出演する映画『ダークナイト・ライジング(2012)』であった。当時24歳の大学院生だったジェームズ・ホームズ容疑者は、取り調べの際に自らを「ジョーカー」と名乗ったという。
 ホームズに関して彼の同級生は、「基本的に人付き合いは下手だったが、こんな事件を起こす人間には見えなかった。かなり平凡なタイプ」と語っている(2)。 すでに『ジョーカー』を鑑賞した人なら、この映画がなぜここまで危険視されていたか理解することができるだろう。

 橘玲(3) によれば、アーサーは「プアホワイト」であり「下級国民」である。「プアホワイト」とは、直訳すると「貧しい白人」だが、中流から脱落した(と考えている)白人の総称である。もともとはマジョリティであったはずの白人が、60年代に始まったアファーマティヴ・アクションや(不法)移民の流入により、徐々にアメリカ国内においてその立場を奪われ、その結果富める者と貧する者に二分した。そしてその中間にはかつてはマイノリティであった黒人やヒスパニックが存在する。
 橘の指摘するところによれば、『ジョーカー』に出てくる黒人は「全員がほんの少しだけ恵まれている」。

「バスで出会った黒人の母親は、貧しい暮らしをしているかもしれないが家族がいる。セラピストと精神科医は専門職の仕事で、精神科病院で働く黒人男性は(少ないとしても)安定した給料を受け取っている。同じ階の黒人女性も、貧しいながらも働いて子どもを育てている」

 橘はこの黒人描写を踏まえ、アーサーが「プアホワイト」であることを以下の理屈によって指摘する。

「誰もが社会のなかで、仕事を通して、あるいは家族と共にいることで、自分の居場所を持っている。それに対してアーサーは仕事を失い、認知症の母親は一方的に甘えるだけで相談相手になってはくれず、自分がこの世界に『存在』しているかどうかすらあやふやになっている。これが意図的な演出かどうかはわからないが、マジョリティである白人男性のアーサーは、マイノリティである黒人のさらに『下』にいるのだ」

 橘は明言を避けているが、これはおそらく意図的な演出である。監督のトッド・フィリップスは『ジョーカー』について、「政治的な映画ではない」と言及しながらも、一方で「映画は社会を写しだす鏡にな」るとも述べている。(4) トーマス・ウェインや殺された三人の証券マンを含むリッチな「リベラル」、貧しいながらも家族や職を持っている「マイノリティ」、そして仕事も支えてくれる家族もいないアーサーら「プアホワイト」。ニューヨークがロケ地であることを隠そうともしない製作者たちは、架空の都市のなかに現代アメリカ社会の構図を如実に描き出した。

 一方、「下級国民」とは、日本発祥のネットスラングである。2015年におきた、東京オリンピックエンブレムの盗作騒動の際に使われるようになった 「上級国民」というネットスラングに呼応するものとして生まれた。(5)「上級国民」は2019年度の流行語大賞にもノミネートされている。
 このことが示す通り、現代日本においても“格差”は人々の大きな関心事のひとつである。資本主義の世界に格差はつきものであり、人々も格差それ自体については仕方がないものと考えていることだろう。ところがその格差が、並みの努力では埋められないほど大きいものであったり、その格差によって被る不利益が納得できないものであったりすることに人々は憤りを感じているのである。
 先ほどの図式に当てはめれば、リベラルは上級国民でプアホワイトは下級国民である。アメリカと比べ人種の多様性が少ない日本では、図式に示されているような中間層は存在しない。

 それではジョーカーは、「下級国民の表象」なのだろうか? そこに体現されているのは、不当に虐げられていると感じている人々の、苦しさや生きづらさなのだろうか。多くの「プアホワイト」や「下級国民」がその姿に共感し、その結果として一種の社会現象ともいうべきこの状況を生み出したのだろうか。

 先に述べておけば、「そうである」というのが本稿の結論である。橘の指摘する通り、アーサーが「プアホワイト/下級国民」として表現されていることは間違いない。なれば、そこに立ち現れるのは彼らが抱く苦しさや生きづらさである。しかしこのブームを起こしたのは、そのいわば「下級国民性」に共感した人が多かったからではない。その論拠は、彼の最後の文章に見出すことができる。

「どこにも救いがない映画であるにもかかわらず、『ジョーカー』が日本でも世界でも大きな反響を呼んでいるのは、あらゆるところで「社会からも性愛からも全面的に排除されたマジョリティ」が増殖していることにひとびとが気づいているからではないだろうか。」(強調は筆者)


