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唯川は1987年に目を覚ます 【第1話】

その女の子は、自分の才能を見つけてくれる人が、いつか目の前にあらわれて、すべてが変わると思っていました。
大人になると、そんな人なんか、どこにもいないと知りました。
だけど、もしも「特別な才能」を誰かに与えられたとしたら、人はどんなものにだって、なれるんでしょうか?


Ⅰ 特別措置


貴殿におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
このたび、唯川夏目の生命を救うために、その親族の一部を、1987年4月15日に移送することに決定しました。
ついては「医科大学病院」にご足労いただければ幸いです。                


ミーティングエリア・出版社(港区)


 左手の壁面に新刊本が展示されているため、かろうじて、ここが出版社だとわかる。右は編集部のオフィスと、このミーティングエリアを隔てる木目調の壁。
 まだ十七時なのに、打ち合わせをする者の姿はなく、他のテーブルはすべて空いている。
 
――いつも思うけど、何の特徴もない、ありふれたミーティングエリアだよね。

 誰も文句は言わないが、センスも面白味も全く感じられない場所だ。
 善如寺はため息をついて、テーブルの向こう側に座っている「来客」を見た。
 たぶん、編集者であるわたしの名前を、あとがきで見つけてたずねて来たんだろう。私立校の制服を着ていて礼儀正しいし、害もなさそうな男の子だけど。
 まあ、男の子といっても……善如寺は心の中で笑った。この子はいくつ? もちろん私より年下だけど、落ち着いてるしハンサムだわ。色白できゃしゃに見えるけど肩幅が広いから制服が似合ってる。

 善如寺は、先ほど男の子に手渡されたA4のレポートに目をやった。
 五分くらいなら読んであげてもいいかな。今日は装丁の依頼状を送るくらいしか仕事は残ってない。あの「唯川夏目」の名が書かれたレポートは気になるし、この男の子も気になる。
 照明のせいかもしれないけど、やけに顔色がさえない。具合でも悪いのかな。
 考えながら善養寺は手にしたページの続きをめくり、思わず声を漏らした。
 
 「どうして、きみが会話記録をもっているの?」


医科大学病院の会話記録

 
――ICUに隣接する治療室は空室で、塩化ビニルの床には可動式の処置台が置かれているだけ。壁には手洗い台と、ビデオカメラが取りつけられている。医師は何かを気にするようにちらりとカメラを見て、その場につれてこられた若い女性に声をかけた。
 
医師「あなたは、唯川夏目さんの?」
羽根「長女です。唯川羽根(はね)と言います」
医師「そうでしたか。こんな場所で申し訳ありません。ぼくはとなりの治療室から離れられなくて」
羽根「あの、先生……母は痛がっているんでしょうか?」
医師「意識がないため、痛みは感じていないと思います」

(医師の答えを聞いて羽根は泣きそうな顔をする)

羽根「どうして母は、意識がないんですか?」
医師「はっきりわかりません。すぐに病名が特定できないのは珍しいことではないんです。しかし血圧があまりにも低く心拍も弱い。……お嬢さんには言いにくいですが、深刻な状態です」

 (医師の言葉と、あたりに漂う消毒薬の匂いのせいで、羽根は卒倒しそうになる)。

医師「ぼくは24時間、唯川さんを見守ります……ただ、早くほかの親族の方も呼んだほうがいい」
 
 (その時、医師のポケットでアラームが鳴り、彼は集中治療室へ戻っていく。その場に立ち尽くす長女を、看護士の一人が抱きかかえるように廊下に連れだした)


ミーティングエリア・出版社(港区)

