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2022.06.22/リプレイ

今年1月に赤ちゃんが生まれたばかりの友人と、その赤ちゃんの顔を見に小田原へ行った。この赤子は兄が息を引き取った病院で産まれた子である。まったく関係ないけれど、なんだか不思議な縁を思ってしまう。

幼馴染3人が集まる。もう20年以上の仲で友人というか親戚に近い。もちろんそれぞれの親、兄弟、祖父母の顔も知っている。集まれば頻繁に互いの家族の話になる。

約半年ぶりに会った赤子はすくすくと成長して元気そうだった。今回、赤子の母である友人が「身内以外のニンゲンとしゃべりたい」という一声からの集まりだった。

どうしてもみんなで桃鉄がやりたくて、かねてよりリクエストしていた。「お菓子持ち寄ってピザ食って桃鉄やろう」。リクエスト通り桃鉄で遊んだ。兄とやりたかったゲームだとはさすがに言わなかった。そもそも兄と桃鉄をしたことは一度もない。これも私なりの供養の一つである。

私たち平成初期生まれの「楽しいこと」にはどうしたって、3〜4人でコントローラーやソフトを持ち寄ってゲームをする、という遊びが切っても切り離せない。そうやって「明日の体育だるいなー」とか文句言いながら生きてきたから今がある。

子供のころからたくさんのゲームや漫画、アニメに触れられたのは兄のおかげだった。いつも兄の趣味のおこぼれをもらって、気がつけば自分の趣味にもなっていた。自分が思っている以上に、私の人生に兄が食い込んでいて、影響を受けていることに今さらながら気がついた。

近頃「存在」についてよく考える。社会ではよく「生産性」について語られ、先日もこの日本という国では、結婚が一対の両性によって子供を産み、育てるためのものということが明示された。国民一人一人の意志などどうでもよく、効率よく生産してほしいらしい。そんなことは分かりきっていたけど明言されると凹む。あまりの意識の違いとその断絶に。彼らにとっては、生産に結びつかない同性婚など言語道断なのだろう。向こうの言いたいことは分かるけど、令和の限界と現実に目を瞑りたくなる。

まるで生産性があることで、初めて存在を認めるような口ぶりだと思った。ただそれは今に始まったことではなく、遥か昔から人間社会はそうやって動いてきた。だから結婚しない人は白い目で見られ、結婚すれば子供はまだか?と聞くような社会がつい先日まであった。「働かざる者食うべからず」という言葉もある。

その視点で語れば、私なんか税金を払ってる他に生産性はカケラもない。結婚の予定も出産の予定もない。兄も同様だった。その生産性のないとされる兄が存在してくれていただけで、生産性のない私も救われていたことに気付く。

「生産性がないとされる人」と「若者」はだいたい社会ではスルーされている。この二つがかけ合わさった私たちは透明人間に等しいのだろう。それはそれで生きやすさもあるので、ここでとやかく言う気はないが、透明人間は透明人間なりの世界がある。透明ゆえに世界が認識してくれていなかったとしても、まさしく我が家の一員として一人の生命が存在していたのは事実で、それはこれからも変わることはない。

ただ「兄がいる」私と、「兄がいた」私ではもはや別人のように感じる。見える景色の色を一つ失ったように思う。脳の奥でそれだけがずっと引っかかっている。

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