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熊野純彦さんの『和辻哲郎~文人哲学者の軌跡』(2009)、終章「文人」より、『古寺巡礼』(※1919年の出版、和辻哲郎20代の思索の作品、以下の青年とは和辻を指します)について。

 多くの論者が強調しているように、『古寺巡礼』は発見の書である。この国の近代に生まれたひとりの文筆家によるこの国の過去をめぐる発見の書であり、西洋の思考と芸術を潜りぬけた哲学者による、日本の美の発見の書であり、和辻そのひとがみずからの資質を発見する過程をたどる一書でもある。それは、だから、なによりもまた一青年の彷徨と自己発見との物語であった。いうまでもなく、彷徨と自己発見は、日本近代文学の特権的な主題なのである。
 青年は古寺を経めぐるちいさな旅に発つまえに、奈良京都にほど近い実家に一夜をすごしている。「昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった」(18頁)。青年は旅の途上で問いに対する答えを探しもとめていたにちがいない。「巡礼」はその意味で、ただ古刹をめぐり、古仏をたずねるだけの旅ではない。『古寺巡礼』は、その感受性の深さと測りあうほどに使命感も人一倍つよかった、一青年の彷徨の物語であった。
 大正の、そして昭和の青年たちは、おそらくはこの「自己発見」の物語にこそ深く感応したものと思われる。和辻は一書のなかで、大和路の古寺について、仏像について、感動をこめて語りつづける。そこには、逡巡と疑惑のさなか、みずから打ちこむに足る対象を見いだした、青年の喜びが脈うっている。
 この感激がひとびとをとらえた。和辻の書は、多くの青年を大和路の旅へといざなう。奈良そのものというよりも、和辻の一書にさそわれ、あるいはみちびかれて、どれほど多くのひとびとが「巡礼」を開始したことだろう。
 ある者はそして、生還を期することのない出征に先だって、すでに版が絶えて久しい『古寺巡礼』を探しもとめた。(229~230p)

昨日はジェイン・ジェイコブズと『アメリカ大都市の死と生』を紹介しましたが、この本によって、「ジェイコブズ以前」「ジェイコブズ以後」にわかれるくらいの影響を与えることになります。この和辻哲郎の『古寺巡礼』も「古寺巡礼以前」「古寺巡礼以後」となるくらい、人の視点を変えてしまう作品だったのですね。人を変える本。その後の世界を変える本。興味深いです。


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