 
 善如寺は読み耽っているレポートから顔を上げず、男の子に質問した。
 「まるで、その場で見ていたみたいだけど、この『会話記録』は、きみがとったの?」
 うなずく気配に、善如寺は眉をひそめた。
 「困ったな……きみわかってる? あれほど有名な人のことを適当に書いたら、どんなことになるか?」
 「適当に書いてません。実際あそこにいましたから」
 「いた? 医科大学病院に?」
 「はい。呼び出されたぼくは、治療室でぜんぶ見ていました。自由に歩きまわっていたし、あの日病院の外で起きたことも知っています」
 「どうして、一般人にそんなことができるの?」
 「一般人ですか……」
 男の子の顔を見ると唇が少しゆるみ、奇妙な微笑みが浮かんでいる。
 「ぼくにはできたんです。とにかく日没をすぎて騒ぎがおさまるどころか、もっと広がっていった。あなたもテレビを見て知っているかもしれませんけど」
 ほんの半年前の騒ぎだったから記憶にはっきり残っている。
 この男の子は、洪水のように流された「唯川夏目のニュース」をつぎはぎして、ストーリーを組み立てているのだろう。
 善如寺は、なにくわぬ顔で調子を合わせる。
 「あの夜はテレビにくぎ付けだったわ。どのチャンネルも彼女の特別番組を流していたし、YouTubeも過去最高の視聴回数だったっていうし」
 「……たとえ世界中が映像を見ていたとしても、駆けつけた唯川さんの長女は、何も見ることはできませんでした」
 彼は、憂鬱な声でつけ加えた。「ずっと、せまい家族控室に一人っきりでいたから」

 すでに五分がすぎていた。作り話と思いながらも、善如寺は先が知りたくてたまらなくなっていた。
 「それで、なにがあったの? 聞かせてくれる?」
 男の子は、記憶をたどるような目をして話を続けた。
 「あの時、長女は閉ざされた部屋にずっといました。もしも病院の外へ出ていたら、取り囲んでいるメディアの行列のむこうに、べつのものを見たと思います」
 「べつのもの?」
 「最初は数人でした。それが十人になり三十人になり、どんどん増えて日没後には二千人を超える人が集まって、病院を取りかこむ〈人びとの輪〉ができていたんです」
 「フアンね……唯川夏目さんの」
 「ぼくが見たこともないほど、ふしぎな人びとの群れでした。あの病院に引き寄せられたようにやって来て、男も女の人も何ひとつしゃべらず病院の窓を見つめていた。
 まるで、窓にむかって願いをかけているようでした。一人が立ち去ると、うしろの人がかわりに前へすすみ、やっぱり同じように、じっと窓を見つめていました」
 
 ――この子、本当に病院で見ていたかのように話している。
 
 「あの時、みんなが何を願っていたのか、わかりますか?」
 「わかるよ。わたしもテレビに向かってお祈りしてたもの」
 善如寺が応えると、男の子は年のわりに大人びた瞳を向けて言った。
 「ええ。みんな、唯川さんが生き続けることだけを願っていました。うまく言えないけど、とても強くてピュアな祈りだった。だけどぼくは、戸惑ってしまって……」
 「どうしてきみが、戸惑うわけ?」
 「なぜ、こんなにも多くの人が、彼女のために祈っているんだろうって」
 「それは唯川さんが特別な…」
 「はい。唯川さんが特別な〈才能〉を持っていたからだと、ぼくは思い込んだんです」
 「彼女を知っている人は、みんな彼女を好きになったわ。それを才能と呼んでいいのか、わからないけど」

 つい、自分の口からこぼれた言葉に驚き、善如寺はあわててつけたした。
 「だけど、どうしてきみが唯川さんに興味をもつの? きみくらいの年だと、彼女がトップスターだったときは生まれていないはずよ」
 男の子は淀みなく、すらすら答える。
 「彼女が出したソロ・アルバムは10枚、主演映画もTVドラマも大成功し、唯川夏目は〈社会現象〉とまで言われました。レコード大賞、日本アカデミー賞、紅白歌合戦、朝ドラのヒロイン、さらに雑誌も学術誌を除くすべての表紙を飾っています。ラジオ番組まで含めると、もはや数えきれません」
 「一応調べてるみたいね……そのとおり、彼女は特別だった」
 「ぼくは唯川夏目さんのことを知っているけれど、知りませんでした」
 「は? なにを言ってるの、きみ?」
 「いえ。いいんです」
 「ねえ、もしかしてきみは病院で何かを目撃したの?」
 「はい」
 「それが最初に書いていた〈特別措置〉なの?」
 「はい」
 ――この子はどうして、冷たいプールで泳いできたような顔色をしてるんだろう。
 「くり返すけど、〈特別措置〉ってなんなの? 君の話は謎だらけなんだ」
 男の子は、善如寺が手にしているレポート用紙を指さした。

