ドラマ感想 『名前を失った女神』

『名前を失った女神』を観た。

観た、というよりも、スキップしながら観終わった感じ。でも、物語の大筋は掴んだ。

職を失い、専業主婦となった侑ちゃんは子育てに専念するようになった。家族が引っ越して、新しい街に住むようになった。だがしかし、その街は笑い声が溢れる楽園ではなかった。あったのは、母親たちを雁字搦めする見栄えなど…ママ友にある残酷な現実が侑ちゃんの前に開いた。

このドラマの原作は、角田光代さんの『森に眠る魚』だった。ママ友の友情を描く小説だった。だが、ドラマのハッピーエンディングと違い、小説の中のママたちは疎遠になった。わたしはまだ原作を読んでいないが、とても残念な気持ちだった。しかし、『森に眠る魚』のモデルとなったあの事件は、残念を超え、残酷だった。

それは、通称「音羽事件」の「文京区幼女殺人事件」だった。

ママ友のAさんは息子と同じ幼稚園に通っているBさんの娘を殺した。

サクッとネットから拾った資料をまとめると、Aさんの家庭は複雑だった。同時に、彼女は摂食障害を患い、その過程を繰り返していた。その後、彼女は東京出身の夫と出会い、結婚に至った。

だけど、その結婚も訳ありだそうだ。夫は完璧主義者らしい。洗濯物の干し方まで口を出す人だった。

長男は生まれた。Aさんは長男の公園デビューで、Bさんと出会った。Bさんは育ちがよく、人とすぐ親しくなる人間らしく、AさんはBさんと仲良くなりたかった。けど、Bさんはお金持ち令嬢であり、Bさんの夫も資産家らしく、2人の住む世界があまりにも違かった。それに加え、Bさんは社交的な人間なので、次第にママ友が増え、Aさんと疎遠になった。

そこで、Aさんの被害妄想がひどくなり、Bさんの行動をすべて悪意満ちれる行動だとみなし…さらに様々な葛藤を抱く中で、彼女は犯行に至った。

まとめると、コミュ障が悪魔になった話だ。

ひどい話だ。

ネットで調べてみたら「コミュ障は親になる資格がない」みたいなことが書かれていた。

それはそうかも。

ここでいうコミュ障は、自称ではなく、本当のコミュ障だ。人との距離を把握できず、ちょっとだけ親切にされたらすぐくっつく、勝手に人を悪人だと間違えたり…精神が不安定で、やがて…殺人犯とかになってしまうような人だ。

それとは別に、人間関係が煩わしい、とか思っている人がたくさんいると思う。だから人間関係を断ち切る、そのメリットやデメリットを受け入れれば、それだっていいと思う。ただし、人間社会で生きていく中で、山奥に逃げ込まない限り、人付き合いを止めることは到底不可能だと思う。

学校の人付き合い、社会の人付き合い、ママ友の人付き合い…一時の関係から逃げられるだとしても、そのツケは回ってくる。だから、最初から、楽しめばいいじゃないか…と思うが、精神的に病んでいる人にとっては無理か。

それに、忘れられたこと、もしくは、無視されてきたこともある。それは、親子の間も、人付き合いだ。親子だからといって、最初からはお互いのこと知らないじゃない?血縁関係があるからと言って、なんでも理解してくれと言われてもしょうがない。言わなくても察してくれるだろうとか、言わなきゃわからないでしょうが。親子なんだからわかるだろう、みたいのも、ただの幻想だと思う。いい関係を築きたければ、それ相応な努力はいる。恋人だって、赤の他人に無条件に永遠に愛されるなんて、そんな虫のいい話はない。だから努力するのだ。それがわたしのモットー。その努力を辞めて、ただ単に相手を責めても、誰も喜ばない。だから、努力ができない、メンタルが強くない人は親になるなんて、辞めたほうがいい。悲しい事件が繰り返されるだけ、虚しい子供が生まれるだけ…

まぁ、精神が病んでいる人に言ってもしょうがないか、それは確かに病気だと思う。

だけど、精神が健全なわたしは、精神の健全を保つのに努力しないといけないだ。メンタルが強い人でありたい、善良な人でありたい。

たぶん、これは今日の感想だ。

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