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人間2周目の俯瞰

夜になると咳が出る。朝起きても咳が出る。

傷心中の友だちが心無い人の言葉でさらに心を痛めていた。ただでさえ傷だらけなのに、普段だったら我慢してしまうであろうことを話さずにはいられなかったようだった。私もその心無い人から同様のことを言われた時、あまりの怒りになんて返したか覚えていないが、「あなたとは価値観が全く違うので、二度とそういう話をしないでくれ」といった風に取れる言葉を返した気がする。ニュアンスが伝わっているかは不明だが、確かに二度としなくなった。

記憶が確かであれば、怒りのあまり母に「なぜ年配の人間はこうも、人が異性愛者で結婚願望があり、子供を産み育てたいものという前提で、アドバイスのつもりであろう説教をしてくるのか?こちらが子供を産む意思があるかないか、産める機能を持っているのかどうかもすっ飛ばして」と話した時、ぽかんとされたことに軽く絶望したのを覚えている。

どうしてこの状況で結婚だの出産だの、それにより親が喜ぶだのの話を平気でしてくるのか、理解が到底できなくて嫌悪しそうになる自分を宥める。どうして、「私はできたからあなたもがんばれ」とトンチンカンでこの世で最もいらないアドバイスができるのか。傷ついてるんだから今は生きているだけで精一杯の人に、励ましなんかいらないだろう。結局、元気になったその人を見て自分が安心したいだけだ。どこまでも優しさのふりをした自己満足に苛立ちを覚える。

いい人なのは知っている。だが大抵敵は味方の中にいる。わかりきった悪党は別として、日常に潜む敵は善良な市民の顔をしている。しかしいい加減に法で罰してほしい。心無い人、と表現したが実際は動物や植物を愛して、人によって態度を変えない、誰よりも優しい立派な人と思う。しかし独りよがりで頑固な短所が滲み出たとき、そうやって簡単に人を傷つける。無意識に。鋭利なナイフを持って刺している自覚がないのだ。そんな人に気づかせるには頭から冷や水を被せるしかない。受け入れられる土壌があればの話だが。

こういうとき、相手を人間一回目の存在として認知することが自分にとってとびきり有効なのは、私と友人の共通認識だ。俗世で生きていくのに煩わしいことが多すぎることも。しかしそんな世界に大好きな人たちがいる、いた、ということも。

じわじわ怒っているところにまた突然の訃報が届く。なんでこんな若い人ばっかり死んでいくんだろう。今のところみんな原因は病気だ。人間の身体って意外と柔だ。あっけなく死んでしまう。「人間、いつまでも死なないと思い込みすぎ」という話に落ち着いた。明日死ぬかもしれない可能性はいつもあるのに、いつの間にか忘れている。本当にクサクサしてる暇ないな、やりたいこと全部やろう、着実に生き急ごう。

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