 この子には、どこか断われない雰囲気があるけど……善如寺はもう一度ため息をついた。
 これを見ろ、ということね。


唯川夏目の長女

 氏名 唯川羽根(はね) 2005年生まれ 
 母 唯川夏目 
 出身 神奈川県
 身長 161センチ、血液型B型
 体重 個人に配慮し非公開
 略歴 以下、幼稚園、小・中・高校名が記載されているが非公開
 交友関係 個人に配慮し非公開


 「ぼくが事前に渡されたデータはそれだけ。でも十分でした。彼女に会って、どんな人なのかすぐにわかったから」
 「どんな人だったの?」
 「特徴のない子でした。太ってもやせてもいない。髪は短かったな。とにかく何度か会っても、つぎに会うころには忘れてる。そんな子だと思いました」
 「どうもわからないんだけど、きみがなぜ、病院で彼女に会うわけ?」
 「あの時ほど、なんとかしてあげしたいと思ったことはありません」
 「彼女に何かしたの? きみは」
 「何かしたのは、ぼくじゃない。あの人が控え室に入ってきたんです」
 「あの人?」
 「ええ。あの人です」


長女と看護士の会話記録――医科大学病院、家族控室


――床も壁も、すべて淡いクリーム色。清潔でどこか物悲しい空気。椅子が二脚と小さな簡易ベッドが一台置いてある。中央のテーブルには鉢植えのプリムラ。
 唯川羽根は壁際の椅子に座っている。泣いていたせいで、まぶたが腫れて赤い。そのとき、人のいる気配に気づいて顔を上げると、白いスクラブを着た看護士が立っている。

看護士「唯川羽根さん?」
羽根「はい」
看護士「話したいことがあるの。最後まで聞いてもらえる?」

(看護士は廊下側のスクリーンを下ろし、外からのぞけないようにして振り返った)

看護士「あなたは心のなかで、自分に才能さえあれば、どんな人にでもなれると思っていたんじゃないの?
羽根「え?」
看護士「だったら、本当になれるか、試してみなさい」

(羽根は、こんなときに何を言っているの、という顔で看護士を見上げた。
 白いスクラブの看護士は、切れ長の目に栗色の髪、年齢はわからない)

看護士「羽根さんは、どうしてお母さんが愛されたと思う?」
羽根「どうしてって…」
看護士「唯川夏目が愛されたのは、彼女を見ているだけで、みんなが幸せになれたから。彼女は光そのものだったから。だけど、十八歳からトップスターになった彼女は、他人を幸せにするために、限界を超えて力を使ってしまったの
羽根「お母さんが限界を超えて、力を使った?」
看護士「ねえ、一千万人の心を照らすということが、あなたには想像できる? 頭の中に、一千万個の電球を思い浮かべてみて。……すべての電球を輝かせるエネルギーがどれほど大きいものか」

(羽根は、まじまじと看護士を見つめている)

羽根「あの、どれほど大きいものかって言われても」
看護士「信じないかもしれないけど、人間の胸の奥には、エネルギーを生む電池のようなものがあるの。
 エネルギーというのはね。なにかを愛そうとする力であり。生きつづけようとするエネルギーなの。それこそ世界を変えるほどの強い力を、胸の奥の「魂」と呼ばれるものが生み出している。だけど、すべてのエネルギーがそうであるように、無尽蔵ではない
羽根「待ってください。あなた、病院の人なの?」
看護士「唯川羽根さん。私の話を聞いてから判断してね……どこまで話したかな、そう、魂が生み出す膨大なエネルギーを、ふつうの人は使いきることなどできない。
 でも、他人のために限界を超えて力を使い切ってしまう人がいる。あなたのお母さんがそうなの」
 
(羽根の呆然とした顔が、次第に怒りの表情に変わり、女をにらんでいる)