 この文章における「ひとびと」とは誰か?アーサーのような「プアホワイト/下級国民」のことだろうか。しかし、“「社会や性愛から排除されたマジョリティ」が増殖していることに気づいているひとびと”は、“社会や性愛から排除されたマジョリティ”と、かならずしもイコールでは結ばれない。そう考えると、この映画を支持している者の多くは「下級国民」ではない。つまり、観客の大多数は「下級国民である」アーサーに共感を覚え、この物語を支持しているわけではないのだ。

 人々が『ジョーカー』の何に共感しているかを明かすにあたって、注目すべきはアーサーの元同僚のゲイリーである。
 小人症と思しき彼は、彼はその身体的特徴から、同僚たちから日常的にからかいを受けている。アーサーは三つ目の殺人として、彼を間接的に退職に追いやった元同僚のランドルを殺害するが、その場にはゲイリーもいた。衝動的かつ錯乱状態のなかで行われた最初の殺害から、彼の犯行がかなり明確な殺意を持ってのそれに変わっていく様を見ている我々に、アーサーが(殺意を抱いていない)ゲイリーすらも殺してしまうのではないかと緊張感を抱かせる場面である。
 しかし、アーサーは「やさしくしてくれたのは君だけだ」と言って、ゲイリーには手を出さない。その背の低さゆえにドアの鍵に手が届かず、開けてくれないかとアーサーに頼むシーンで、我々は一瞬「まさか」と思うのだが、やはり殺人は実行されず、ゲイリーは見逃されるような形で事なきを得る。
 ここでも結論から述べてしまうが、このシーンを考察することで導き出せるのは「アーサーはゲイリーが好きだったから殺さなかったのではなく、ゲイリーを見下していたから殺さなかった」というものである。
アーサーは、ゲイリーが「やさしかったから」殺さなかったというが、ゲイリーの“やさしさ”に関して画面上で確認できるものといえば、クビになって事務所を出て行くアーサーに気遣う言葉をかけたこと、その程度である。“その程度”のやさしさですら響くほどアーサーは孤独だった、ととることもできるが、ゲイリーを納得させるための単なるエクスキューズであったと考えることも出来る。
 また、「マレー・フランクリン・ショー」への出演が決まっているアーサーにとって、あのタイミングで逮捕されるのは避けたいはずである。 “目撃者”であるゲイリーを生かしておくことは、アーサーにとって不利に働くことになるからである。
 アーサーがゲイリーを見下していたことは、この点からも見出すことができる。アーサーはゲイリーに“目撃者”しての価値を見出さなかった。 おそらくゲイリーは通報しないだろうし、仮に通報されたとしても痛くもかゆくもないという「見下し」である。
 思い返してみれば、ランドルがゲイリーをからかい、同僚たちと共にアーサーも笑い声をあげるものの、部屋を出た瞬間に真顔に戻るあのシーン、あれは「アーサーの笑いどころが人と違うということを表現する」描写であり、かつ「身体的特徴をからかうことが面白くないことだと理解している」描写だと受け取っていたが、後者に関してはまったくの見当違いであったかもしれない。アーサーにとって、ゲイリーの身体的特徴が笑えるかどうかは、まったくどうでもいいことなのである。“どうでもいい”や“無関心”は、“考える価値もない”という点において、ある種の「見下し」であるといえる。

 たとえば江戸時代において、通常の身分制度の下にさらに「穢多」「非人」という身分がいたことやナチスドイツの時代において、「ユダヤ人は下等な人種である」との暴論を人々が受け入れたことが示すように、人間は誰しもがいつでも「自分以下」の存在を探し求めている。
 ネット上で自虐的に「下級国民」を自称する人々も、その実「自分は最底辺ではない」と考えている。我々は、「ゲイリーを見下すアーサーの姿」に共感を覚えるのである。ゲイリーを見下すアーサーの視点を無意識的に獲得し、それをアーサーに投げ返すのだ。その視点の獲得が無意識的に行われることは、アーサーがゲイリーを見下していたことに無意識的だったことと無関係ではない。
 アーサーは「下級国民」の表象であり、であるからこそ、人々の共感を促した。『ジョーカー』は、アーサーの苦しさや生きづらさに共感する物語でなく、苦しさや生きづらさを抱えるアーサーが持つ「見下しの視線」に共感するための物語なのである。

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