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渡部泰明さんの『和歌史-なぜ千年を越えて続いたか』(2020)「はじめに」より。

 和歌の歴史の持続を考えようとするとき、個人的に忘れがたい言葉がある。

   縄目なしに自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語  
  の自由をもたらした。(寺山修司「僕のノオト」『空には本』)

 演劇・映画・現代詩等々、現代文化の諸領域に小さからぬ足跡を残した寺山修司は、俳句・短歌という定型詩をその表現の営みの出発点とした。一九八三年に没して以後も、表現者寺山への関心は衰えない。寺山は、自身がなぜ古臭い定型詩から表現を始めたのかを、右のように語っている。もう四十年以上前、国文学の卒業論文のテーマを決めあぐねていたときに、こうしたことばに出会った。私の場合、むしろ関心は、近現代の短歌でも文学でもなく、古典の和歌に向かった。ああいう八面六臂の活躍をする芸術家に言葉の自由をもたらした、定型というものの力の源泉を尋ねてみたかったのである。(5-6p)

「半農半X」も「1人1研究所社会」も定型。そんな視点から「型」と創造性など、探究していきます。





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