看護士「唯川夏目が、今の年齢まで生きながらえたのは、娘のあなたがいたからよ。
 けれど魂は疲弊し、生きるエネルギーが尽きようとしている、空っぽになっているの」


ミーティングエリア・出版社(港区)

 
 善如寺は、男の子に言った。
 「わたしに信じろと? 君が書いていることを」
 「ぼくは見たことを書いているだけです」
 「こんな看護士、いるわけない。唯川さんの長女に話しかけている人はだれなの?」
 テーブルの向こう側から、男の子に見つめかえされ、善如寺は思わず目をそらした。
 「もしかして、特別措置と称して君を病院に呼びよせた人?」
 男の子は、うなずいた。
 「こいつ、マトモじゃないって、思ってるのはわかってます。だいじょうぶ、ぼくはお望みどおり、あと数分で立ち去るつもりですから。あなたは、今までどおり仕事に戻ればいい。信じても信じなくても、どちらでも構いません」


長女と看護士の会話記録


看護士「あなたのお母さんの命が尽きかけているのは、十八歳のときに限界を超えて力を使い、魂を酷使してしまったことが発端なの。その時から長い時間をかけて消耗した唯川夏目の魂には、もはや生きるエネルギーを生み出す力は残っていないの」
羽根「そんなバカな話、聞いたことがない」
(立ち上がり、ドアの方へ向かう)。
看護士「座りなさい。あなたのお母さんのために」
(看護士は落ち着き払っていた。視線をテーブルのプリムラに注ぐと、花がうなだれ、動画が早送りされるように萎んでいく。数秒で緑色の葉が変色し抜け落ちる)
――羽根は、言葉が出てこない。
看護士「この植物みたいに、生きるエネルギーが尽きてしまったら、誰がなにをしても、もとには戻せない」
羽根「あなたはだれ?」
看護士「ここから大事なことを話すからよく聞いて。
 このままでは枯れてしまうけれど、もしも、生きるエネルギーにあふれている時間へ戻ることができたら、簡単に復活させることができる」
羽根「……意味がわかりません」
看護士「植物も人間も、同じだと言いたいの」
羽根「そうじゃなくて。あなたの言う『生きるエネルギーにあふれている時間へ戻る』とかって、意味がわかりません」
看護士「いい? 唯川夏目がエネルギーを使いすぎる前の、十七歳の時間に戻るの。そして彼女の魂を一時的に保護して、力を蓄えさせる。
 森の奥深くに生息する植物を保護するようにね」
羽根「そんなこと…」 
看護士「できるの。時間をさかのぼって彼女の魂を保護すれば、その先の時間での異常なエネルギーの消耗は避けられる。そうすれば過去の延長線上にいる〈現在〉の唯川夏目はふたたび目を覚ますでしょう」

(羽根が頭の中で必死に考えている様子を、看護士は見つめている)。

看護士「この方法には問題があるの。大きな問題よ。人間の魂を保護するためには、体から一時的に魂を切り離さなければいけない。だけど、いま話したとおり、魂は人間が生きるエネルギーを生み出している。体から切り離してしまったら、唯川夏目の命は文字どおり〈電池を抜いた時計〉のように止まる」
羽根 「十七歳のお母さんが死ぬっていうこと?」
看護士「奇妙に聞こえるけれど、そうよ。十七歳の唯川夏目の命の時計を止めずに、動かし続けるには〈かわりの電池〉が、どうしても必要なの
羽根「かわりの電池?」
看護士「あなたの魂」
羽根「わたし?」
看護士「唯川夏目の〈代替〉ができるのは、娘であるあなた。
 ただし、娘であっても長期間つづけるのは無理だわ。あなたの魂も消耗してしまうから。
 だけどね、あなたの魂の力は自分が思っているよりも強い、とても強いの。あなたが時間を稼げば、唯川夏目にはそれだけ力が残される」

羽根「……信じられない、そんなの。誰だってそうです。信じられるはずがありません」
看護士「このままでは唯川夏目はずっと目を覚まさない」
羽根 「作り話じゃないなら、やってみせて。できるんだったら、やってみせてください」
看護士「過去へ送りこまれたら、もう後戻りできないのよ」

(看護士の目を見て、羽根は悟る)。

羽根「これは……本当のことなの?」


ミーティングエリア・出版社(港区)

 
善如寺は顔を上げた。
 「ムリよムリ、わかる? ここに書いてることを信じるなんて、ムリだわ」
 扉が開き、バッグを抱えた編集者が事務所エリアからやってきて、二人を横目でちらりと見て歩き去った。夜のミーティングエリアは、ふたたび静かになった。
 座っている男の子は全く動じず、老人のように穏やかな声で返した。
 「ムリもないと思います。あなたはその場にいなかったから」
 「信じたの? 唯川夏目の長女は」
 
 男の子は善如寺にむかって、なんとも不思議な表情をした。それは、心の行間を読み取る訓練を積んだ善如寺でも、まるで理解できない表情だった。


長女と看護士の会話記録


(奇妙な話を聞いた羽根は、母親がいるICUの方を向いて考えこんでいた)。
 
看護士「どうする? 唯川夏目に残された時間は少ない」
羽根 「わたしに、お母さんの〈かわり〉になれというの?」
看護士「1987年の唯川夏目のね。もう時間がないの。選択をしなさい」
羽根「わたしはどうかしてる。こんなのまともじゃないのに。お医者さんよりもあなたの話を信じたいと思ってる」
看護士「じゃあやるのね」
羽根「待ってください! だけど、お母さんには才能があった。わたしなんかにない特別な才能が……わたしにあの人の〈かわり〉なんて、できると思えないんです」
看護士「あなたの言う才能というのは、顔のこと?」
羽根「それもあります」
看護士「かわいいと思うけど。あなたも、それなりに」
(羽根は、すごい勢いで、首を左右にぶんぶんふった)。
羽根「外見だけじゃないの。お母さんには、だれからも愛される才能があった。だれからもよ。それはとんでもない才能だった」

看護士「人はみんな、生きている間だけ、才能を借りているの。美しい人も、賢い人も、強い人も、たまたま才能を借りているだけ。
 借りたものは死ぬときに返さないといけない。永遠に才能を持ち続けることなどできない。人間は生きているあいだ、才能を借りているだけ」

羽根「人は才能を、借りているだけ?」
看護士「そう。あなたの魂が、お母さんの体に入るというのはね、お母さんの才能も、すべてあなたが一時的に借りるということなの。きれいな顔も声も。いや表面的なものだけではない。内面の才能もすべて」

(羽根はだまっていた――お母さんの才能を、わたしが…借りる?)

看護士「あなたは自分に才能があれば、きっと何者かになれると、心の中で思っていたんじゃないの?」
(羽根は、うつむいて黙りこんだ。――この人のまなざしは、こころの底まで見通しているみたいだ)

看護士「左腕にはめている時計を見て」
(針は止まっていた。ピクリとも動かない)
看護士「どうする? 1987年に行く? 行かない? もやもやした気持ちをずっと抱えたままで生きていく?」
(羽根は、目を上げてまっすぐ女を見つめた)。

羽根「証明してみせて。あなたが言ったことが、本当に起こるのかどうか」
看護士「やるのね? もう一度いうけれど、実行してしまったら、後戻りできない」

(羽根は、迷うのをやめた。もしこれが本当のことなら、実際にそうなってから悩めばいい。失うものはない……自分のからだ以外は。
いまの自分にできることはたった一つしかなかった)。

羽根「やります。過去でもどこでも行くから、お母さんの才能を貸してください。お母さんをたすけてください」

 その瞬間、止まっていた時計の長針と短針が、逆回転をはじめた。
 
 時計の針と周期を合わせるように、女の子をとりかこむクリーム色の壁がぐるぐる回りはじめ、どこからか強い風と眩しい光がふりそそぎ、とてつもない力で地面がゆれて……
 
 それが彼女の――「唯川羽根」だった時の彼女の、最後のすがただった。


つづく


★日本のソロアイドルが最後の輝きを放っていた1987年に逆行した少女は、母親の〈かわり〉としてスターへの階段を昇ることができるのか?
★この少年の正体は?


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